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世界に誇る日本の伝統芸能、歌舞伎。中村歌右衛門、片岡仁左衛門、市川團十郎、中村鴈治郎、尾上菊五郎等々……。現代にあってなおその芸名と芸風が人気を博す梨園の名優たち。七代、十代、さらには十二代と続く彼等の系符は、そのまま日本文化の歴史を今日に伝えている。そしてその多くの系符をさかのぼると、やがてただ一人の女性と巡り逢うことになる。中世末期から近世初頭にかけ、豊臣秀吉や徳川家康などの天下人、あるいは京・大阪の民人たちを魅了した舞姫こそ「出雲阿国」その人である。この頃大社の中村という在所で鍛冶職人をなりわいとしていた三右衛門に女の子が産声をあげた。クニと名付けられた女の子は、やがて出雲大社の巫女となり、美しい娘に成長していく。永禄年間(1558〜69)、阿国は大社本殿修理費勧進(寄付集め)のため、女たちとともに諸国巡業の旅に出る。生れつき舞踏にすぐれた才能を持っていた阿国は、京都で念仏踊りを上演して人気を博し、出雲阿国の名はたちまち京の都や大阪に広まっていく。慶長八年(1603)徳川家康により江戸幕府が開かれ、まさに新しい時代が始まろうとしたこの年の四月、阿国は小鼓打ちの名手と評された名古屋山三と組んで、京都の四条河原で男装に刀をさして舞い、思い切った演出で見物人を魅了する。人々は軽快な鼓のリズムをバックに、大胆な男装舞いにゆれる阿国に拍手喝采する。「みごとな傾き(かぶき)方じや!」「天下一、阿国!」ちなみに「傾く(かぶく)」とは、新奇で異様、一際目立つということであり、新しいものを積極的に取り入れ、時代の先端をきって進む出雲阿国は「傾き者(かぶきもの)」としてその名を不動にしていく。そして、この踊りこそが、まさに歌舞伎の始まりだったのである。晩年、阿国は故郷の大社に帰り、尼となって智月院と称し、連歌庵で静かな余生を送り、七十五歳で没したといわれている。今日、出雲大社から国譲り神話で知られる奉納山へと続く道沿いには、連歌庵や阿国の墓、そして奉納山の登り口に男装の阿国を描いたレリーフの"於國塔"が建ち、往時を偲ばせている。
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