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ソバと日本人のつきあいはずいぶん古いという。縄文遺跡からソバの花粉が発見されるというから、そのつきあいは一万年におよぶ。人びとはソバをどのようにして食べていたのか。粉にする技術はまだなかったろうから、粒で食べていたのだろう。やがて石臼が出現して粉にひくことができるようになると、そばがきにして準主食としたのではなかろうか。そばは五穀のなかに入っていないが、播種してわずか百日以内で収穫できるので、備荒食料としてうってつけであった。そばきりという麺にして食べるようになるのは、文献の上では戦国末期をさかのぼることはできないらしい。そばきりは庶民の御馳走で、祭りのときや大晦日に食べたものだ。出雲のそばきりは、松平直政が信州松本から松江へ轉封になったとき、伝えられたものと言われている。庶民にとってはもちろん御馳走だったが、上流武士の間へも流入するようになる。茶人大名松平不昧も大のそば好きだった。
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著者紹介
 
高瀬礼文 高瀬礼文(たかせ・れいぶん)
昭和6年生まれ。東京都出身。昭和31年早稲田大学理工学部数学科卒業。昭和33年早稲田大学大学院修了。平成10年3月まで早稲田大学商学部教授(数学担当)。現在、早稲田大学名誉教授。日本の蕎麦の純粋さ、格調の高さに魅せられ、手打ち蕎麦の職人芸に没頭。「蕎麦打ちは芸術の一種である」と主張し、新聞・雑誌・テレビ等で活躍中、平成11年日本経済新聞に「ルーツをたどれば(そば編)」を連載。著書に「そばの本」(文化出版局)など。
 
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日本には、遠く縄文時代、すでにソバという植物が存在していたことは先に述べました。そして、これはおそらく、焼き餅や雑炊やすいとんの形で食べられていたのだと思います。
このソバが、いったいいつごろから"麺"となったのか、いわゆる"ソバ切り"の発祥について、現在わかっていることを少し書いてみましょう。(ちなみに、ソバを麺として食べる国は世界中でもあまり多くは為りません。、中国では、これを「河漏」と書きます。字からもわかるように、これは、ところてんのように小さな孔から突き出して麺にするのがその原形のようです)
今まで、最も古く"ソバ切り"という言葉の確認できる記録は、近江多賀神社の慈性の書いた『慈性日記』の慶長19年(1614)2月3日の条に、「常明寺(江戸)へ…ソバキリ振舞被申也」とあるものであったのですが、最近(1992)、それよりさらに40年古い資料が発見されました。長野県木曽郡の走勝寺という寺の仏殿修理時の天正2年(1574)の寄進者の一覧表の中に、「振舞いソバキリ金永」とあるものです。
次に、発祥の場所ですが、これに関しても文献上では二説に分かれます。まず、元禄年間刊の「塩尻」では「甲州・天目山(硯東山梨郡大和村・棲雲寺)説」を、次にそれより約十年後れて、宝永年間刊の「風俗文選」では「信州・本山宿(現木曾郡楢川村)説」をそれぞれ立ててあります。ただし、両者ともその記述内容は、単なる伝聞の域を出ないものなので、完全に信用してよいかどうかはわかりません。
さらに、天正12年(1584)に、大阪城築城の際、砂場という場所に「津の国屋」と「いづみや」という名前のソバ屋がすでにあったということが「二千年袖鑒(そでがかみ)」という幕末のこれまた伝聞の書にかかれています。
いずれにしても、今日のソバ切りというのは、奈良・平安時代に唐から輸入されていた饂飩・素麺の技術的下地がその基になり、今から四百数十年以前、室町時代の末頃に、甲州・信州方面の江戸以外の地でその発祥をみた、と理解するのが妥当なところでありましょう。
萄山人が本山宿に泊まったときの狂歌です。

本山のソバ名物とたれも知る
荷物はここにおろし大根

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地方で起こり、江戸に入ってきたソバ切りが、江戸に定着、発展した理由の一つは、当時江戸という町は建設途上で、多数の労働者・職人衆が全国から集まっていて、それらの人たちの間でソバは安直な食べ物として好適であったことが考えられます。実際、このころの江戸は女性の数が少なく、人口の四分の三までは男性だったそうです。これは、アメリカ西部開拓時代と事情は全く同じでありました。
しかし、いちばん大きな理由は、ソバ切りが、江戸っ子の晴好にかなったということだと監います。芭蕉も、「俳語とそばは江戸の水に合う」と言ったそうです。
寛永19年(1642)には、幕府が前年からの大飢饉対策として、饂飩・ソバ切り・饅頭・豆腐等の売買を全国に禁じた記録があります。
翌20年には、日本の料理研究書の嚆矢ともいうべき「料理物語」が刊行されましたが、この中には、ソバ切りの作り方が詳しく記されております。
明暦の大火、一名振袖火事(1657)は、江戸全市中五百余町を灰燼に帰し、死者10万8000余も出しました。
しかし、数年を待たず見事に復興して、寛文4年(1664)江戸で初めてソバ切りが市販されたということです。この説は、「守貞漫稿」の「寛文4年けんどんそば切りと云物出来、下々買喰ふ、貴人には喰う者なし」が根拠とされております。
実際には、江戸でもこれ以前、寛永ごろからすでにソバ切りは売られていたようです。浅草寺境内の「正直蕎麦」、四谷伝馬町の「馬方蕎麦」などその名前まで伝わっています。確かに、このころのソバは下賎な者の食い物であったようです。
この時期、このけんどんソバ切りで代表されるソバ切りは、どんな種類のソバ切りであったでしょうか。このころのソバ切りの作り方にふれている文献は、先の「料理物語」も含めて数点ありますが、これらを検討して、麺食史研究家の新島繁氏は、「ソバは、つなぎなしでソバ粉100%のみ使用。したがって、きれやすいので、ソバを茄でないで蒸して火を通す"蒸しソバ"が多かったのではないか」と推論されています。一説には、寛永年間、東大寺へ来た僧元珍が、小麦粉の使用を教えたとしますが、実際に小麦粉をつなぎに取り入れるようになったのは、元禄末か享保の後半からだという
ことです。
また、元禄以前には、ソバだけを売るソバの専門店、いわゆるソバ屋というものはまだほとんどなく、一般にソバは、うどん屋や飯茶屋、それに菓子屋で片手間に商われていたようです。信州では、「木鉢をまわす」(姑が嫁に家政の実権を渡すこと)という言葉からもわかるように、ソバ打ちは姑から嫁へと伝えられてきたのですが、江戸では、これが菓子屋の職人の間で伝えられたという点は興味深いことです。和菓子の職人が、伝統ある菓子の技術と洗練された神経とで、ソバ打ちにかかったのです。今日の江戸流手打ち法の繊細さの原因の一つは、ここにあると思います。
宝暦年間の古川柳に菓子屋にも折々蕎麦の手つきありというのがみえます。

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ソバ切りは、初め、菓子屋で半商売に売られてきましたが、そのころの看板の多くは「うどん・そば切」と書いてありました。つまりソバはうどんに付随した麺であったのです。
ところが、元禄3年(1690)に菱川師宣画の「東海道分間絵図」が刊行されましたが、この絵図にのっている茶屋の麺類をかぞえると、「うどん・ソバ切」がわずか六か所、「うどん」「そうめん」各一か所に対して、「ソバ切」が21か所もあります。これは、このころまでに、市場におけるうどんとソバ切りの立場が、すっかり逆転してしまったことを意味するものでしょう。
ちなみに、松尾芭蕉が死んだ元禄7年ごろの江戸市中の人口は、35万3000人とあります。
元禄15年(1702)は、義士討入りの年です。ソバ屋二階の勢ぞろい説は、明らかに後世の創作ですが、江戸市中にも、このころには、今日でいうような独立したソバ屋が多少はできていたかもしれません。
元禄もおわり、宝永から正徳にかけては、世は遊蕩気分盛んで、江島事件など起こり、艶本なども刊行されてきました。江戸のソバ屋にもこの風潮はみられ、一部のソバ屋は二階を出合茶屋(連込み宿)のようにしていたそうです。
正徳から享保にかかるころ、今日の"かけそば"のもととなる"ぶっかけ"が現れました。元祖は新材木町の信濃屋。冷やかけでの立喰い、というその軽便さが気の短い江戸ッ子に受けて、大評判。
享保5年には、町火消の「いろは……」組が制定されます。
ところで、「享保半ばのころ、神田辺にて、二八即座けんどんといふ看板を出す」という記事が『衣食住記』にあります。これは、享保13年(1728)のこととされています。
この"二八"の意味をめぐつて、いろいな説が出され、今日でも結着はついておりませんが、大きく分けるとこれは二つに分かれます。まず、「小麦粉とソバ粉の混合比説」です。二対八というわけです。しかし困ったことに、二八うどん・一人ソバ・二六ソバ・三四ソバなどという言葉もあるので、これでは完全な説明にはなりません。一方、「九々代金説」があります。二八は十六文、一八は八文、二六も三四も十二文と、ここまではうまくいくのですが、肝心の享保のころのソバ代金は十六文ではなく、六〜八文だったのです(十六文になるのは、20数年後の寛延ごろからです)。いずれにしても、この宝探しの暗号のような"二八"は昔から頭の痛い問題でした。
次にここで、"即座"の意味を考えてみます。ソバ粉100パーセントのソバは、打ってしばらくおいておくと、ぼろぼろにくずれて切れやすくなります。したがって、客の顔を見てから打ちにかかるわけです。しかし、つなぎに何パーセントかの小麦粉を加えると、おいておいても切れないので、あらかじめ打っておき、客つ来ても即座に出せるわけです。したがって、この"二八即座けんどん"というソバは、小麦粉が何パーセントか入っていたソバであることにまちがいはないと思います。

江戸後期のそば ↑目次 ↑ップ

江戸の町人文化は、時代が宝暦・寛政を経て欄熟期の文化・文政へと近づくにしたがって、その奪修の度を加えていきます。ソバも、この流れに無関係でいるわけはありません。
ソバ屋がきれいな座敷を作り、立派な茶屋のような店を建てて、酒を出すようになったのは寛政年間からです。
またこのころに、麻布永坂の「更科」が出現しているところをみると、純白の"さらしなそば"や、多種多様の"変りソバ"などの、"あそびのソバ"の発展も、寛政ごろなのかもしません。
庶民の経済的余力により、今日もし作ろうとすると莫大な費用がかかる高級芸術品の"蕎麦道具"なども出回りました。たとえば、黄表紙作品で有名な滝沢馬琴所有の、「螺細(らでん)けんどん箱」などはすばらしい珍品で、これを、文政年間に行なわれた「耿奇会」という骨董の合評会に出品したとあります。
雲州松江の藩主・松平不昧公が参勤交代で江戸に居たのは、この江戸のそば文化の欄熟期でありました。恐らく、彼は茶・禅で育んだ鋭い目で江戸のそばの長所・短所をしっかりと見きわめて松江に帰り、出雲そばの基を作ったのです。
文化14年には、江戸・柳橋でソバの大食い大会がすでに行なわれております。
両国川開きの花火、この日はソバ屋のかき入れ時だったそうです。 文政年間における江戸市中の食べ物屋は、ざっと六千百余軒。このうち約半数の三千軒がソバ屋でした。一町に少なくとも一軒は必ずソバ屋があったとあります。ちなみに昭和54年の東京都全域のソバ屋は六千七百余軒だそうです。この時代、いかに多くのソバ屋が江戸市中にひしめいていたかに驚きます。
従来のソバ切り高級化に反して、二八ソバは時がたつにつれ粗雑化していきました。ついには、二八ソバは"駄ソバ"の代名されてしまいました。そして方を、"手打ソバ"または"生ソバ"と呼び、「手打ちソバ屋は二八の駄ソバは売らず」などと称したようです。もちろん、この時代の"二八ソバ"はやはり羊丁打ちで作られていたわけです。
しかし、幕末になると、二八ソバ屋も手打ちソバ、生ソバを名乗るよになり、店構えも立派にして、店を見ただけで、両者の区別をつけるのは困難になりました。ある意味では、現代はこの延長線上にあるわけです。
なおソバの値段は、寛延以来の十六文が百年近く続いておりましたが、天保12年(1841)の天保の改革により、一時、十五文に値下げさせられました。しかし、幕末のインフレに伴い、以後うなぎ登りで、明治に入ったとき(1868)には、二十四文にもなっていました。

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今日から見れば、江戸時代の夜ソバ売りという商売は、何かロマンの香りさえ漂う男の華という感じがします。これは落語の影響でありましょうか。夜ソバ売りが、いつごろ起こったのか、その発端は不明です。
しかし、貞享3年(1686)の饂飩ソバ切りの夜売りを禁ずる御触書くが残っています。これは火事を恐れての禁止でした。そして、この夜売りソバ売りがいつのころからか、"夜鷹ソバ"と呼ばれるようになりました。売る品物は、かけそば一品だけでした。
"夜鷹"とは、廷など抱えて夜路傍で男の袖をひき、売春した街娼の俗称です。これをなぜ夜鷹と呼ぶかに関して、おもしろい説を一つご紹介いたしましょう。彼女たちが夕方現れ、客を引くときの呼び声「ちょっと、ちょっと」が、蚊母鳥(よたか)の「チョッ、チョッ」という鳴き声に似ていたというのです。真偽のほどは知りません。
そして、この夜鷹が、夜ソバ売りのよいお客さんでした。また、両者とも夜になると出現します。"夜鷹ソバ"のいわれです。
同じころ、関西・京阪では「夜鳴うどん」というのが盛んでした。この東西の夜ソバ売りの両大関に共通な点は、これを買う人は、隣近所に遠慮して、声を低くして買ったということでした。
ところが、宝暦年間(1751〜64)に、夜鷹ソバより清潔な"風鈴ソバ"が出現しました。屋台に風鈴を下げ、初めは売り声も出さず、きれいな器を使って、"しつぼく"などの種ものを売り、大当りでした。ライバルの登場です。
その後、夜鷹ソバが風鈴をつければ、風鈴ソバは売り声を立てる、というようにお互いがまねし合い、つまりは特徴がすっかりなくなって両者の区別ができなくなりました。
さらに文化・文政になると、不潔で評判を落としたことに加え、町に安直なソバ屋が増えてきた結果、幕末に向かってだんだん夜ソバ売りは消えて少なくなってゆきました。
客二つつぶして夜鷹三つくい 当時の川柳です。ソバ一杯が十六文として、夜鷹の値段を計算してみてください。

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ところで、江戸が東京に変わると、物価は次第に上昇し、大正七年の米騒動は、ソバの値上げにも影響を与えました。
製粉は、直径一尺八寸(約54.5cm)もある大石臼を人力で回していたのが、日清戟争あたりから石油エンジンに変わり、その後、西欧の鋼鉄製ロール挽き製粉機が導入されて現在に至っています。
明治13年の「読売新聞」に、「近頃は、東京府下で鍋焼うどんを売る者は863人いるが、夜鷹ソバを売る者はたった11人」などという記事が見えます。ざるそばにのりをかけるようになったのは、このころからです。
大正12年の関東大震災以後は、ソバ屋でも、ご飯の井物を出すようになりました。
昭和16年からの第二次世界大戟は、日本全体がそうであったように、ソバに対しても潰滅的な被害を与えました。
昭和25年、もり、かけ15円、やっと店に腰かけてソバが食べられる世の中になりました。しかし、これ以前、約10年間続いたソバの空白時代の影響は甚大であります。ソバの材料、ソバの製法、そして何よりもソバに対する日本人の姿勢、これらがすっかり変わってしまったのです。
以来50年、町には「ソバという名の麺」にしかすぎないような代物が、形だけの高級志向で氾檻しています。
伝統ある日本のソバは、今、混沌の危機に直面しているようです。

資料提供 ワン・ライン(郷土出版物)

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