| 花崗岩で出来た鳥居をくぐると宋塗りの楼門がみえます。
楼門を抜けると正面の「下の宮」と、右手の石段上に「上の宮」があります。
正面の「下の宮」は天照大御神を祀り、今から約1000年前(天暦2年、948年)にウミネコの繁殖地として有名な経島(ふみしま)から遷されました。
このお宮は「日抗宮(ひしずみのみや)」(社伝によると、須佐之男命の御子、天葺根命(あめのふきねのみこと)が御崎の浜(清江の浜)に出かけたとき、経島の百枝(ももえ)の松に瑞光が輝いて天照大神の神託があったので、この島に大神を奉斎した。
開化天皇2年、島の上に神殿を築き、これが『出雲国風土記(いずものくにふどき)』に載る「百枝槐社(ももええにす)」であるといわれてる)ともいわれ、西の海に太陽が沈むところだと言われています。
ちょうど夏至の日、この日御碕神社と出雲大社、木次町の「日登地区」、そして和歌山県の日ノ御崎を結んだ直線上を太陽が昇り沈んで行くそうです。
「上の宮」は「神の宮」ともいわれ素盞鳴尊を祀り、背後の隠ケ丘(かくれがおか)から遷されたものです(安寧天皇の13年)。
歴史をたどると、『出雲国風土記(奈良時代)』に「美佐伎社(みさきしゃ)」、『延喜式(平安時代)』に「御崎社」と記されている古社です。
日御碕神社は、平安時代末期には平田市の鰐淵寺とともに山岳霊場として全国に知られていたらしく、『梁塵秘抄(りょうじひしょう)(後白河上皇撰、鎌倉時代)』には、
聖(ひじり)の住所(すみか)は何処(どこ)何処(どこ)ぞ
箕面(みのお)よ勝尾(かつお)よ
播磨(はりま)なる書写山(しゃきょうざん)
出雲の鰐淵(わにぶち)や日の御崎
南は熊野(くまの)の那智(なち)とかや
と記され、平安時代末に都で流行した歌謡にも歌われていました。
そして、室町時代には、当時の室町幕府(将軍足利義澄)から「日御碕造営勧進簿」をもらったことが史料にのっています。
そして、この年代に活発化した「廻国聖」によって全国にその名を知られるようになりました。──中世日御碕社の祭神は十羅刹女(じゅうらせつにょ)(スサノオノミコトの末娘と考えられていた)で、廻国聖の信仰対象となった。
廻国聖が法華経埋納の場所を奉納山としたのは、出雲大社と日御碕の両方が見とおせる地であったため、出雲大社と日御碕を参詣してはじめて意味をもつものと考えられていた。
また、戦国時代の大名、尼子氏が日御碕神社を尼子氏領国の守護神に指定したことにより、戦国期には日御碕神社は出雲大社と肩を並べる神社になっています。
現在、両方の社殿(権現造=本殿が弊殿を通して拝殿へ続く建築様式)を中心とする建築群は国の重要文化財に指定されており、桃山時代の建築様式を残しています。
徳川家光の命により寛永11年(1634年)に着手し、寛永21年(1644年)に完成しました。
本殿蛙股(かえるまた)(上を支えるための蛙の股のような建築部材)を中心とする彫刻は、竜虎をはじめ鶴亀や松竹梅、そして日光東照宮のように「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿をかたどった見事な彫刻が施されています。
これら社殿の造営資金は、幕府から1200貰文(現在の金額で30〜40億円)が寄付されています。
また、日御碕神社の宝物の中には、「白糸威鎧兜(しろいとおどしよろいかぶと)・大袖付(おおそでつき)」(平安時代になって完成された日本独自の甲胃。源頼朝が神馬一頭とともに寄進したと伝えられるが、形状から南北朝時代の製作と推定。
現在東京国立博物館に収蔵)があり、国宝に指定されています。
「物語(ものがた)ろう」出雲国大社より
[問]日御碕神社社務所(0853-54−5261)[アクセス]一畑バス大社連絡所からバス22分、日御碕下車[場所]島根県出雲市大社町日御碕455
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