| 信州そばと出雲そば…比較討論 ↑目次 ↑トップ
白石 そばという植物の日本における歴史は決してそう短かいものではありません。島根県の頓原町では、ワシントン大学の塚田松雄教授によって同位元素の鑑定により、一万年前のそばの花粉のあることが証明されております。高知県高岡郡佐川町では9300年前のそばの花粉が認められています。当時、そばが食用であったか否かは定かではありませんが、このように長い歴史があり、他の食物との関連から、食用であったと考えられながら一方では、いわゆる五穀の中にも入っていないのです。
しかしその年代はともあれ民衆の間に親しまれてきたまぎれもない食文化の一つであります。 今日は長野県から、かつては信濃毎日新聞で活躍される一方、信州そばについて造詣の深い中田さん、松江市にお住まいのふるさとの文化の研究で小泉八雲文化賞を受けられた荒木さん、このお二人に信州そばと出雲そばとについてまず語っていただきます。
それでは中田さん、信州の方の視点を元にして、そば切りの歴史と食べ方、あるいは特色についてお話し下さい。
信州そばの原形 ↑目次 ↑トップ
中田 そばの歴史は先ほどのお話にもありましたが、一万年前にさかのぼることができます。日本列島にはもっと前に入ったと想像しますが、しかし、そば切りの歴史は、文献ではっきりしている限りでは430年前です。天正2年(1574年)、織田信長が長島の一挟をしずめている頃、戦国時代の真最中に、長野県木曽郡大桑村にある定勝寺という臨済宗のお寺で、仏殿修理の完成祝いの席に地元の人たちがお酒やら色々な物を持ちよりました。その中で金永という人がそば切りを持ってきたと、お寺の記録に残っています。カタカナで、ソハキリと書いてあります。これが日本で一番古いそば切りの記録です。今から五年前にわかったのです。それまでは江戸開幕後の慶長19年(1614年)、近江の国の多賀神社の社僧慈性が江戸城へ天台宗の教義の講習会に出かけた折、仲間の坊さん三人と銭湯に行ったところ、混んでいたからやめて常明寺というお寺に寄ってそば切りを食べたという記録がありまして、これがそば切りの初見だったのです。
その当時、信州ではどういう風に食べていたかについて、ありがたいことに、文献があります。『中山日録』といいます。寛永13年(1636年)日光東照宮落成に招かれて、御三家の一つである尾張藩の初代の殿様が出席するために名古屋から中山道を下ったわけです。当時は木曽地方は尾張藩の領内、これは明治維新までずっとそうでしたが、尾張藩の領内の一番東側、東の境で尾張藩はおしまいで、次の宿から松本藩の領内になる所に、中山道の宿場の一つで贄川という所がありました。お殿様付きの儒官で堀杏庵という人がいて、随行日記をずっとつけていました。この『中山日録』に4月4日、贄川に泊まった時殿様からそば切りを賜ったとあります。そば切りは小麦の麺を冷やして作ったものに似ている、つまり冷やそうめんのようなものである、と書いています。そうめんは鎌倉時代からありましたから、そうめんにたとえたのでしょう。食べ方も書いてありまして、蘿葡汁、蘿葡とは中国の漢語で大根の意味です。醤を加え、醤というのは味噌という意味です、それから三種類の薬味を加えるとあります。一つはかつお粉、それからねぎとにらを加えると書いています。ついでに言いますと、今のような鰹節が発明されるのはもっと後で、当時はありませんでした。かつおの粉をだしに使うのは奈良時代か平安時代からやっていたことで、鰹は堅魚から来ているわけで、堅くして粉にして調味料に使ったのです。さらに興味ある記述がありまして、あんまりおいしいので、お供の中には数十椀食べた者がいたとあります。ということは、当時信州の食べ方は、大根の汁に味噌を溶いて、そこへ三種類の薬味を加ゝえ、お椀で食べたということです。現在、出雲そばと信州風、江戸風といいますか、東日本系統のそばとは食べ方が違います。大きい違いは、出雲そばは割子で汁をかけて食べます。江戸でも初期にはぶっかけとか冷がけとかいって、つゆを上からかけて食べました。いわゆる盛りとか、ざるというのは、元禄頃以降のことで、つゆの中へつけて食べるということです。しかし、当時の信州のそばの食べ方は、お椀で食べた、数十椀もおかわりをするということはつけて食べたのではなく、お椀で出てきたものを食べておかわりをしたという風に解釈できるわけです。今、日本に残っているのは、岩手県の「わんこそば」というのがその食べ方です。そういうものと、出雲そばの割子のようにかけて食べるというのが共通しているのではないかと考えています。
白石 よくわかりました。当時は、今とそう大きな隔たりがなかったようですね。
江戸そばと出雲そば ↑目次 ↑トップ
中田 それ以降、どうも信州そばは江戸から逆輸入されています。東日本では江戸のそば屋がものすごく発達したものですから、そばの食文化は各地で逆にもどってきて、江戸風になっています。信州のそば屋さんも、原形の食べ方は一、二のそば屋さんには残っていますが、ほとんど江戸風になっています。ただ民間ではそばやうどんの食べ方の中に、おしぼりという名前の食べ方があり、大根をおろしてそれを絞った汁の中に味噌を溶いて、生味噌の場合が多いんですが、焼味噌も溶いています。この食べ方が、長野から上田にかけての千曲川の両側に残っています。かってのそば切りができた当時の原形がおしぼりという形で残っていると思います。しかし、全体に現在は信州そばも、江戸風のそば屋さんの汁の作り方をまねています。薬味に大根を少しぐらいは使いますが、大根おろしそのものをベースにしたつけ汁というものは非常に少ないのです。
白石 では、そば切りの原形を残していると言われる出雲そば、地元出雲の方ではいかがですか、荒木さん。
荒木 さきほどの完勝寺の記録、『中山日録』の古文書コピーをわざわざ持って来ていただきありがとうございました。私は純出雲人で、出雲の食べ物こそ世界一だとの考えでやって来た人間ですから、おそばも出雲が信州の出先ぐらいに扱われると非常に困る立場です。ですから、因ってしまいます。出雲にはそばに関する第一資料がきわめて乏しいのが現状です。天明6年(1786)の文書にそば切りという言葉が出てくるのが一番古くて確実な資料です。
私は多感な13歳〜15歳の頃、食べ物に深い関わりのある仕事を父親がやっていた都合で、中国の山東省にいました。毎日中学校に通う行き帰りに、私の大好きを店があって、いつもガラス越しにそば打ちの技を見ていました。出雲といっしょだなという印象を受けました。
中田さんがおっしゃった定勝寺が松江藩初代藩主の殿様がいた松本藩に近いことに興味を感じます。
それと、越前そばが出雲のそばにそっくりであることをキユーピーという食品会社の方から教えていただいたことがあります。結城秀康が越前に着任した折、家老の本田富正は、連れてきたそば職人にそばを打たせています。それが今日の越前そばに成長したとパンフレットにありました。結城秀康の次男坊が松江の殿様です。
このような事実関係から、出雲そばと越前そばのつながりがあるような気がして、今調べています。
来年は島根県あげて全国に不昧公ブームを起こそうと準備が着々と進んでいます。不昧公はお茶とそばと骨董さえあれば後は何もいらないとおっしゃった方です。ブームの中から、ルーツ調べ、器、食べ方など一切をきちんとした形にまとめたいと考えています。
越前とも共通しますが、大根に特徴があります。どういう大根かというと、むくろ大根、ねずみ大根、この二つは今の浜大根という山菜です。出雲中の山野にたくさんあります。それとワサビ大根ですね。中海に浮かぶ大根島のそりこ舟の船大工さんが栽培していたものを、勤めていた職人さんが分けてもらい、植えかえして何百年間残っていた。一昨年二ケ所から発見されました。いろいろ手を尽くして現在二ケ所で何百坪か栽培しています。わさびより風味があっていいと思います。ただ浜大根のように大量栽培するのは簡単ではないように感じています。
薬味としての大根 ↑目次 ↑トップ
白石 そのワサビ大根は、わさびとはちがうけれども薬味としては味も良く辛味もあって良いということですね。
荒木 ワサビの香気、風味があります。もちろん辛味もあり、人によってはワサビより辛いと言います。これが種子では栽培できない。私は一挙に成長点培養でやったらと強く主張しています。というのは発見した端緒は、日曜農業の方を耕運機で耕して何日かたった頃に見に行ったところ、畑中のワサビ大根が発芽していてびつくりして私の所に持ってこられたのです。切り刻んで培養ができれば量産が可能ではないかと思い、栽培しながら研究しています。
私の家の近くにあるそば屋さんは、大根おろしの中に辛味大根の絞り汁を少し入れてお客さんに出しています。評判が良くて固定客ができているようです。サカタの種でつくつた蕪と大根との一代雑種ですから種が取れない。栽培農家が喜んで供給してくれているそうです。福井でも富山でも大根おろしが使われているように、出雲も大根おろしを大切にしています。薬味としての大根の持つ意味は大きいと思います。
中田 大根は信州でも非常に重要視していました。1600年代に江戸で発刊された『和漢三才図会』、俳語書の『毛吹草』の中に、近頃江戸ではそばの麺類を辛味大根で食べることがはやっている、その辛味大根を自分の庭で植えている者も多い、その辛味大根は信州の景山大根、摂津のものなど三種類ぐらいの名前を挙げています。江戸でも1600年代にすでに信州の辛味大根が有名であったことがわかります。出雲もそうであるように、会津には会津の、信州には信州の、あるいは越前も同様に各地に辛い地大根があります。
そば切りの伝播、信州から出雲へ ↑目次 ↑トップ
中田 信州からそばが各地に伝播していったルートには大きく言って三つあると思いますが、その一つが大名の国替えですね。大名の国替えには台所を預る職人がついて行きますから、専門にそばを打つわけではありませんけれど、そば切りの技術は当然持っていたと思います。松平直政公の時も賄方がついて来たと思われます。
奥会津に裁ちそばというそば切りがあり、今のそば切りの原形ではないかと私は思っていますが、あとはだいたい今、日本中のそば屋さんはほとんど同じつくり方をしています。そば切りというものが偶然に信州、出雲、九州など各地に同時にできたのではなく、出雲が先でもいいんですが、最初にできたものが他所に伝播していったと考えるのが自然だと思います。
私は、松本から出雲へ藩主が国替えになった時に信州のそば切りの技術が伝わったと断定しているわけではありません。同じ信州の上田藩主仙石正明が兵庫県の出石に行って、信州のそば切りを賄い方によって伝えたと出石のそば屋さんが言っています。屋号が「南枝」といいます。中国の『文選』という書物の中の一節を殿様からもらっていて、つまりは故郷を懐かしめという意味合いだと思います。兵庫県知事からも、創業年や出身地が上田であることなど認められています。郷土史家の話にも、殿様についてきた職人が百何十人いたという記録があるといいます。それからもう一つ、会津藩にいた保科正之は信州高遠から来ています。現在、会津そば店には高遠そばというメニューがあります。
つまりは、出石も会津も国替えによって信州から来た大名が伝えています。そこで、出雲も信州から伝えられた可能性が非常に高いと思われます。それを否定するような材料があれば教えていただき、考えを改めねばなりません。出雲もその可能性が高いという意味でして、断定しているわけではありません。
出雲そばの特徴 ↑目次 ↑トップ
白石 そば切りのルーツ、伝播ルートに触れながらそばの薬味のことがでてまいりました。薬味には鰹節、ねぎ、にら、ひしおと申しますか、味噌などがあります。出雲のそばの系統では海産物であるノリも欠かせません。十六島ノリというものが有名です。そばの味を引きたてるこの薬味についてもう少し触れたいと思います。共通性、相違性、特色についてお話しください。
荒木 ノリということではだんぜん出雲のノリです。奈良時代からたくさんある中で、出雲のノリが有名です。中田さんが言われたように、鰹節、のり、ねぎ、大根おろし、これらは元の形としては共通していたようですね。それと隠岐でいう「こじょゆ」、古い醤油という意味だと思いますが、これはまさにもろみ醤油であり、原形であろうと考えます。
白石 それでは荒木さん、この出雲そばの特色についてお話しください。
荒木 信州においては江戸から逆に帰ってきたスタイルになっているというお話ですが、出雲の麺は昔ながらの外皮をいっしょにひき込んだタイプを守り通しております。江戸、信州ではそばの実の、白い粉だけを使っていてそれが主流になっています。実は出雲そばは黒いんだということが一般の消費者の間では深く信じこまれている感があります。この頃、そこで私は粉屋さんに、「そばの鬼皮を微粉末にして混ぜているんじゃないの?」とからかったりします。ある粉屋さんは、黒いそばを各地に送っていますが、そば屋さん一軒一軒について特別なレシピのそば粉をつくり届けています。一軒ずつそば粉のひき方を変えて出しています。また松江市内の数件のそば屋さんは熱心にそばの研究をしており、優れた人たちがいます。毎日臼でひいて出来具合を見てその良し悪しを一生懸命追求しています。この数件のそば屋さんのひいている粉はほとんど鬼皮は入らないやり方ですから、真白でもありませんけど世に言う茶褐色の出雲そばというイメージとも違います。
また風味のことも言います。なぜかとれたてのものは青臭い気がしますし、二月、三月頃になると実に何とも言えないおいしい味がするように感じています。ここのところは数字に表せない一つの感覚の問題です。長年食べ物をやってきた私の実感で、そこのところに昔の人もそば好きの極意を見ていたのではないかなと思っています。
そば粉と石臼 ↑目次 ↑トップ
白石 いかがですか槻谷さん、信州と出雲のそれぞれに、そばに対して造詣の深いお二人の話を聞いて日々そばを打っている立場で、どう感じられますか?
槻谷 同志社大学の三輪茂雄先生が『粉こぼれ話』という本の中で、京都の東福寺について書いておられ、国師にそうめんを供える儀式が七百年間続いているとあります。めんはせいろに入れ、つゆは昆布だしで、大根は八ミリ角で長さが五センチのものを積みあげているとのことです。この東福寺に中国の宋の時代の製粉技術の設計図があるそうです。もう一つ韓国沖で沈没した東福寺の船から石臼が出てきた。中国から持ち帰る途中だったようです。今のそば切りの生いたちを考える上で、石臼、製粉、打ち方は小麦の技術の展開との関わりを調べていくとその影響がわかるのではないかと思われます。
中田 三輪先生の『粉の文化史』の中に、天平年間に水車式製粉機があったという記録がある。その後、鎌倉時代までは水平回転の臼の記述はなく、鎌倉の初めに中国から石臼が渡ってきたとあります。その石臼はお茶をひくためのものでしたが、小麦粉をひいたら非常に具合がいいということで、たちまち一般の農家にも普及したと言っておられます。素麺、素麺という字は正倉院文書にも出ているし、うどんやそうめんの祖先は奈良時代からあり、現代の形は鎌倉時代からあります。しかしそば切りだけはなぜ戦国時代にならないと出現しないのか、という点について考えなければをりません。
そば切りは、ある日突然に誰かが発明したのではなく、移行期があり、その移行期の食べ物が日本各地の山村の中に名前は違うけれど残っています。
中国のそば麺は、日本のそば切りよりずっと古くからあり、日本のように折りたたんで切るというやり方ではなく、押し出し式です。この点が違います。
荒木 出雲には出雲大社や鰐淵寺などに古文書が多く残されていますので、何か出てくるに違いないとアプローチしています。
汁を「かける」という食習慣について ↑目次 ↑トップ
白石 そば切りを中心として信州と出雲を比較しながら周辺の食文化について話してまいりましたが、出雲でつゆをかけて食べることについて、荒木さんはどう考えていますか?
荒木 中田さんの言われた『中山日録』の記述が出雲そばの食べ方とよく似ているということについて、私もなるほどと思います。槻谷さんが、この頃観光客が江戸式の、つゆにつけて食べる方になれていて、ぶっかけそばに慣れていないと言っています。私はそんなものはほっとけと言いますけどね。信州も江戸から逆輸入した食習慣にそまったように、遠い出雲の地でも江戸流をまねたかと思います。松平不味公のおそば道具は完全につゆに麺をつけて食べるタイプにできています。上流階級のものが庶民に広がったかもしれません。江戸中期、たとえば皆さんもよく御存知の「鬼平犯科帳」によくそば屋さんが出てきます。うなぎ屋よりそば屋が多い。江戸は巨大な消費地でしたが、材料供給は大坂であり、食べ方、お道具、作法は京都で起こつたものが起源ですから、消費は江戸でも発信源は京都あたりであると考えます。江戸文化の始まりは京都五山の学僧から始まったと思われます。おそばの淵源も京都五山ではなかろうかと思うことがあります。
中田 汁をかけることについて私の考えを申し上げます。信州の祖形のそば切りがかけることにあったという点で、出雲そばはその祖形の伝統をひきついでいると思います。ごはんなどに汁をかける食ベ方は九州から日本海に沿って広まっていると思います。今夜私は隠岐に行きますが、隠岐にもそういう食べ方があると聞きますし、荒木さんの本にも「ぼんぼり」とか「やなぎかけ」とかいう言葉で、お茶漬けのような食べ方があると書いてあります。新潟に行くと五平餅や、焼きおにぎりみたいなものにお湯をかけて食べる食べ物があるといいます。そういう食習慣があるところに、かけるそばが出雲に入ってきた。だから、かけるという伝統的な出雲そばが今日まで伝わっている。これが私の考えです。出雲そばというのはあるいは信州に源流があるかもしれないが、それを出雲の人たちは自分たちの文化として成長させていったと思います。荒木さんの話だと、江戸後期の連と呼ばれる文化人たちによって現在の形に固まってきたと言われる。このようにそば切りが食文化としての形式をきちんとひきついでいるのは、おそらく出雲が全国でも筆頭でしょう。他にあんまりないように思います。
白石 慶安の「御触書」をはじめ、松江藩が延享年間に出した定めに、「民衆はみだりに米を食うべからず」とありましたように、民衆にとってそばは日常食として重要でした。ひいたそば粉の中に湯をぶっかけまして、それに塩をかけて食べる、熱湯を入れて混ぜて食べるそばがき、これは隠岐、石見など各地にありました。また、だんご、焼き餅なども長い年月の間に民衆が築き上げたひとつの食文化です。うまいまずいは別問題として、そば切り以外のものも今後は食文化の一つとしてもっともっと取り入れて大いに展開させていくことも必要であろうと存じます。先頃、九州の遠賀川の流域に行きましたが、そこでは水神祭にはかってそばもやしを出したといっていました。
農民の常食としてのそば ↑目次 ↑トップ
荒木 そばは奈良時代から救荒作物として栽培が奨励されていて、三日で芽が出て75日で収穫できます。松江藩は、初代直政公時代からずっと赤字財政で、不昧公のお父さんの代まで続いていて、藩を返上しようかというような事態にまでなったことがよくあったと聞いています。特に不昧公のお父さんの代は30年間の治世のうち十五年が凶作でした。その時にそばブームが起きています。享保16、17年頃の大凶作の年には出雲の人口の一割ぐらいでしょうか、28,000人が餓死したというほどの惨たんたる状況であったとあります。蒔くとすぐできる、二毛作もできるという意味で重要な作物としてそば栽培が広まった、特に米のできない地域では重要になったようです。
白石 普通、そばは東日本では75日、西日本ではだいたい50日、60日と言われています。
奥出雲ではかつてたたら製鉄が盛んでした。たたら師には村下、炭坂、山配など仕事による米の配分差はありますが、この職人さんたちには白いご飯をたくさん食べさせています。そばは出さない。なぜかというと、たたら職人は白米をしっかり食べさせないと腹持ちが悪いと言われていたからです。だが、そうでない人々にはそばは重要な食べ物であったわけです。決してうまい食べ物でもなかったので、毎日食べる上でいろんな工夫をして食べています。湯をかけて食べるだけではなく、乾かしていろりの灰の上に置いて食べる焼餅、あずきの汁の中にそばを切ったものを入れるどじょう汁などがあります。一般農民の常食として、米を正とするなら負の食べ物として尊重されていた気がします。山間部におけるそばと米を中心とした地域のそばとでは、同じそばでも意味が異なるものがあるわけです。
荒木 大いに違います。町と在郷では感覚が違います。在郷ではそれを食わなきや日々の糧がない。武士は給料をお米でもらうからそれを銭にかえて生活費に使わなきゃならない。そうすると町民は米を買って食べる。白米を食べるのは当たり前、他の穀物を食べるのは在郷の人たちです。
このような中からひとつの食文化として洗練されていったものが今日まで残っています。私は、ぼてぼて茶などもそれであろうと思います。観光客に出す際に、そのいわれ、淵源をよく説明して、納得してめし上がってもらう努力をお店の人はしなければならないと思います。そうしないと松江の食文化を正しく継承していくことがむずかしくなります。
槻谷さんにはそば料理をごちそうしていただくことがあります。焼き餅やお菓子やおかゆなど。色々ある中で、おかゆは奥が深いと思っています。この秋にはおかゆをメインにした食事会を開きたいと計画しています。
食文化としてのそばについて ↑目次 ↑トップ
中田 そばの食文化という時に、それはそば切り以前であるか、以降なのかということを前提にして話さなければならないと思います。
私は鎌倉より前にはそばの食文化といえるものはないに等しいと考えています。白石さんがおっしゃった、お焼き、そばがき、だんごは縄文時代からあり、救荒作物として栽培され、養老6年(722年)にははじめてそばという文字が文献に出ました。それ以降、奈良、平安時代を通じてそばという字が文献に出るのは数回しかない。そして鎌倉時代に入ってそばという文字が京都の公家さんの日記あたりに登場するようになります。なぜかというと、石臼によって初めてそば粉の大量生産が可能になって、救荒作物としてではなく一般の食べ物として普及し始めたのです。ただその当時もお湯や水を混ぜただけのそばがきが主体で、それはほとんど食文化とは言えをいものです。ですから、そば切り以前か以降か区別して考える必要があります。
白石 昭和36年、和歌森太郎を団長とする東京教育大(現在の筑波大)の調査報告によりますと、石見地方はそばをほとんど主食にしていると記されています。それは、各地の山村を調査しても認められます。私はこの記述をもとにしながら、そばがきなどのそば食品が主食というよりも、そのひとつとして雑穀とともに重要であったといった方が適切だと思います。
そば栽培のむずかしさ ↑目次 ↑トップ
槻谷 そばを栽培することはむずかしいですね。蒔けば簡単にできそうな感じですが、数量を出すことは現在でも非常にむずかしいわけです。それが良い畑もなかった時代に、焼畑でやってたくさんとることはむずかしかったと思います。そしてなにより製粉がむずかしい。
中田 ネパールとかブータンは一日一回そばを食べていますから、今では主食にしていると言って良いでしょう。
白石 西日本の四国の高知県や、祖谷地方の焼畑地域では、そば種をわらびの灰といっしょに蒔くとよくできると言います。色々な工夫をしています。ほとんどの地域でそばを作ります。対馬や壱岐の方はほとんど麦とそばを作っています。いまもそばは少しは作っているようです。対馬ではコバという焼畑での麦、ソバ、芋類の作物で、飢きんはなかったと伝えるほどです。地域によって濃淡はあるけれど、そばはかなり重要な食べ物であったと思います。山口県の場合、江戸時代の文献によると、常畑では大豆一升まくと大豆は10升できる、小豆は5升、そばは11升できるという記録があります。粟は四升できます。たくさんできるのはそばです。稗もかなりできます。貢納の義務のない焼畑での作物は文献には少なく、いわゆる五反百姓のなかで農民はしたたかに生きてきた歴史をもっているといえます。
中田 今、国内のそばの生産量は低いですね。地粉でそばを食べている人は本当に少ないですね。
白石 ヨーロッパに行きましても作ってはいますが、グラタンとかスープにしていて、補助的なものと考えている所が大部分です。
槻谷 今では、天候などの条件が合うと、優秀な方なら、10アールで5キロまいて、110キロ、九州の方では270キロ収穫する人がいます。これは四倍体品種ですが。農業技術は確かに改良されています。雨量、温度などの天候条件が満たされた場合ですが。信州でそば切りが盛んになる時、そばの栽培がどのようにして行なわれたのか知りたいですね。興味のある点です。私たちそば屋仲間では常陸秋そばは人気の高いブランドです。元をたどると信州の種なんです。茨城の方に来て改良されています。種をたどると信なるのかなと思ったりします。
白石 昭和25年の記録で、島根県では106町歩の焼畑をやっています。石見地方が中心です。その焼畑で作ったのはそばですね。東日本のような大がかりな焼畑ではなく竹薮を焼くとか、雑木や草むらを焼くというブッシュフォロー型のやり方です。学者の中には竹の焼畑などできはしないだろうと否定する人もいますが、今でも経験者がおられます。そばは根強く栽培されています。
荒木 孟宗竹はどっちかというと沿岸部が多いのです。それと竹と木とでは地下茎が違います。竹はほとんど表面だけだから焼いて畑にするのは楽です。木の生えている林だったら根が深くてそういうわけにはいきません。
白石 土用の後に切って盆明けに燃やすとよく乾燥して抽がありばちばちと非常によく燃えて、類焼を気遣うくらいです。そこで作ったそばは貢納の義務がありません。焼く時は数人で焼きます。そしてとれたものは、「もやい」といって皆で分配します。これは記録に残りません。だから記録に残らないそばの文化がずい分あるのではないかと思います。
中田 もやいですか、「ゆい」から来ていますね。
白石 雑木や竹の山に道切りをして火を入れます。多くて四、五人、家族だけという所もあります。私の知っている方で今68才の経験者がおられます。隠岐では焼畑のことを「あらけ」、あるいは「あらあけ」と言います。ここではそばも作っていました。しかし牧畑では麦が中心です。この牧畑は「あらけ」から生まれたものです。
牧畑は、ほんの形だけですが隠岐に残っています。これは貴重だと思います。隠岐だけでなく中国山地のいたる所でやっていた栽培形式です。輪転式で、中心は栗山、麦山です。ローテーションがありまして、土地を分けて栽培するとか、組み合わせてやっています。かっては共有地だったのでしょう。
槻谷 中田さんから色々な話を聞いて、信州そばと出雲そば、高遠そばなどの関連をくわしく知ることができました。ありがたいことです。今後研究調査すべきこととして、製粉技術の伝播ルートを明らかにする必要があると思います。石臼がどこからどう伝わったか、それを調べれば出雲そばの出自ははっきりするのではないかと思います。
白いそばと黒いそば、粉のとり方 ↑目次 ↑トップ
中田 製粉によってそば切りの味が左右されるのは槻谷さんの言われるとおりです。そして製粉した後の保存状態がすごく大事です。かつては保存状態が悪かったから、何かの本で読んだことがありますが、出雲そばの場合でも年を越して夏になると、つなぎを入れなきやならなくなる、普通は生粉打ちでやっているけれどもできなくなると書いてありました。
製粉でいうと、そばの実の中の芯を取り出した粉が更科粉であり、この更科粉は出雲そばとは全く違います。かつて信州そばが生まれた頃はおそらく黒いそばだったと思います。当時は製粉技術が発達していたわけではありませんからね。色そばをつくる時には白い方が好都合ですが、そばの原点は風味です。風味のないそばはそばではないと思うくらいです。ですから、出雲そばのような生き方が本道であろうと思います。
そば切りの国際化 ↑目次 ↑トップ
中田 それから、今後のそばの在り様を考える中で、国際化ということが大切であると存じます。今随分、日本そばが海外に進出しています。今後もそば切りの技術を教えることが必要だと考えています。たとえば、ネパールに行って教えることによりそば切りは普及します。そうすれば生産も増えます。
信州大学の氏原先生は、ミャンマーの麻薬を撲滅するために、けしが生えている所にそばを蒔こうと指導しています。そばができれば日本が引き取れば良いと言っておられます。
そして、健康食としての見直し、つまり薬理的な作用が大きいことがわかってきています。色を白くする、コレステロール値を下げる、血管を丈夫にするなど。中国が盛んに研究しています。四年に一度開かれるそばの国際シンポジウムでは八割方そばの薬理作用の研究発表です。健康食、薬膳料理としてのそばが見直されていくでしょう。ここに日本そばの生きる道があると思います。
荒木 30年間食品会社を経営して毎日440万食くらいの物を作ってきました。即席のインスタントラーメンは年間50億食も作っています。インスタントラーメンほどあやしげな食べ物はないと思いながら作っていました。
今後、若い人たちが喜ぶような、単純で健やかな食べ物としてそばを身近かに大切にしていこうと思います。今では油をちょっと入れれば何でもうまいと感ずる人々が沢山います。私と同じ65才や70才くらいの人とでは、食べ物する感覚の上で大きなギャップがあります。このギャップを埋めながら、現代の科学と健康に良い食べ物を求める思いとをうまく噛み合わせて、良い形でおそばを発展させていこうと思います。この点において私の果たすべき使命がまだまだ残されていると思います。
白石 健康食としてのそばの今日的意義を見直しながら、日本そばの国際化という詰も出ましたように、出雲において、そばの国際的シンポジウムが開催されることを期待したいと思います。ありがとうございました。
資料提供 ワン・ライン(郷土出版物)
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