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草創と沿革
推古二年(五九四)信濃国の智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪の滝に祈って平癒されたのでその報賽として建立された勅願寺である。
平安初期、伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、いち早くその法門に帰依して日本で最初に延暦寺の末寺になった。
出雲大社の別当寺などをつとめ、後醍醐天皇を隠岐から救出した頼源、毛利元就の尼子攻めに助力を惜しまなかった栄芸を初め、多くの名僧、傑僧を輩出。源義経、武蔵坊弁慶、北条時宗、名和長年、尼子経久、毛利元就・輝元、吉川元春、小早川隆景等の武将の帰依のあった蔵王信仰に始まり、薬師・観音に至る歴史と伝統に輝く古剃である。
本尊と根本堂
諸願成就、特に女帝の勅願寺で子年女性の守り本尊としての千手観世音菩薩を本尊とし、帝の龍眼をいやしたことから、眼病の薬師の始まりとされる薬師如来を並祭する。共に平安初期、三代天台座主、慈覚大師(794〜864)の作と伝えられ、秘仏であるため、三十三年に一回開扉給縁法要が営まれる。次回は2015年の予定である。
本堂は桧皮葺入母屋造、唐破風向拝付の五間四面、初め南北両院わかれ、観音堂は山越えの唐川にあったが吉野末期に現地にあった薬師堂と合併移建して一宇の根本堂となった。屡々火災で焼失したが現在のものは、毛利元就が尼子攻めの際の栄芸の功労を愛で、孫、輝元が再建したものと伝える。
摩陀羅神社と三台杉
慈覚大師が請来したと伝えられる守護神を祭り、江戸時代までは出雲大社の裏の後野にあったのを移築した。旅の安全と風邪の神であり、大祭は正月十一日早朝。三台杉は、同大師お手植の杉と云われる。又、常行堂には、おみくじの創始者十八代天台座主、元三大師(慈恵大師良源、角大師912〜985)もまつる。
浮浪の滝と蔵王堂と龍眼水
開山智春上人修行の地であり、当山発祥の場所である。
蔵王堂は滝の落口の岩窟内にあり、三間二面流造で蔵王権現をまつる。重文の白鳳仏もここにまつられていたと伝えられる。同じく重文の石製経筒はここに収められたと明記してある。滝は、十八米の流垂で落下の岩盤に滝壷がある。上人、この中に仏器を落し困っておられたところ、鰐魚がこれを喰えて浮かび出、上人に献じたところから鰐淵といい、寺号の起原になっている。
龍眼水は、堂の右前の巌窟より湧き出る霊水で、推古天皇に奉って眼疾をいやされたので勅願寺となった。
もみじと老杉
鰐淵寺のもみじは「いろはもみじ」と云う種類で、切れが非常に深く葉は比較的小さい。色は真紅となり他の追随を許さない。仁王門を入ると本坊前の川端の紅から本堂までの参道全体にかけて紅葉の並木で、平田市は「市の木」として「もみじ」を採用している程である。又、三台杉をはじめとして、本堂まわり、仁王門前後の参道、開山堂の下、浮浪の滝への道には老形が天をついてそびえている。幾千百年の星霜の寺の盛衰を眼のあたりにして来た老杉は鰐淵寺の歴史が如何に古いかを物語る文字通りの生き証人である。
弁慶伝説
弁慶は仁平元年(1151)三月三日、松江市郊外に生まれ、十八才で当寺に入り、三年間修行した後、姫路の書写山に移り、やがて比叡山に登ったと伝えられる。そのため、弁慶に関する伝説には事欠かず、般若橋下の川中の縦五m、横二m、高三mの袂石、根本堂後ろの硯水、大山寺から一夜のうちにかつぎ帰ったと伝う寿永二年の銘入りの梵鐘、浮浪の滝にうたれて修行した籠堂のほか、弁慶自画像、背負い櫃、勧進帳など遺品も多い。又、この弁慶のようにたくましく、人間性あふれる人物の輩出を願って十月最終日曜日には武者行列を中心とする「武蔵坊弁慶まつり」 が行われ、他に「八百屋お七」などの伝説にも恵まれている。
本坊庭園
本坊客殿書院の南庭は247.5mあり、池泉観賞式の小庭と書院軒内の平庭とを連続している。池泉の地割は凹字式でその大半は干潟様に栗石を敷き浜とし、江戸前期末の形式である。又、露地用として、投石を一切使用せず、自然石、角切石、筏石を巧みに布置したところは桂離宮古書院前の方式で飛石の手法は地方色も濃厚である。京都林泉協会が全国百五十名園の中で本庭と菅田庵と二庭のみを出雲国で撰んでいる。
文化財
山陰文化財の宝庫といわれるだけあって、国指定の重文は白鳳仏を初め、非常に多く、県指定も枚挙出来ないくらいである。又、その種類も絵画、彫刻、工芸品、書跡、考古資料等多方面にわたっている。
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