| 出雲そばの風土と伝統 ↑目次 ↑トップ
白石 近年、食生活が非常に多様になってまいりますと同時に、均一化されたような傾向があります。そして本当にうまいものは何なのか、そういうところから伝統的な食文化への志向もまた強くなってきていると思います。
このような時代の流れのなかに、日本の長寿社会が注目されてまいりますと、その底に、そばといったような伝統的な食べ物が大きな意味をもっているのではないかというような研究の経過もあります。
出雲といえば「出雲そば」と、古くから言われております。そばのうまさと現代の健康食の一つとしての面、両方の観点をからめ合わせながら、伝統食のひとつとしての出雲そばについて、良さとか特色について再認識してみたいと思います。そして、今後改めなけねばならない改善点についても触れてみたいと思います。そばの歴史を見ますと日本には非常に古くからありますが、高瀬さんこの点についていかがでしょうか?
そばの歴史 ↑目次 ↑トップ
高瀬 私は歴史の専門家じゃなくて、その点はよくわかりません。しかしそばの歴史は実のところ何も分かってないんですね。そばっていうのはだいたい庶民の食べ物ですから、はっきりした記録に残るようなものがあるわけではないし、伝聞、風聞の書ばかりです。そういうものはたくさんあります。どれが本当なのか、歴史の資料として足るようなものはほとんど何もないといっていいんじゃないでしょうか。
その前に、そばっていうものは、植物としてのソバとそば切りとしてのそばとの二種類が両方とも日本語ではそばになっているものですから混同しやすいですね。その、そば切りとしてのそばは意外と新しいですね。そんなに古いものではない。植物としてのソバは、私の専門外のことですがいろんな縄文遺跡から化石としてそばの花粉がたくさん出ているということは聞いております。ですから、そばそのものは日本では縄文時代から食べてたんじゃないかと思うんです。どこから入ってきたのかということについてはいろいろな説があります。最近ゲノム分析という染色体の状態や近似性でもってそのルーツを探るという新しい方法によりますと、中国の雲南省あたりから伝わってきたと言われております。
白石 そうですか、そばというものは、民衆の間で貴重な食べ物として生き続けてきたということですね。それゆえに根強いものがあるかもしれません。確かに考古学的な発掘によりますと縄文の時代にまでさかのぼることができます。ところが、日本最古の歴史書の『日本書紀』を見ますと、いわゆる米というものに対する関心が非常に強いんです。一般に米というと、これは「たなつもの」と言いまして上流階級を中心にする食べ物であり「あおひとぐさ」と称される庶民の食べ物は「はたけつもの」と言います。そのはたけつものの中に取り上げられているものが、麦、粟、豆、それからひえです。そばは入っていないんです。あおひとぐさが食べる四つのものは確かに重要な食程ではあったんですが、一方でそばというものは特に農民の間では非常に重要な食べ物とされてきた。記録にはないんですが大きな意味を持っていたと思われます。
高瀬 五穀といいますのは、豆は違うけれど、それ以外は禾本(かほん)科です、稲科です。ところが、そばっていうのはたで科なんです。草なんです。だから系統がちよっと違うかもしれません。
白石 なるほど、それから芋も食物の中に入っていないですね。意外と里芋というものは重要なものであるのにかかわらず入っていない。さきほどおっしゃるように、そばというものは区別されていたのかもしれません。
高瀬 そばは五穀にくらべますと、食べ方がむずかしいかもしれません。話が先にいくかもしれませんが、そば切りですね、麺としてのそばをそば切りという言い方をしますと、そのそば切りがいつ頃できたかということはいろんな説があります。
白石 そばは五穀類とは系統が違う点がわかりました。
それからもう一つ日本人の好みは一般に主食の米でも粘り気があるものを好みます。ジャポニカという種類ですね。赤米といったようなさばさばした米は普及しなかった。収穫量は赤米の方がはるかに多いんですけど、普及しなかった。やはり粘り気のものを好むことからそばはいわゆるメインとなるべきものにはならなかったかもしれません。
そしてもう一つは、たとえば平安時代の頃は、黒とか赤とかいった色が重要視されています。ところが平安時代を過ぎると、白とか青とか紫が出てくるわけです。米というものが中心になってくると、白の文化が重んじられてきます。それに対して、一般の人々はやっばり畑で作るような、黒といったような色に村しての愛着が強い。ただ儀礼食としての大晦日のそばというものはありますが、神社などの神僕ものとしては、米作中心地域ではそばの神饌というのは少ないのです。
例外的に島根県石見地方の大元神事というものがありますが、これにはそばを五合ずつ詰めるというのがあります。一般には米は供えるがそばは供えない。だけれども民衆の間ではしたたかに作られ、そして味のすばらしさに気付いた人がいたりして、大事にされてきました。江戸時代に入りますと、よく知られていることですが「民衆は米を食べるな」といったようなお触れが出ています。出雲地方でも延享四年のお触れ書に「天下の御走にも百姓は木綿を着し、そして雑穀を食うべし、みだりに米を食うべからず」と書いて出しています。いわゆる法度ですね。これは全国に行きわたったものです。ただ正月の三ヶ日は米とか餅というものは大切なものとして民衆にも認められています。お祭りの時もそうですね。「米をみだりに食うべからず」ですから、一体民衆や農民は何を食べたかということになります。その点においてそばは非常に大きな意味を持っていたという気がいたします。
高瀬 もうちょっと時代が下がりますと江戸の中期以降でしょうか。そうすると今度は逆に客が来た時に必ずそば振る舞いをするという地方が多くなります。おそらく当地もそうでしょうが、たとえば会津に行きますと、必ずその家の主人がそばを打って客をもてなします。言い換えれば、ハレの食事ですね。
白石 おそばが、逆に米の文化が強くなってくればくるほど、それに対して一つのショックを与えると申しますか、たとえば儀礼ごとに小豆飯を用いるのは、民俗学の立場からですが、マンネリ化した白の文化に対して赤い小豆飯を与えることによって、そこにショックを与えて、活性化を図るという、ハレとケの関係を見ることができます。一般の農民にとってそばは日常的なものであるかもしれませんが、米の方から見ると非常に貴重なハレをもたらすきっかけをなす文化的装置であるかもしれません。だから大晦日に食べるということになったのかなと思います 。白に対するものとしての黒となったのではないかと考えられます。それから、もう一つにはそばというものは保存がきく点があります。保存しておいても虫がつかないですね。そしてどんなやせた土地でもできます。湿気は嫌いますが、よくできます。収穫量もだいたいそばの種一升に対して一斗できます。
高瀬 それは場所によりますけどね。
植物としてのソバ ↑目次 ↑トップ
白石 そうですね、よくとれる所ですが、だいたいそれぐらいはとれます。粟なんかはその半分ぐらいしかできない。加工は大変だけれど割合に手軽くできて、保存が良い。この点が備荒作物として、救荒作物として、飢饉に備えることができる食物として栽培されてきた理由ではないでしょうか。
高瀬 干ばつに強いです。それと非常に早くできます。そばは七十五日と言いまして、蒔いてから75日でとれます。人のうわさが消える頃というわけです。こういったプラスの面が他の物にくらべてそばにはあります。
これは世界中の傾向ですが、土地のやせた所でつくるんです。だから日本でもそばの産地というのま、三大産地と昔から言われている所、福島県の桧枝岐、徳島県の祖谷、信州の川上村などはそばしかできないような所だったのですね、ですから他のものができないような所で作れるという利点がある。これは日本だけではなく、フランスでもドイツでもそうですね。ハンブルグの辺にハイデという荒地がありますが、そこでそばを作っています。そこもやはり麦の作れぬところなんです。フランスに行くとブルタニーとかね、あそこは寒くてやはり麦はできません。そこでそばをよく作って主食といってもいいほど食べてます。ですから、どうもそばというものは、他に米とか麦とかが作れるような場所では作らないです。
白石 私は民俗学をやっていますが、おっしゃるとおり、焼畑をやつているところは、ほとんどそばを作っています。ですが日本の文化は多様でして、多様の中で米というものを非常に重要視してきた歴史があります。米の方から見たらそういう産地はあまり山木ができない所だからマイナスイメージがあるかもしれません。しかし、逆にその産地から見ると、山木の視点では見えない優れた文化があり、優れた要素があると言えます。そういう視点で見つめ直していくことが必要かもしれません。
高瀬 そうですね。今我々現代人はそば文化などといって、そばそばと騒ぎますけど、僕なんか子供の時の記憶ですと、「そばがき」っていうのは嫌いでしょうがなかった思いがあります。
私以上の世代の人は皆そうではなかったかと思います。そばはたまに食べるから良いんであって、あれ毎日毎日食べさせられると嫌いになるんじゃないか、毎日の食事なら私は米だとか麦の方いと思いますね。
白石 私は石見人ですが、石見地方に行きますと、ほとんどそばですね。以前メモしておいたことがありますが、「そばがきおなご」と申しまして、そばは色が黒いものですから、顔色が違ってくるほどにそばを食べる人がおり、おまえの顔が黒いのは毎日そばを食べているせいだと言われるわけですね。それくらいよくそばを食べたということです。粟・そば・ひえは俵に詰めて保存する。米は供出しなければならない非常に貴重なものです。米の方から見るとマイナスの文化かもしれませんが、そば、大根、粟といった多様の畑作物の文化から見たら、豊富な文化かもしれません。ただ、そばだけ食べておりますと、のどが変になると言うんです。「また、そばがきか」と思うようです。
今後のことを考えますと、今、米あまりと申していますが、米の文化などいろんな食文化の中で、そばを見直すならばもっともっと今まで以上に大きな意味があるかもしれません。そば切りというものは、なかなか上品でうまい食べ方ですね。一般にはそばがき、そばだんご、あるいは焼き餅にして食べていたんです。この点高瀬さんは詳しいと思いますが、いかがですか?
そば切り麺としてのそば ↑目次 ↑トップ
高瀬 私は数学が専門でして、そばが専門ではありません。しかし、色々な本を読んだり人の話を聞いたり、自分で栽培したり、自分で石臼でひいたり、打ったりしているだけのことなんですが、日本ではそばっていうといわゆるそば切りになってしまいます。後は焼き餅みたいなこともやりますけれども、それからやなぎばっととかいって、ようするにそばがきみたいなものですね。ところが実はそばは日本だけではなくて、世界中あるんですよ、ヨーロッパの方などにも。
20数年前にドイツに初めて行ってそこにそばがあるんでびっくりしました。要するに、さきほども申し上げましたが、そばっていうのは、たで科ですから雑草です。どんなところでも蒔けば生えるわけです。どんな土地でも必ず、アメリカであろうと、アフリカであろうと、キリマンジャロの高原であろうと蒔けば生えるんです。食ベてうまいかどうかというのは別問題なのです。ただ、麺で、そば切りで食べるのは日本、ほとんど日本だけだと思います。
白石 そうですか。ヨーロッパの方はどんな食べ方をするんですか?
高瀬 ヨーロッパの方にはいろいろな食べ方があるんです。麺にして食べることはほとんどありません。私の知っている限りでは、トスカナ地方、北イタリアの方ですね。あそこはスパゲティの中に入れて打つというやり方をしています。それ以外で、麺でそばを食べるって話はあんまり聞いたことないです。それから麺の話をしますと、朝鮮で、韓国で冷麺なんかに入れます。それから中国に行きますと、南の雲南省、ネパールあたりに、押し出して、ところてんみたいに押し出して食べます。そのくらいではないでしょうか。ですから、そば粉百パーセントでもって、水や湯でこねて、のして、切ってなんて食べ方をするのはこれはもう日本特有のものではなかろうかと思います。そばに関する日本独特のものと言えばそういうことだと思います。
白石 さきほどから高瀬さんの話をうかがいまして、たで科の雑草のようなものであり、ヨーロッパなど世界中にそばがあり、さまざまな食べ方がある中で、日本はそば切りというすばらしい食文化を生み出した、これはおもしろいですね。
高瀬 そば切りがいつ頃始まったかについてはいろんな説があり、四、五年前までは『慈性日記』にある記述(1614年)が歴史的に認められる記述としては初めてだと新島繁さんが言っていましたが、その後、それより40年前に遡る頃、天正年間にもうすでにあったという記録(1547年)が最近出たんですね。ですから今後はもっと古い時代に遡れるかもしれません。考えてみれば、平安時代に遣唐便なんかが行って、すでにうどんは入っていたわけです。うどん、そうめん、さくめんですね、だからこういうものを頭において作ったのだろうと思います。私の個人的な考えですが、誰が初めてそばを考えたのかというのならば、人間なら誰でもそういうものを考えるのではなかろうかと思います。最初はそばがきみたいな団子にして食べたでしょう、汁か何かをつけてね。だけど、細長くすればたくさん汁がつくでしょう。団子のまま食うより細長くして麺にして食べようってのは、これは誰でも考えつくことではなかろうかと私は思います。
そば切りの発祥地は本山宿であるとか棲雲寺であるとか、伝聞、風聞の書では江戸の初めぐらいにできたと書いてあります。ただはっきりしているのは江戸で始まったものではないことは確かです。どこかから江戸に入ってきたんです。そして入ってきたのが菓子屋さんだと言います。これはおもしろいことです。お菓子屋さんが、葛切りの技法といっしょに考えたようですね。今の江戸そばの職人さんの打ち方は麺棒を三本使って打ちますよね。あれは、葛切りの技法なんです、でん粉使ってね。しかも今、蒸寵というざるの上に乗ってますが、あれは蒸したんです。昔は、うどん粉をつなぎに入れるなんてことを知らなかったから、それを鍋に入れて茄でたりするとどうしてもちぎれてしまいますからね。今の技術ですれば切れずに打てるんですが、生粉打ちといって、そば粉百パーセントでも打てます。おそらく当時は製粉もきちんとしていないし、そういう技術もないものですから、その切ったそばをそうっと、ざるの上に置いて、蒸籠の上に置いて蒸したんです。そういう記録も残っています。だから今でもそばを蒸籠の上に乗せるのは、菓子屋がやっていた蒸しそばの名残りだろうということは充分にうなずけるんです。
槻谷 私は毎日そばを打っていまして、製粉も自分でしています。ことに梅雨から夏の時季には原料を氷温倉庫に入れているんです。そしてそこから出してきて水分を計ってやるんですが、石臼がつまってだめなんです。脱皮は機械を使ってやります。石臼と製粉の関連については後で話題にのぼると思いますが、製粉が始まった頃に、脱皮なしで石臼で製粉しょうとしたらかなりむずかしかっただろうと思います。
高瀬 むずかしいですね。
槻谷 そういうことを考えると、そば切りができるまでには相当の困難があったと思います。簡単にはそばは食べられなかったと想像します。中国から粉食の文化を誰かが伝承するということがあって、初めて、おそばは成り立ったのではないかと考えます。
高瀬 様々な問題が、存在したと思います。
藤間 脱皮とはかたい皮、枕の中に入れるあれのことですか?
槻谷 そうです。米の場合は中がかたいのでカラが簡単に取れますが、そばは逆なんです。へたにやるとみなつぶれてしまいます。そこらあたりのことが非常にむずかしいです。
高瀬 それから篩の問題もあります。麺にするには相当のメッシュの細かいものが要求されます。
槻谷 そういうことが解決されて初めてそば切りというものはできてくると思います。歴史的な面、実際面で見てもそこらへんの技術が大変だったろうと思います。
藤間 水車でつきますね、時代的には後になってからでしょうが。
石臼について ↑目次 ↑トップ
高瀬 私は、そば切りがいつできたかという議論をする前に、石臼について調べる必要があると思います。石臼つまりは製粉技術がいつ入ってきたかということと関連して調べないと本当のことはわからないと思います。つまり今の石臼ですね、手まわしの、ああいうものはおそらく中国から入ってきたんでしょうが、石臼がないとそばは麺にならないと思います。それ以前のひき割りみたいなやり方ではそばはつながらないと思います。ひき割りのようなやり方でやっている時は、そば餅とかそば団子とかそばがきですね、そういった風な食い物にならざるをえないと思われます。そばの歴史を書いたものを見ても、石臼のことに触れている本はあまりありません。私はそのうち暇ができたら石臼を調べてみたいと思っています。今までにも少しは色々な本を読みあさったことがありますけれど、石臼もこれまたいつ頃日本に入ってきたかということについての確固たる資料がないようです。
石臼は、室町の初期ぐらいに中国から入ってきたようです。太宰府の観世音寺にとっても大きなものがありまして、私、同志社大学の三輪茂雄先生といっしょに見に行きましたが、あれは平安時代のものです。
石臼には碾と磑の両方があり、磑というのは挽き臼で、碾はたて臼で転がしてつぶしていくものです。ロールみたいなものを転がしてつぶしていくわけです。碾が先か、磑が先かという議論もあります。
今でもありますが、製粉も杵つきといって、杵でついたものもあります。この辺のことをきちんと調べようとすると文献もないし大変だろうと思います。
藤間 臼で、古いものは泥でこしらえたものもあるんじゃないですか。土日で大きいものを見たことがあります。問題は、石臼で摩擦の時に出る熱の影響ではありませんか。
高瀬 石の種類が問題です。実は私も自分で石臼を作っているんです。ポイントはどういうミゾを切ったらいいのか、どういう石を選べばよいかということです。
槻谷 おっしゃるとおりいくつものミゾのパターンがあります。どれがいいのかというのはなかなかむずかしいんです。焼畑などでそばを栽培して、収穫した玄そば、そばの実を食べる時に、外皮を取り除く技術がいりますね。祖谷地方では塩茄にして干して膨張したところを皮を取って食べたと聞いています。
高瀬 それはね、案外古くからあるんです。いわゆる「抜き」ですね。石臼の間にリングを入れて上へ浮かすんです。上をさわるぐらいにしてやるんですが、ワレになってうまくいかないことが多く、この方法では丸抜きがむずかしい。
槻谷 米のようにきちっともみがらを取るっていう作業はむずかしい。
高瀬 最近は、回転する円盤にぶつけてますよ、ウレタンゴムみたいなのにぶつけて。あれでわりと完壁にむけるようです。
食文化としてのそば ↑目次 ↑トップ
藤間 だいたいいつ頃でしょうか、今日でいう遊びといいますか、そばがお座敷芸のひとつのように格上げになったのは?
高瀬 お座敷芸になるのは江戸の文化文政時代ではないでしょうか。松平不昧公なんかが出て、滝沢馬琴が出たりして。いわゆるそば文化ができるまでには、室町末期にそば切りができてから二百年、三百年かかって、いろんな試行錯誤があったろうと思います。江戸ッ子の嗜好品の中に登場して整理されていったんでしょうね。
槻谷 白石さんはそばは高機能食品と言われますね。ただ、カルシウム分はほとんどありませんが他のものは結構あります。
古代の人は、体が必要としたと申しますか、おいしいと思って食べたといいますか、そういう見方ができますか?
白石 そばはですね、腹持ちが悪いというんです。消化が良いせいでしょうか?一般に食事の回数は江戸時代頃までは一日二食だったのが、三食になったと言われています。ところが、農村に行きますと、農繁期などには六回も七回も食べているんです。そばがきにしたりして。
藤間 それはいつ頃ですか、年代は?今おっしゃった、一日に何回も食事したというのは。
白石 昭和34、5年頃の調査で、できる限り古い時代ということで昭和初年を時点として調べてみました。昔は、農村では六度も七度も食べた。ただきちんとした食事というわけではなく、ハシマ(間食)と言われるような食べ方です。そばがきなどいろんなものを食べました。特に夜は、そばがきを食べる。あるいはどじょう汁といって、そばを切ったものを汁に入れて食べる。体がぬくもると言われています。そうしないと腹持ちがしない。そういう意味では米の方が確かに腹持ちがするし、カロリーも高い。
高瀬 そばは案外カロリーが高いんです。だけど水分が多いものですからね。そば切りにしますと水分が多くなります。それでそばは消化がいいとか、カロリーが低いとか言います。今、手元にデータはありませんが、米と比べるとそば粉の方がカロリーは高いと思います。小麦よりも高いはずです。一般的にそばはカロリーが低いと言われますが、実はそうではなくて、水分が多いために、すぐおなかがすいてしまうのだろうと思います。
白石 さきほど話に出ました、外皮を取る時に、いっしょに甘皮もとれてしまうんでしょうか?
槻谷 いや、甘皮はとれないです。
白石 甘皮をいっしょに食べた方がうまいという人があります。このあたりのことをお聞きしたいと思います。高瀬さんどうでしょうか?
高瀬 それはひきぐるみと言いまして、昔から出雲そばはそうだと思います。そばの製粉には二種類ありまして、黒皮だけ取って甘皮と中身だけをひくやり方と、黒皮ごとひいてしまうやり方とがあります。そばの実の中心の部分はでんぷん質でして、15パーセントぐらい、純粋なでんぷんですね、その部分だけ取ってそばを打ちますと、更科そばといって真白なそばになります。御前そばとか、更科そばとかいいます。
外側にいくにしたがって蛋白質の量が多くなってきます。外にいくにしたがって、蛋白質といっても種類が違うんです。そして、色はだんだん黒くなっていきます。最後に外側の甘皮になるわけです。さきほどからそばは黒いという話が出ていますが、甘皮まで全部ひいたそばは、ひきぐるみと言いますが、ひきぐるみのそばは黒い色になります。江戸の中期以降になると、そば文化に花が咲きます。そしてその頃になると黒いそばなんか、そんな田舎そばなんか食えるかって言ったんですよ、当時の江戸っ子は。しかし、黒い田舎そばが本当のそばの味だという見方もあります。
藤間 そうすると出雲そばは田舎そばをずっと堅持していることになりますね。参勤交代で江戸や京都の美食文化に親しんでいた不昧公は、どういう思いで出雲のそばを食べていたんでしょうね。56歳で隠居して68歳でなくなるまでの12年間、大崎(品川区)の別邸で過ごし、お茶会でそば会序を催します。すでに、茶禅一味の境涯の中で、まさに天下の数寄大名として君臨しています。茶の湯の懐石は精選された高度な食文化のひとつです。それに対してそばは庶民的なものです。両者を対比しての見せ方は、色々な解釈の仕方があるんじゃないですか。そばのような一般的なものでも呈供の仕方ひとつでうまいものがあるんだぞということを言いたいのかなと思わないでもありません。
私の家も元は本陣宿で松江藩の殿さまや勅使がお泊りでした。そこでどんな時に殿様にそばを供したのか、こんな記録があります。そばは普通、ハシマに出します。本陣宿の記録の中にこれは最後の藩主松平定安侯の献立です。お昼には本膳が出て、夜食にもご飯が出ています。それで、翌日の朝にそばが出ています。具にはながつお、おろし大根、のりです。また他の記録では夜にハシマで食べていることもあります。一方、これは不昧公が再三泊った阿井の名家桜井家の記録ですが、「御宿、御膳献上奉る。御献立、三宝にながのし、……」とありまして、いわゆる熨斗引きから始まって、配膳に入ります。まず本膳です。主菜に焼き魚、酢のもの、さらに被蓋に酒の肴として鯛の浜焼きがつきます。海の遠い山中で大層な振舞で鯛やいろんな肴がついております。また、夜食にうどんが供されています。あのそばが好物だと言っていた不昧公にここではうどんを供しているんです。どう解釈すればいいでしょうか?
高瀬 お茶人というのはそういうことをやるんじゃないですか。そばの中心地に行ってそばを食わないでうどんを食うなどというしゃれたことをするんじゃないですか。それともう一つ時期があります。これはいつ頃ですか、時期は十月ですか?
藤間 10月です。
高瀬 10月ですと、まだ新そばに早いんです。そばは一番まずい時です。そばなんか食ってもしようがないからうどん食うよ、こう言っているんじゃないですか。
藤間 それだと理解できます。ちなみに不昧公はそばが大好物で、こんな自筆の喜捨文があります。「茶をたてて、庭をつくりて、そばを食い、その他にすることなし、可々」
松平不昧公とそば ↑目次 ↑トップ
高瀬 松平不昧公ほどの人だったらそういうことはちゃんと知っていたのではないですか。
藤間 不昧公が考案したといわれるそば懐石は、普通お吸いものの汁椀は二種類あって味噌汁椀と澄汁の椀です。ふたをしたままで中のものが分かるように考案されています。つまり椀の型がふっくらとした重厚な感じのものはふたを取らなくても中味はおみおつけで、さらっとしてシンプルな型のお椀の中味はすまし汁が入っている。このそば椀は特殊で、普通のお椀よりもすこし大きめでしかも小深い型で、無地塗りや木地もありますが中には金蒔絵の椀もあります。そばの食器に金蒔絵が施されているのは大名に供する食器だからです。また台付向付は京都の栗田焼きで別注の猪口で中には大根おろしの汁が入っている。そばがおいしい時は大根もおいしい。このおろし大根のしぼり汁を飲みながらそばを食べる。お膳は主食ではないので足のない折敷膳という一番簡粗な膳が取り合わされています。茶席での懐石料理という独得の佗び文化の世界での登場です。
このそば椀は分解され、椀のふたはだし入れになります。具は懸子に入っており、その下のお椀にそばが入っています。食べ終って椀のふたをしますと元の姿にもどります。
高瀬 これが懸子ですか、ここへかけて食べるってことはしないんですか。
藤間 椀の蓋に入れただし汁につけて食べます。これは我が国の食文化の器の中できわめてよく考えられた椀です。どんな時でも食器は盛りつけられた美しさが魅力です。使った後は器の汚れが見えるので、食べ終ると椀のふたをしまして、元の姿にもどします。初めお膳にはそば椀、猪口、だし汁入れや箸が整然と配置されて、見た目にも美しい。すばらしい日本的な様式美の完成した形をみせています。
高瀬 禅宗の呉器と同じですね。
藤間 呉器は自分で掃除しますが、そこまではしないまでも、美的な配慮があるところがそば懐石のセットと言えます。
私は、古くから出雲そばを代表する生産地の仁多が女房の里で、よく訪れました。そこではそばは客の顔を見てから打てと言いました。そばの実が俵に入れて吊ってあり、当座使いは別に粉にして備前焼のつぼに入れてありました。普段でも来客の多い家で、お客にはお茶を供し、時候の挨拶や世間話をしている間にそばを打ち上げるのです。そばができるまでの間、来客を飽かずに待たせるのに、美術品なぞを観照したりして、時間をかせぎ、出来たてのそばを呈供するわけです。
江戸時代には、10万石以上の大名は、毎月土地の名物を将軍に献上する定があり、出雲は18万石ですから、毎月ですね。そばは11月で、八川そばが献上されています。
高瀬 八川?
藤間 仁多郡横田町の字名が八川という所です。この地域に、かつて松江藩主から鉄師頭取役を許された絲原家があり、歴代にわたって夕タラ製鉄を稼業としておりましたので、木炭用の雑木の山がたくさんありました。夕タラ製鉄では砂鉄の十倍の量の木炭がいります。明治以降は建築材の造林山になりましたが、それまでは雑木の山が大事だったんです。くぬぎなどの雑木を切った後に、根株を山焼きし、焼畑をします。そこにそばの実を畝も切らずにパァーとまくそうです。灰が適量な肥料になって自然栽培にはもってこいです。ところが、問題はそばの花の頃に霜がおりることです。そばは霜がおりると全滅するおそれがあり、自然の条件がそろった時にはよくそばができるそうです。
高瀬 そこは海抜何メートルの所ですか?
藤間 約六百メートルです。
高瀬 そばの栽培にはちょうど良い高さじゃないですか。さっき藤間さんの話の中で、江戸の白いそばを食べてきた不昧公が出雲に帰ってきて、黒いそばを食べた話がありました。小林一茶という俳人がこんな句を残しています。「そばの花、江戸のやつらが何知って」。彼は信州人で、おまけにへそまがりだったらしいので、江戸の連中が、そばがうまいだのまずいだのと言っているが、やつらにそばがわかるものか、と言っていますね、そういう気概が出ている句です。おそらく不昧公も江戸っ子など更科そばなんか食べて、つゆが甘いの辛いのと言っているが、何をぬかしやがると腹の中では思っていたんでしょうね。ただ不昧公は文化人ですから一茶のように口に出して言わない。不昧公ほどの方ですから本当にうまい、まずいの区別はちゃんとついていたでしょう。
藤間 そりや、江戸料理を代表する割烹の八百膳で遊んだ食通ですからね。
高瀬 出雲へ帰ってきて、本物のそばをつくつて、江戸の皆さんこっちへ来てひきぐるみを食ってみろ、こんなにうまいんだぞと言いたかったのだと思います。私の知っている範囲では不昧公はそばの食べ方について、もっとすごいことを言っています。江戸っ子は、つゆをちょっとつけて、噛まないですすり込む、これがそばの通人の食い方だと言っていました。そばは口でなくのど越しで食うのが江戸っ子だと言うわけです。そのことに関して不昧公は、そばは少し辛目のつゆをつけてよく噛んで食えと書いていますね。よく噛んで食べる方がそばの味がよくわかるというわけです。不昧公の、江戸そばに対する抵抗といいますか、気概を感じます。
白石 江戸と出雲のそばの大まかな違いが出てまいりましたが、そういう意味では不昧公はいわゆる出雲そばを完成させたというような印象を受けます。
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藤間 そうでしょうね。食文化も美術鑑賞もそうで、こだわりの文化です。体験的な比較においての自己啓発ですね。
昭和45年でしたか、昭和天皇が玉造の長楽園にお泊りになった時、私も一週間泊って御座の間の飾り付けのお世話させていただきました。その時に県庁の物の歴史を知らないお役人さんたちが出雲のそばは割子だ割子だと言うんで、割子そばに決定した。しかし、私の考えは違うんです。割子は軽便な食べ方であると思っています。割子のできた目的は野遊びの桜狩りや紅葉狩りに出る時に持っていく必然性の申し子で、持運びのそばの器です。しかし、そばの味が落ち、具も寝てしまい、香りも失せている。以前は近所のそば屋も、割子の一番上の段に具だけを入れて、下にそばが入った割子があった。容器も、丸になったのは明治からで、私の家にあるものは、長丸ですね。
高瀬 長丸のね、小判型ですね。
藤間 これは箱書きによれば明治9年なんですが、桜井家には寛政2年のものがあります。もっとも20枚位入り、うすいお膳が五枚添えられています。
高瀬 ずい分大きいですね、この割子は、大型ですね。
藤間 けっこう大きいです。ほかに角なのがあります。一番安いのは角ものです。これはへぎ板ですから金がかかっています。栗色の漆かけて。ちょっと高級です。庶民のものは板を五枚合わせたものが多かったでしょう。ところが明治に入りますと保健所ができて、衛生のことをやかましく言うようになって、角ですと隅が洗いにくく衛生上問題があることからとその筋からの指導で、簡単に洗える丸に代わる。これはろくろをまわして切れば簡単にできます。丸の割子は明治以降です。それまではなかった。
今日ここに持ってきましたが、明治4年に記録された杵築村(現大社町)の商業調べの文書です。大社町というのは出雲大社の門前町で、よそから多勢の参詣客が来るところで、そこの市場村ですが、石見の国からの石州街道に面した所、間近に出雲大社が見えてほっとする所ですね。ここに米つき屋、薬屋、古着屋、荒物屋、瀬戸物屋などあり、ぞうり、わらじ、豆腐、綿打ち、針金、駄菓子、柿、果物などなど生活用品の店があります。こうした中にそば屋が三軒もこの街道筋にあります。さらに出雲大社に近い所に米屋、荒物屋、魚屋などたくさん出ていますが、注目されますのは約30メートルの通りに面してそば屋が四軒もあります。お宮が近い所にはそば屋が多い。逆に人家密集地の大土地、小土地という所は街道の西側にあたり、参詣のお客が通らない。そこにはそば屋がない。そうしますとそば屋っていうのは出雲大社に参詣する外来のお客に対して商いをしているようです。
高瀬 そのことは日本全国どこでも言えるようです。逆にいわゆるそばの名産地に行くとそば屋っていう店がありません。土地の人は、そばは自分の家で打って食べるものと思っているのでしょう。
出雲の割子について ↑目次 ↑トップ
高瀬 割子のことですが、割子っていう食べ方はなかなか合理的だと思う時もあります。つまりつゆを上にかけて食べるでしょう。つけて食べるとどうしてもつゆがだんだんに薄くなります。そこで上へかけて食べるっていうのは非常に合理的です。誰が始めに考えたのかなと思うことがあります。
藤間 これは第一が軽便性だと思います。野遊びにそばのおさげを持って行く、この中に十枚入ってますね、前のおとしぶたの間にお膳が五牧人るんです。緋毛髭を敷いてそばを食う富有な町民でしょうね。しかし、おいしいというのは、つくりたてを食べるから良いのです。問題は時間的な勝負だと思います。だいたい、かけて食べるということは猫の飯と思うのですが。
高瀬 江戸でも滝沢馬琴なぞは蒔絵をしたすごいそば道具を持っているんです。こんなのでそばを食ったらまずいだろうなと思います。のびちゃってだめですね。のびたそばはまずい。そばはひきたて、打ちたて、茄でたての三たてといって、すぐ食べなきやだめです。こういうものに入れてふたなどしてけんどん箱で持って行ったんじゃ、そりやまずいでしょうね。
藤間 案外手軽にそばで一献という馳走かもしれません。出雲ではそばに酒はつきものです。ところで、出雲地方のそば屋の鶴首のだし入れはいつ頃からですか?
槻谷 あれですけどね、はっきりわかりません。ほとんど有田焼なんです、磁器です。つゆ徳利、そばつゆを入れるものですが、沖縄の焼酎入れにも似たような形のものがあります。そそぎ口の方が鶴の首のように細くとがっています。そばの上につゆをかけるのによい形ですかね。
高瀬 東京のそば屋にもありましたね。
藤間 有田焼が中心のそば猪口っていうものがありますが、私はあれがよくわかりません。
高瀬 さきほど上からつゆをかけて食べるといいましたが、江戸でも初めはそうだった。大平椀でね、ぶっかけと言いました。それがいつの頃からかそば猪口を使って食べるようになった。そば猪口っていうのは取っ手がなく、室町の頃からあるようです。いろんな説があって、猪口っていうのは朝鮮語だそうです、小さな器という意味なんだそうです。そして、たぶん煎茶の器だったのではないかと思います。これについては色々な説があるようです。向付とか。
藤間 向付ならわかる。
高瀬 それをね、江戸の中期以降だと思うんですが、流用してそば猪口にした。
藤間 そば猪口を使った地域は江戸でしょう?
高瀬 江戸です。江戸が発祥だと思います。だから、そばよりそば猪口の方が先にあった、ということになります。
つなぎと生粉打ち ↑目次 ↑トップ
藤間 奥出雲はそばの産地ですが、不昧公が行った所でもあり、田部家、絲原家、桜井家といった富裕な名家があります。ここは、つなぎに山芋をつかいます。他のものは入れません。お客の顔を見てから山芋をすって溶かしてそばを打ちます。おそらく山間部はどこもそうしているでしょうね。
槻谷 自然薯っていうものですね。
藤間 自然薯です。畑のものではなく、長いゴボウみたいです。
高瀬 そばはつながりにくいです。日本全国見ると何かのつなぎを入れています。山ごぼうの葉を入れてみたり、大豆の呉汁を入れてみたり、色々なやり方をしています。
藤間 生そばっていうのは粋きがっていう言葉のあやでしょう?そばだけで打ったわけではないでしよ
高瀬 おそらく生粉打ち、生一本という言葉がありますが、この生からきていると思います。二八という言葉に対するものとして作ったのではないかと思います。江戸では初め約百年間はそばだけで打っていました。享保の頃につなぎにうどん粉を入れた二八そばが出てまいります。
白石 つなぎに山芋を入れる所、山間部に行きますと、麦飯にも山芋をかけて食べています。生そばとか言われると、そういうつなぎを入れない、そば粉だけで打つ技法があるんですか?
高瀬 それがそば打ちの原点なんですよ。生粉打ちといいます。この方法で打たれたそばを生蕎麦と言いました。今日のそば屋の看板の字はこれからきています。
藤間 そうするとあんなに細いそばはできませんでしょう?
高瀬 いえ、そんなことはありません。私はやっています。昔の技術を再確認したわけです。
槻谷 高瀬さんの水まわし、「水まわし」とは水と粉を混ぜることですが、柴田書店の『そば・うどん』という雑誌に「科学の目」として連載されたものでおもしろかったです。これを読めばどなたでもそばが打てます。下手に山芋など入れなくても。単純なことをするほうがうまくいきます。山芋を入れるとかふのりを入れるとかして複雑なことをすると意外とむずかしいものです。
高瀬 今、そば打ちブームです。素人の皆さんが、弁護士、一級建築士、町長などいろんな職業の方が汗水たらしてそばを打っています。素人そば打ちコンクールの審査員として方々に行って、それを見ていますと実におもしろいですね。私もそうなんですが、素人の皆さん、道具だけは良いものを持っています。また、テレビで、そば打ち講座みたいなものもあります。結局そばっていうのは、うまいかどうかは別問題として、水だけで打つ生粉打ちが原点です。
白石 そうなると、その加減といいますか技術がいりますね。家庭ではできませんでしょう?
高瀬 いえ、家庭でもできます。ノウハウを伝える人、学ぼうとする人がいないだけです。
槻谷 だからだんだん絞っていきますと製粉と栽培に行き着きます。そばは栽培と製粉が大事ですね。
薬味の色々 ↑目次 ↑トップ
白石 大根おろしとのりを入れて食べるのは出雲地方の特色ですか?
高瀬 これは日本全国でやっています。そばの薬味には大根っていうことが決まっています。これには消化酵素が入っています。
東京のねぎはだめです。そばに入れるねぎは京都のねぎが最高です。白いところがなくてやわらかくて。九条ねぎですね、どんなに頑張ってもあれには江戸は勝てません。香りと甘さ、そしてちょっとビリッとした感じ。
藤間 今の会席屋さんがよくきざんだねぎを洗って出しますね。洗うとつまんないですよ、カスみたいで。
高瀬 大根おろしも絞って出すのはだめです。大根っていうものは、おろした時の汁がうまい。これを利用しなきやいけません。
高瀬 そばの薬味としての大根、ねぎは全国共通です。この点は非常に興味深いですね。
藤間 大根には昔小さいものでとても辛いものがありましたが、あれは穫れる時期の問題ですか?
槻谷 一年中できないんです。大根は交雑しやすいです。私は、今、信州からねずみ大根というものを取り寄せてやっています。秋にはよくできますが、暖かくなるとできません。名前はいろいろでしょうが、丸い大根、わさび大根もあります。
高瀬 そばと大根は非常に相性がいいですね。
槻谷 辛味のない大根ではなく、やはり辛い大根がいいですね。最近、宍道湖の湖北の方で流れ着いた種が出てきました。浜大根みたいにやっぱり辛味のある種類の大根です。今すこしずつ増産されています。
高瀬 出雲地方は、おろし大根に唐辛子を混ぜた赤い「もみじおろし」を使っていますね。唐辛子もそばにはあうかもしれません。東京の方では一味とか七味とかを備えているところがあります。そば一味の方があうかもしれません。
藤間 そうですね、その他にはみかんの皮を、小さくきざんで、のせます。奥出雲では大根ではなく、陳皮ですね。不味公時代から続いたのか途中で変わったのか知りませんが、里の方ではしません。
高瀬 それから出雲にはめのはっていうんですか、わかめですか、ありますでしょう。あれなんか非常にいいんじゃないでしょうか、使いませんか?
藤間 わかめは使いません。聞いたことないですね。
高瀬 私は東京の出雲そば屋でね、めのはを食べました。
藤間 そこは神田に店のある大社町出身のそば屋ですね。私の家ではお歳暮に八川のそば粉が届きました。年末になると、奥出雲のそば粉のお歳暮が待たれ、そして季節を知らせてくれます。それも落ちても少々のことでは破けない丈夫な和紙の袋に、ちょうど砂糖袋のようなのに新そばが一升ずつ入っており恒例でした。近年は手間がないのでそば屋に頼んで打ってもらい、三分の一ぐらいはそばがきにして食べます。
槻谷 それは毎年ですか、時季になると。
藤間 そうです、毎年。だから届くのが待たれるんです。が、考えてみればもらい物で年越しをさせてもらっております。もっとも女房は里の香りを楽しんでおります。
白石 山間部では色々な食べ方をします。山芋もですが、熟柿を入れてだんごにしたものもあります。
槻谷 私も実際やりました。非常においしいです。京都のお菓子屋さんが限定的に、新そばの時季だけにやっています。あんぼがきともいうものだそうで、そば粉と混ぜてつくるんです。「村時雨(むらしぐれ)」といってほんとにおいしいです。
高瀬 そばに打ちこむんですか、甘いそばですか?
槻谷 そば粉に混ぜてつくります。ちょうどいいくらいの甘さです。
高瀬 それは変わりそばの一種ですね。
槻谷 蒸し菓子、蒸し饅頭みたいな感じです。中に小豆あんを入れたり、ぎんなん、栗、百合根などを入れたりします。京都の松屋常盤さんとかいうお菓子屋です。
白石 これはだいぶ古い時代からやっています。それを丸めていろりの灰の上に向けて落として。
高瀬 信州でもお焼きと言ってましたですね。
白石 お焼き、これもやっていました。あるいはいろりのないところでは今で言うならばフライパンみたいなものですね、いわゆる焼き餅っていうものです。
高瀬 たぶんそれはさきほどから話してましたように、そば打ちが出てくる前の系統の食べ方でしょうし、けっこうおいしいものです。
そばがきについて ↑目次 ↑トップ
藤間 高瀬さん、そばがきっていうのは全国的な食べ方ですか?
高瀬 昔からあるやり方です。そば切りよりもっと前からあるんです。
そばがきにはいろいろなやり方がありまして、大きく分けますとね、そばと水を混ぜてから火にかけるやり方と、お湯でもってかき混ぜるやり方とあります。そばは生で食べても消化酵素がありますから、腹下さないです。だからどうやっても良いのです。地方地方によっていろいろなやり方があるし、そのつけるものも味噌だったり、くるみをつけたりですね。ある意味ではそばがきが、そば切りの原点かもしれません。
藤間 そば粉にお湯を入れて練るわけでしょう、そのまま食べるんですか。
高瀬 そうです。しようゆをかけてだんごみたいにしまして。出雲にはそばがきはありませんか?
槻谷 店にはないんですよ。
白石 ただ、隠岐とか、石見にはあります。隠岐の方は熱湯を使います。しかもあんまり時間を置かないで食べます。それにしょうゆをかける時もあります。
藤間 そのまま食べた記憶はありませんね。小さい頃祖父が一人自分で小鉢の中で練って、ちょっと先をとがらして箸で小さく切って手許の火鉢の小鍋の熱湯に入れたものを食べてました。しようゆにカラシを少し入れていたように覚えますが、定かではありません。
高瀬 そういうやり方もあります。二回熱湯の中に入れるやり方もあります。非常につるっとしてやわらかいです。
そうですね、そばがきは庶民の食うものですから東京なんかでもあんまり上級の人が食うものではありませんでしたね。松平不味公のおひざもと出雲では、そばがきははやらなかったのでしょうか。
槻谷 今でこそそばがきを一人前千円とかいう値段でお店では出す所もありますが、おそらく戦前なんかそば粉だけではなかなかお金はいただけなかったのではありませんか。店でもお金をとって食べるものではなかったでしょうね。
自分独りでできます、鍋に湯を沸かして練って。手間賃の取りようがなかったかもしれません。一番簡単ですよね。
高瀬 一番簡単です。一番ストレートです。新そばが手に入った時、そばがきにするとそのそば粉の種類がだいたいわかるものです。しかし、そばがきを顕微鏡で覗いてみるとわかりますが、生粉打ちそばとは全然違う種類のものです。そばがきは中が全部溶けています、粘土状に。生粉打ちのそば切りは、粒子がつぶつぶにつながっています。ここが味としての一番のポイントです。ですから、そばがきとそば切りは全然種類の違う食い物であると私は思っています。
そば打ちの技術について ↑目次 ↑トップ
槻谷 そばを打つ時に、今おっしゃったことは、湯ごねといって熱湯を使って打つ打ち方と、水で打つ打ち方との違いのことでもあります。できたそばの風味が全然違うんですよ。
藤間 どっちが薫り高いですか?
槻谷 香りはもちろん水を使った方があります。もののおいしさが残ります。
高瀬 水で打つのは技術的にむずかしいです。全国的に見ますと湯ねりの方が多い気がします。水でねるのは江戸のやり方です。出雲のそば切りはどっちですか?
槻谷 出雲は、家庭で打つ人は寒い時期、湯ごねです。ほとんど熱湯を使っています。高瀬さんの水まわしの技術を読んでいただくとよくわかります。撹拝造粒と言って、セメントをどういう風にこねると強度が出るかということも合わせて書いておられます。冷た水を使ってですね。製粉と非常に密接な問題です。
高瀬 現代工学の最先端のセラミックの技術と同じ技術です。撹拝造粒と言います。
槻谷 水を加えるとどろどろになって糊状になるそば粉と常温では溶けずに水分を含んで粒子が膨張するそば粉を全部混ぜるとつながる。このことは口で言うと簡単ですが実際にやるのはむずかしいことです。熱湯を入れてやった方が楽にうまくいくことが多いから。このことは忘れられています。
藤間 製粉面でそばとうどんとはどこが違いますか?
高瀬 うどんにはグルテンというのがあって、それでつながっています。言い方が悪くて申し訳ないんですが、誰でもつながります。そばにはグルテンが入っていないものですから誰でもがつなげるわけにはいかないですね。グルテンの有無の違いです。
槻谷 また、水の硬度がどうかということもあります。ラーメンのかん水、うどんに塩水を入れるとかすると、つながるんです。そばに塩水はだめです。
高瀬 グルテンが形成され時に塩を加えた方が強くなるんです。グルテンが、形成されやすくなります。うどんに塩水を使うのはそのためです。足で踏んで力を加えますとグルテンはもっと強くなります。そばにはグルテンが入っていませんから、うどんと同じように足で踏んだりすると、そばがまずくなり、湯に入れた時切れてしまいます。
出雲・石見・隠岐の比較 ↑目次 ↑トップ
藤間 文化圏の点で、石見や隠岐の方面はどうですか。隠岐はそばを食べますか、白石さんどうですか?
白石 隠岐は畑が多いところですから、もちろん作っています。私も参加しました昭和45、46年の二年にわたる調査の報告書に書いていますが、打つのは時間がかかるから、手間のかからない食べ方、そば粉に煮立った湯をさしてかき混ぜて食べます。そば練りと言っています。それをこんがりと焼いたものを焼餅といっています。焼き餅の場合は、アプリコの上に乗せて焼く場合と、おきという赤くおこつた炭火の上に直接乗せる場合があります。これは石見にも出雲にもあります。その時はだいたいおろし大根をつけて食べます。出雲・石見・隠岐、共通です。
藤間 昔は寒い頃に、お忌みそばといって、釜揚げを食べることが多かったような気がします。11月下旬に新そばが出た時に。出雲は神在月ですから、ものすごく荒れます。その荒れに乗って神様が来るわけですが、その神迎え祭りの頃は寒いんです。
高瀬 釜揚げそばとはどんなそばですか?茹で釜の中から熱いものを食べるんですか?
槻谷 茹でたそばを水にさらさないで、そのままどんぶりに入れ、そば湯を一緒に入れます。そしてだしをかけて食べます。ちょっと、どろっとしています。
高瀬 それをつくるには打ち方をよほど変えなきやいけませんね、きっと。溶けないように。
槻谷 玄ソバからのひきぐるみで、ねばりがありますから、冷さないのでちょっとぐちゃぐちゃした感じがするかもしれません。
高瀬 そうでしょう。二八ぐらいに小麦粉を入れた方が良いでしょうね。
槻谷 東京のそばを食べた人は、歯にぬかるんで、そばではないと思われるかもしれません。
藤間 でも寒い時に食べるからとてもおいしいそばです。割子よりもっとアクが強くて、いかにもそばという感じがします。ことに寒い夜は。
高瀬 神在月の夜に、私も一度食べてみたいですね。
藤間 もう一つ、年越しの日、12月31日、大歳さんですね、小さい頃の記憶ですが、私の家にかけ取り(集金)に出入りの人が多く来ました。呉服屋さんとか色々な商売人さんがだいたい一時間位待つんです。支払いをしてもらうまでは何時になろうと待つので、たまり部屋はたくさんの人で埋まります。この光景はまるで落語の世界のようですわね。皆、よもやま話をしていますが、そこへ釜揚げそばを出していましたね。子供の時のことですからにぎやかな部屋に飛びこんで、部屋暖めの大火鉢を囲んでいっしょになってそばを食べました。おいしかったことを覚えています。
白石 釜揚げですか。石見地方ではあたたかい、どじょう汁を食べます。ほんとうのどじょうではなくそばを切った、見ればどじょうみたいなその太いそばを、塩味をした小豆を煮てその汁の中に入れて作ったものです。今はあまり作りません。健康のためというよりは体をあたためる目的だったと思います。「今日は寒いからどじょう汁でも炊いてぬくもるか」ということだったんでしょう。
槻谷 小豆そば、組合せが健康食ですね。
高瀬 お祭りの時の食べ物みたですね。小豆にはそういう面がありませんか。
藤間 昔はしょっちゅう小豆を食べたわけではないでしょうから、何か特別の時だったのではありせんか?
白石 焼畑で小豆はたくさん作っています。石見は農地が少ない。出雲の平野部に比べると山木の一人当りの消費量は、江戸時代の文化文政の頃、出雲の半分よりやや多い程度です。出雲が約1.2、石見は0.658ぐらいです。広島も少ない。どちらも出稼ぎが多いのもそのためかと思われます。その代わりに、上品な加工はないけれども、そば、小豆、粟など畑作の食べ物は非常に多い。
藤間 高瀬さん、そばは熱いうちと冷えたのとは成分的に何がどう変わるんですか?
高瀬 そばは要するに炭水化物ですから、その立体構造がベーターからアルファーに変わるといとでしょう。そばつて陰の食べ物なんだそうです。陰陽学では、必ず陽のものたとえば豆腐などといっしょに食べなきやならないと昔の本には書いてあるようです。
儀礼食としてのそば ↑目次 ↑トップ
白石 今大変おもしろい話を聞きました。大晦日に食べる席は地域によって意味が違ってきたのではないかと考えられます。山間部においてはそばは日常の食べ物の一つでしたから特に席を設けないで食べたと思います。稲作、米を中心にした地域は、平野部では、正月には必ず白い米、白い餅でなくてはならない。平野部から見た考えです。そこに向けて大晦日には黒い食べ物をということで、うまくバランスが保たれ、陰陽が合うことになります。
奈良時代には黒とか赤とかいうような色が正式の服装に多いのですが、平安時代になるとぐつと減るんです。特に山木のシンボルカラーは白が中心ですから、白とか青の色が中心になってきます。たとえば、「正月さんはどこから来るか、山から、みの着てかさ着てコトコトおいでた」という伝承が多くあります。簸川郡湖陵町差海や大田市三瓶町などでは「正月さん、正月さんはどこから来るか、三瓶の山から、みの着て、かさ着て……」と歌っていました。
これは一体どういう意味かと言いますと、平和な所へ山の方からまれびとというか、神がやってくる。その時は日常とは違った格でやってくる、家の中には日常、神さんもおられますが、そこへショックを与える神様がやってくるわけです。
米という太陽を重んじる陽の食べ物は、夜、植えてはいけないんです。夜植えると鳥取県の湖山長者のような没落伝承が生まれてきます。米は、白日に田植えしなければなりません。日が暮れたら田植えをしてはならないのです。白、清廉潔白といいますか、常に罪を祓い清めるということです。そこに向けて打ち破るように、儀礼食として、赤い小豆ご飯を供えるように、白のマンネリズムを打ち破る黒を持ってくるという文化装置があるわけです。ですからハレの時にそばを食べるのはやはり黒の意識があって、これが日常的に固定してくると、また新しい食べ物が出てくることになったと思われます。
山間部では大晦日にもそばを食べますが、一方で正月には特にい米というものを大切にします。重要視するから、30日にそばを食べて、大晦日の31日にはおせちの白いご飯を食べるところもあります。
高瀬 大晦日にそばを食べるは、毎月30日の晦日に食べていたらしいです。そして、一年で後の大晦日の12月31日にも食べたということです。しかし、なぜ食べたかということには色々な説があります。金銀を集めるとか、金持ちになったとかね。
白石 私は民俗学的立場から、自と黒という対比の文化装置の目を通してみます。
高瀬 なるほど、そばは角が三つありますでしょう、みかどという言葉にかけて、そういう歌がたくさんあるようですね。
白石 そばは五穀に入らないので腹を立てて三角になった、目を三角にして怒っている目だという伝承があります。もう一つ、米を中心にした地域の御供え物にはそばはありません。
藤間 そういえば、そばを御供え物にするというのは聞いたことがありません。
白石 ところが畑作を主とする地域にはあるのです。石見の大元神楽の時にはそばを五合供えるんです。隠岐の島前でも供えます。
高瀬 そばは水を嫌うんです。そばまきの時は水汲み女にも会うなという言い伝えがあります。そばはまいてから三日間は雨が降ってはいけないんです。干ばつには強いが水には弱い。ですから稲作とは両立しないところがあるかもしれません。
白石 『古事記』、『日本書紀』にありますように、米は上流階級の食べ物、畑つものはあおひとぐさ、あおひとぐさの食べる五穀の中にもそばは入っていない。しかし、魅力のある食べ物だと言って常に重要視されてきた。しかし一方で山木中心の文化の中でも松平不昧公のような方が出て、畑つものの食べ物が懐石料理の中に取り入れられた。これもすばらしいですね。お茶の世界は、平凡な日常の中にも美を見出して、すばらしい価値を見出すわけです。
高瀬 ほんとうに出雲そばを考える時には松平不昧公を抜きでは考えられませんね。
藤間 お茶にお濃茶というのがあります。これは30年以上経った古木の新芽からとり、水を少なくして練るんです。どろっとした、芳香の強いお茶です。そのかわりちよっと胃には悪いですね、だから昼時の茶は懐石(軽い食事)をつけます、胃を守るために。
懐石料理というのは食味だけでなく、健康面での意味があります。お茶会の時に亭主に「おつめは」って聞きますが、お茶は現在とち一年に一回お茶ができると精選したお茶を茶壷につめます。そうして熟成させます。4月に採ったお茶を11月に使います。お茶事は11月か正月にあたります。お茶壷にはお濃茶を和紙の袋に入れて真申に入れますが、動かないようにまわりにおうすの茶である葉茶をつめます。おつめはその製造者とお茶の名前のことを言います。
不昧公はこの懐石にそばを用いています。
焼畑とソバ ↑目次 ↑トップ
白石 そばは荒地でもどこでもきますが、特に焼畑でよくできます。焼畑のことは「よろず差出帳」などを見ましても、かりやま、さんか、切畑あるいは山畑とあります。畑という字は日本でできた漢字です。中国地方(島根県)で焼畑のひとつである切り換え畑が多く、こうかの花が咲いたら木を切れ、やぶを切れという言い伝えがあって、焼いてそばをつくります。焼畑には二種類ありまして、春焼き型と夏焼き型とあります。
春焼きは焼畑中心の地域でフォレストフォロー型といいますが
森林伐採型で大規模です。日本では白山麓などで行なわれていました。出雲・石見では一般に稲作と平行して、ブッシュフォロー型といいまして、雑木でも竹やぶでも切るんです。大きな木を切るともったいないですから、竹やぶを焼いてそばを作っていますね。
不文律がありまして、たとえ絲原家の山でも「頼みますので」と番頭さんの所へ行って焼畑をすることを言うと認めざるをえなかったのです。八川の方でもそうです。全部ではありませんが、山を焼いて焼畑をしております。だいたい昭和の初年頃まではやっています。竹やぶもやります。そこを道切りしまして、普通二反とか三反を一軒の家がつくりました。
高瀬 焼いた後に何をまきましたか?そばをまきましたか?
白石 所によって違うんですが、だいたい一年目にそば、ある地域は大根ですね。大根はよくできます。亥ノ子さんの日にふたまた大根を供えるのは焼畑からきたのではないかと言われています。というのは、石や岩が多いからふたまたにならざるをえないわけです。味はいいですがね。
地域差はありますけれど、一年目はやはりそばが多い。特に竹やぶを焼いた後は熱いんですが、その灰の熱が冷えきらないうちに猫の足に三粒ぐらいの割合で蒔けという言い伝えがありました。土とは混ぜないで、灰の上に直接まきます。
高瀬 私も焼畑でそばまいたことがありますけど、焼灰は全部土とまゼたんですが。
白石 中部日本で、地域による違いはありますが、土と混ぜるところーもあります。島根県石見地方の山間部でわらびの根とかの根っこを焼いたものといっしょにして蒔くこともあったそうですが、一般には竹やぶを焼いた時はそのまま灰だけの中に蒔いております。
藤間 今、実とおっしゃったのは例の三角形のょじのですよね。あのまま蒔くんですか、湯とか水とかに浸けてふくらませてからではないですか?
高瀬 そのままです。そばは三角の角の一つでも土についたら必ずそこから芽を出します。一角ついていれば、大丈夫です。おもしろいものです。
藤間 それは鳥なんかが食べませんか。
高瀬 食べられちゃいますね。
白石 それで灰の中にまくと鳥が食べにくいと言いますね。今68才の方で経験者がおります。藩政の頃は本当は藩の許可も必要だったのでしょうが、許可なしにやることが多かったのではないかと推測しています。昭和に入りましてからは役場の許可がもちろんいりました。そして二年目には佃の作物を作ります。三年たつと今度は三椏を植えます。紙を作るため七年間ぐらいは三椏を栽培し、その後はまた元にかえして焼くという順番ですね。
高瀬 でも何年かは、連作がある程度ひとまわりするまで、寝かせておかなきやいけませんよね。
白石 だいたい三年たつとだめです。三年たつとさきほど言いました楮や三椏を植えて、七年間紙を作って、その間土を寝かしておきます。そしてまた元に返って焼いてつくります。畑作物は連作というものはなかなかむずかしい。栽培期間が短いからそばは割合によくできます。こうかの花が咲いたら木を切り、そして土用が過ぎ、盆すぎに焼く。
ソバ栽培のこと ↑目次 ↑トップ
高瀬 そばをまく時期は、すばるという星がちょうど天空に来た時だといいます、関東では。地方によって違うでしょうね。
槻谷 岡山県浅口郡もそういうらしいですよ。「すばるまんどき、こなはちごう」とかいって、伝承歌があるそうです。
高瀬 一升の突から八合の粉が取れる。それだけ実入りがいいんですよ。出雲地方はどうですか、時季は。
槻谷 出雲地方は土用から一週間日頃と伝わっており、さっきよりは少し早い。
白石 岡山のやや北部の方といっしょではないですか?岡山は焼畑をはがりと言います。焼畑としてはやや小規模だったのではないかと思います。
藤間 そばは平均一粒でいくらとれますか、何倍になりますか?
高瀬 一粒で一つの茎ができますからね、ひとつの茎には、さあ、いくつくらい実がなるんでしょうか?
槻谷 年によって違いますが、一つで四百から五百の花が咲くつて言うんです。成長ぐあいにもよるんでしょうが、その三分の一に実が入ればいいわけですよ。しかも自家受精しませんので、風媒、虫媒です。それがつまるところ不作の原因です。
高瀬 刈り取る時に実が下に落ちる分も計算すると実際どうなんでしょうね、一粒からどれくらいとれますかね。
槻谷 土地によっても違いますから。
白石 石見の方で一番良い畑で、一畝で大豆が10升、そばが11升、小豆なら5升、粟なら4升、ひえは12升、きびは8升ぐらいとれます。焼畑ではなく、一番良い畑で。
高瀬 今、白石さんが言われた単位とは違いますが、私は、一反で50キロ収穫します。ほんとうは肥料をやって100キロはとらないといけませんが、私は肥料を全然やりませんので、50キロなんです。
槻谷 今、松江市で二年続けて減反した田にそばを植えています。一反で100キロが目標ですが、現実は30キロしかとれません。もちろん、コンバイン刈りです。去年は高温続きで、ヨトウ虫が発生したし、初年度は水害でやられました。収穫は悪かったですね。
高瀬 養蜂家に頼んで蜜蜂を置いておくといいですよ。受精がよくなります。そばは他家受粉ですから。私は、養蜂家に蜂箱を一つ置いてもらっています。実つきが非常に良いですよ。
白石 日本の農業は、食糧の自給率が40パーセントと言われています。此度、農業基本法が変わりましたが、あまり手間をかけないで、高瀬さんが言われたように多量のそばが取れることは非常にすばらしい。将来の展望が開けてくるのではありませんか。
高瀬 そばは成長が早く、他の雑草が生えません。
藤間 一年に何回とれますか?
高瀬 やれば年二回はとれます。しかし夏そばは味がよくないので、どうしても秋そばだけになってしまいます。
槻谷 夏そばはリスクが大きいし、味もよくない。今年四月に蒔きましたが、天気が安定しないことと、水にとにかく弱い。日光不足や虫の害などの関係からか、花は咲いたけれど実入りが悪かったんですよ。
白石 なるほど、そういうわけですか。本格的な焼畑地区では、春に、一年目にはそばを蒔きません。
槻谷 昔と今とでは経済的な面が全然違いますので、赤字になってまではできないという観点が強い。昔は食糧としての目標があって栽培したんでしょうが。
高瀬 そばは金銭的なことを考えると農家としてもやりたくないでしょうね。
藤間 そばは一袋いくらするんですか。
高瀬 だいたい今、玄そばが、45キロが一袋分で、一万円から二万円ぐらいじゃないですか、年によってちがいます。
藤間 よく北海道産のそば粉が良いと聞きますが?
槻谷 北海道は本州とは違い栽培面積がだんぜん広いですし、コストも安い。一軒で12ヘクタールつくるとかですね。今、高瀬さんがおっしゃった一袋が、一万五千円から二万円ぐらいで出ています。品質面での金額の差はありますが。
高瀬 輸入もしています。今、たとえば蒙古から一袋三千円というのが入っています。うまくもなんともない。
槻谷 日本から種子を持ちこんでやっているのでしょうね。
高瀬 船積みの過程で悪くなっていくんでしょうね。上海あたりで積み出した時はいいそばなのかもしれません。
槻谷 倉庫がないので野積みになつたりしているのではないですか。
今松江市の場合、100キロとれて三万円になります。それと八万円の補助金が出ます。農業政策の中での休耕田のそばづくりの現状です。この八万円の部分がなくなるとそば栽培はなくなってしまうのではないかと心配です。
高瀬 休耕田栽培を除くと国内産のそばというのは本当に少ないかもしれません、北海道を除く地域では。
藤間 北海道が存続している理由は?
槻谷 コストがかからないことがあると思います。二ケ月という短期間に収穫できますから、小麦の合間にできます。北海道はヨーロッパ型の農業です。六月に播種して、九、十月に刈り取ってしまいます。
高瀬 北海道の場合、そばを刈ったらおしまいでしょう。後は冬ですから。その前にじゃがいもを作ります。
白石 西日本や関東地方では、麦を蒔いた所から離れた場所に、そばを平行してつくつたりします。
高瀬 関東あたりでは、たばこやじゃがいもをつくつて、その後にそばをつくつています。
槻谷 茨城あたりがそうです。
白石 お話を聞きますと、経済的な面もあって、国内産のそばで、日本のそばの食文化を維持するというのは、並大抵ではありませんね。
高瀬 今、日本のそば粉の消費量の中で国内産の占める割合は15パーセントありますかどうか。
白石 そんな中で、槻谷さんは国内産だけでやっておられるわけですね。
槻谷 手打ちそば屋さんが使う分ぐらいは結構ありますので産地指定しなければ北海道産でもどこでもたくさんあります。
私は、自分が出雲のそば屋と言うからには地元産でやらねばと思って、横田町で栽培しています。減反の転作田と絡み合って三トンから五トンとれるようになりましたから、自分で使うには十分あります。量をたくさん出せば足りなくなるでしょうが。
白石 輸入物でなく国内産のしかも地元の物でということですね。
槻谷 品質的にはどこのが良いかということになると私の意見と他のそば屋さんの意見と違いますので、非常にむずかしい。
それより大事だと思うのは循環型の農業ということです。出雲で北海道のものを入れてきてもお客さんに満足していただけるかどうかですよ。それに品質的に分けて良いものだけを取るとなると、三分の一ぐらいしかありません。選別してそれだけだといって、他のものは知らないと言うわけにはまいりませんので、全部ひっくるめて使わないといけません。そうしないと出雲地方でのそば栽培は残っていかないのです。
高瀬 槻谷さんもそうですが、心あるそば屋さんが仕事するのは今大変です。どうやって材料を集めるかがむずかしい。東京あたりでも良いそば屋さんは数が少なくなりました。輸入物を入れたりしまして。
藤間 何事もそうですが、いかにして全体のレベルを落とさずに、しかもこだわりを通していくのかです。自明の理は、自信を持ってこだわる、これです。不昧公好みっていう問題にもつながります。おいしくて良いものだということが絶対条件でしょうね。
高瀬 何事によらずどうも量と質は反比例します。
槻谷 私が栽培する時、たとえば三町歩まとまったから一人で全部つくれと言われてもそれはできない。栽培者と協力して綿密に調整して、プラス・マイナスを整理しながらやっていかないと、生き残っていかないということがわかりかけてきました。
高瀬 今の心あるそば屋さんは、二足のわらじをはかなくてはいけませんね。商売とほんとうの仕事と。非常に苦しい状況です。
しつらいと振まい ↑目次 ↑トップ
藤間 もう一つ、私の分野の事柄ではありますが、人さまをおもてなしするには振まいとしつらいが一つになって成り立ちます。まずしつらい(場所の演出)があってその中で振まい(食事)が供されます。日本料理は一般的に日本座敷の中で振まわれます。そこには部屋の飾りつけや器物の選定や取り合わせがあるわけです。そこのところを整理しないと物事の理がわからなくなり混乱が生じます。こだわりということはそういうことです。コーヒーは腰掛けで飲む方がおいしいし、抹茶は座った時がおいしい。ご馳走にはそれなりの民族の雰囲気づくりの様式美の歴史があって、それをはずしてしまうと何か落ち着かない妙なことになります。
古くはそば屋のような所は、琉球畳のふちのない畳が主流でした。ふちの布と色で秩列を決めます。例えば繧繝縁は天皇さまだけのものであり、黒とか茶が一般的です。畳のふちのある座敷では座礼が遵守されます。ふちから八寸下がって座り、ふちは一つの結界を表わします。この場合は料理はお膳に乗せて出します。座布団を置いて後、配膳します。ふちなしの畳の部屋や械毯・毛髭を敷くのは略式ですが、またふちのない方が気楽で広く見えます。
高瀬 私なんか子供の頃、ふちは踏むもんじゃないと親父にどなれたりしました。
藤間 畳の目は六十三目あって、二目ずつがへりで、全部で六十八目あります。陰陽道の考えに基づいていますので、ただの空間ではなくて、丸いものは偶数の目に、四角いものは奇数の目に置きます。このことはけっこううるさいんですよ。
高瀬 私はそば屋さんに言うんです、そば屋がそばばかりいじくつていても良いそばはできませんよ、と。食文化などと言いますが、食いものは皆そうです。今言われた振まいというかそういう物を見る精神があって、色々な物のバランスを見ることができて初めて食い物の本当の味がわかってくる。食い物屋が食い物だけしか知らないのではいい食い物ができるはずがない。食い物屋は、美術品を見る、音楽を聴く、芝居を見る、そうしてより良いバランス感覚を養っていかなければなりません。
槻谷 出雲では代表的なものとして割子そば、釜揚げそばがありますが、私たちそば屋は、軽便で簡単で儲かるからやっているだけではいけない。
藤間 そばでは苦い経験があります。天皇陛下が島根県に栽植祭でおみえになった時、皇太子殿下の時もそうでしたが、田部さんが知事でしたのでご自宅から特別製のそば粉が届き、そば打ちは献上そばの屋号を持つ羽根屋さんが謹製しました。当時、玉造温泉の長楽園さんが天皇さまをお迎えするために特別に建てた贅を尽くした豪華な部屋で、天皇さまが召し上がるのに割子そばはおかしいと県庁の担当に提言しました。それは不昧公の文化を伝える出雲でそばを出すなら、それなりの格式のある構えで、つまり不味公好みのそば懐石道具で差し上げるのがご馳走であると主張しましたが、すでに"割子そば"として宮内庁に提出してあり、今さら変更はできないとのことで進行しました。
その時、田部邸からはそばと太くて長い山芋が届きました。厨房で大膳職が立会してそばができあがりました。それを天皇さまの御座所の隣りの仮厨房まで桧の舟で全ての料理が運ばれます。ここから先は誰も入室禁止で料理をお膳に配り御座所へ運ぶのは女官長さんの仕事した。
高瀬 そばがのびちゃいますでしょう。
藤間 のびます。割子そばの食べ方についての説明が天皇さまに直接はできないのでお付きの女官さんまで申し上げたのですが、だしをかける分量をどう説明したら理解できるか苦慮しました。どう表現しようもないので適当におかけ下さって、天皇さまの御前に供して下さいと言いました。やがて食事が終って、食器が下がってきます。割子の容器を見ますと、だしがだぶつくほどたくさん入っていました。天皇さまはきっと出雲そばはしょつばいとご風味になったでしょうが、適当という言葉は極めてあいまいな表現ですが、味覚は万人それぞれの嗜好もありますので、言いようがありませんでした。その点、不味公のそば懐石のように整理された様式では、だしはつけて食べるのでこういう間違いがないのですが、たくさんつけるか、少しっけるかは食べる人の好みに託されるべきで、そこから先は食べる人の嗜好によります。とにかく割子は単純な猫の飯だけに、かえつてタイミングがむずかしいと思いました。
高瀬 日本料理には食べる人の自由意志にまかせるところがあります。さしみのしょう油なんかもそうです。西洋ではそういうところがない、完成されたものが出てきます。ソースもはじめからかかっています。しかし、そうでしたか、さぞや天皇陛下はそういうものが出雲そばだとお思いになられたかもしれませんね。
藤間 そうですね、もうおなくなりになりましたけど、昭和天皇は出雲そばを食べたが、もっとおいしいものだと思っていたが、ずいぶんと辛いものだなって感じてしまわれたやもしれません。お出かけになる前に御前講義で、出雲そばについての知識を持って期待していらっしやつたでしょうから、よけいに残念に思われました。
高瀬 私も職人のような者の一人ですから言わせていただきますと、誰も同じような江戸流のそばを打ってはつまらないと思います。素人そば打ちコンクールの審査員をして見ていますと、皆さんが江戸流の打ち方をします。日本中どこへ旅行してもみんな江戸流のそばが出てくるのでは文化の破壊です。これはやめていただきたい。出雲の人は出雲の打ち方をする、出雲の水を使って、出雲の粉を使って。これが文化です。江戸流が一番良いわけではありません。確かに江戸のそば打ちは繊細で見た目もきれいです。だが、それが一番うまいっていうわけではないでしょう。
藤間 東京だから良いんですね、それをひなびた出雲に持ってきても合わないと思う。
槻谷 だけど、あれはきれいに打てますよね、三本打ちっていうのは。
高瀬 だからね、そういうノウハウは部分的に取り入れればいいんです。つゆだって江戸流のつゆが一番いいっていうことはないでしょう。地域性を大事にしてもらいたいですね、特にそばは。
白石 普遍性と地域性、固有性ですね。この点は現代において一つの提言として考えてみる必要があります。
けじめとしてのそば食 ↑目次 ↑トップ
白石 それから日常生活の中でのひとつのけじめですね。引越しそば、晦日そば、からさでさんそばなどもそうです。稲作中心地域、畑作中心地域の違いはあるにしても、けじめをなすものとして珍重されてきました。
出雲の山間部に行きますと、大晦日には年棚に大根をぶら下げるのです。年取りの神様を迎えるために。その下にそばを供えたり、味噌なども供えたりします。そばを供えるのは畑作地域の文化だと思います。感謝の気持を表現しています。一方、平野部、都市部では大晦日にはそばを食べます。地域差や表現方法の違いはあってもけじめをなすものとしてそばがあったということはおもしろいことです。この点が日本文化の底流にあると思います。たとえば、うすひき歌は山間部に多くありますけど、「いしし (石臼のことだと思います)ひけひけ、だんごくわしょか、いしをひかねば、またおかい」などという歌があります。石板に乗せて焼き餅にする、そば粉にいろんなものを混ぜた焼き餅もあります。日常食として石臼で引いて食べる日々の生活の中から労働歌が生まれ、民衆に親しまれてきた歴史があります。社会生活の中ではどうでしょうか。
出雲そばという言葉が一人歩き ↑目次 ↑トップ
藤間 人と人との出会いの文化の中で、何も食べずに長時間出会うのは苦痛です。お互いが一番心を開くのは、ものを口に入れることです。食事を媒体に人は心をだんだん開いてきて、話し合いができるわけです。だから食べ物は重要な意味を持っています。腹の足しになるだけでなく、精神的にリラックスさせます。
槻谷 もてなしですね。
高瀬 これも世界共通です。必ず何か食べさせる。
白石 その中で日本人は特に繊細な感覚で食器を始めあらゆる物に味わい深い文化を形成してきました。その中の一つとしてそばの文化があります。
さて最後に高瀬さん、全国的に見て出雲そばの地位はどうですか、お話を聞いて終りにしたいと思います。私たちは出雲そばは有名だと思っていますが、実際のところはどうなんでしょうか?
高瀬 有名は有名です、出雲そばは。しかし、実際に出雲そばとはどういうものか、割子に入れて食べるものであるとか、汁を上からかけて食べるとかはわからないと思います。今東京の人に出雲そばを出して、さあどうぞ食べてくださいと言っても、これどうやって食べるんですかと質問する人が大部分だと思います。上から順々に、薬味を入れて、だしをかけて食べることなどわからないと思います。東京の人の出雲そばに対する認識は、名前は知っているけど実態はよくわからないというのが大方です。出雲そばという言葉だけが一人歩きしているっていう感じですね。ただそれを無理矢理現代の情報化社会の東京に宣伝するのが良いか悪いかはわかりません。じっとね、秘めておいた方のかなって思ったりします、私は。松平不昧公もきっとそう思われるのではないでしょうか?
藤間 あまり手をかけなく、その土地の素朴な庶民の味こそがそばの風味と思います。極端な流行などに流されないで出雲そばの伝統の本筋を行ってほしいものです。
白石 各地域で多様な文化と生活様式がある中で、出雲は出雲の特色ある文化としてのそばをこれからも大切にしたいと思います。どうもありがとうございました。
資料提供 ワン・ライン(郷土出版物)
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