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| 物語の伝承と異なる壮大なスケール、出雲地方の弁慶足跡 ▲ |
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| 出雲路の弁慶 酒井董美著より… ▲ |
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弁慶の母は紀州田辺の人
弁慶のお母さんである弁吉は、紀州田辺(現在の和歌山県田辺市)の誕象という男が熊野権現に祈って授けてもらった娘でしたが、容貌が醜かったためでしょうか、二十歳になっても結婚相手に出会えませんでした。
そのことを悲しんだ両親は、出雲の国の結びの神(安来市西松井町)の出雲路幸神社に祈って良縁を得させようと考えました。彼女は両親に言われて、出雲の国に旅に出かけました。それは久安三年六月のことでした。
そして彼女ははるばる旅を続けて結びの神の社に到着し、七日七夜参詣を続けたのです。
出雲路幸神社でのお告げ
さて満願の夜、彼女に次のようなお告がありました。
「両親にはもともと子どもがなかった。そのわけはそなたの父は人殺しや窃盗を行うし、母もまた汚れた身の上だったためだ。けれども両親があまりにも熱心に熊野権現へ参詣して祈るので、特別の慈悲をもってそなたを授けたのである。その代わりそなたの容姿を醜くしておいた。だからそなたには夫がいないことになっている。そうは言ってもはるばる田辺からここ出雲の地まで参詣に来たのだから、そのままにしておくのはかわいそうだ。だから特に縁を結んでやろう。そなたはこれから枕木山の麓の長海(松江市長海町)に行って七年間住みなさい。そうすると夫を得ることができるはずだ」。
そこで彼女はお告げの通りに長海村へ行きました。そこでの生活は、春は野に出て蕨を折り、秋は刈り田に落ちている穂を拾って命をつなぐ、といった様子でした。その間、懐かしい両親が訪ねてくれるということもなく、いつの間にか三年たってしまいました。
夫と出会った弁吉
三年目の春のことです。彼女が蕨を折っていると、りっぱな装いをした二十歳くらいの山伏がやって来て歌を詠みかけてきました。
われはこれ出雲の神の結びにて
汝を妻と定まりぞする
それを聞いた彼女は
うづ高き身を飾りたる山伏の
わらは妻とするはそら言
と答え、初めは相手にしませんた。しかしどういうわけか結び神の諭しが思いだされてきます。そして彼女ははっと思ったとたんその山伏は、「百世の契りだよ」と桃の花を一枝彼女に渡して空中に帰って行きました。間もなく彼女は身ごもったことを知りました。そして、つわりになったのですが、なぜか鉄を好み、村里の家々にある鍬をそっと盗んできては食べることを続けていたのです。
そして九鍬目を食べ終わり、十鍬目を食べていたところ、とうとう里の子どもに見つかってしまいました。そのため彼女はその鍬を半分ばかり残してしまったのです。
怪物弁慶の誕生
ところで、身ごもって十三カ月たった仁平元年三月三日、彼女は一人の男の子を生みました。それこそいうまでもなく後の弁慶その人でした。
さて、誕生したばかりの弁慶ではありますが、既に髪は長く、歯も二重に生えそろっており、左の肩には「摩利支天」、右の肩には「大天狗」の文字が刻まれていました。さらに顔の色は黒く、しかも肌は普通の人間のそれとは違い、鉄色になっていました。ただ、お母さんが鉄を少し食べ残したからでしょうか、喉のところの四寸四方だけは普通の肌になっていたのです。また母、弁吉は生湯を取ろうとしたが、鉄を食べて生んだ子ではあるし、その子どもの様相が普通の人とは違っていましたので、ただの水ではいけないと思い、自分の手で井戸を掘って水を汲み、それで生湯を使ったのです。そして喜びの余り、彼女自身で弁慶と命名しました。
また「この井戸には鉄の道具を入れてはいけません。もしそのようなことをしたら井戸はそのまま消失するでしよう」と言われるようになったのも、このことがきっかけになっているのです。
なお、ここ長海町には「弁慶生湯の池」や「弁慶の立石」が残されています。他に彼のお母さんを祭った「弁吉女霊社」もありましたが、近年痛みがひどく消滅してしまいました。また長見神社には、弁慶が記したとされる「弁慶願状」が社宝となっています。
島に捨てられた子どもの弁慶
さて子どもの弁慶があまりいたずらがすぎるので村の人々に憎まれ、お母さんが懲らしめのため、彼を中海にある近くの島へ捨てたことがありました。現在「弁慶島」といわれているところです。
そして幼い彼が霜雪の苦しみを味わい、あちこちと氷を踏み破って歩き回っていますと、どこからともなく山伏が現れ、こう言いました。「私はそなたの父親の天狗である。そなたが一人でここに住んでいるのがかわいそうなので、少し遊んでやろう」。 そうして石にムサシの図を書きつけて、彼に十六ムサシという遊びを教えてくれました。このごろ子どもたちが「ムサシをする」と遊んでいるのは、後にこの武蔵坊弁慶が教えたものと思われます。
ところで、その山伏は彼に向かって。「そなたを向こう岸へ渡すことはいたってやさしいことだが、末世の人の参考にさせるため、それはできないのだ。だから、そなたはここから西の方に道を作って帰りなさい」と言いおいて、そのまま空中へ去っていきました。
十歳になった弁慶は、自分の着物の袖や袂に砂を入れて運び、海中を浅くして道を作って行きました。すると不思議なことに、龍神の加護のせいでしょうか、南北の波は揺すりたちはしましたが、その砂を崩すこともなく、彼は無事に向こう岸に渡ることができました。
中海の小島から対岸に渡った彼は、近くの枕木山にある華蔵寺や、そこから少し離れた福原の澄水寺、平田の鰐淵寺の三カ所で修行しました。
鰐淵寺にいたとき、四十八坊を回って、彼が味噌汁をもらって回ったとき歌ったと伝えられているのは、次のわらべ歌です。
弁慶皿持って来い 汁吸わしょ
今でも鰐淵寺には「弁慶硯の水」や「弁慶の自画像」などが残されています。そして「弁慶の持ってきた釣鐘」もありますが、そのいきさつについては後に述べておきます。
また、清水寺へ師の使いで出かけた彼が、一息で登った坂を「一息坂」と呼び、返事を待つ間、退屈しのぎに境内の桜を捻ったのを「弁慶の捻り桜」といいます。最近までこの桜は残っていましたけれども、数年前台風のために折れてしまいました。
鍛冶屋の叔父を殺して出奔
やがて彼は平田の別所で鍛冶屋をしている叔父に薙刀を作ってくれるよう注文しました。三年後にそれは出来上がりましたが、鉄丸も切ることのできるすばらしい切れ味でした。
彼は叔父に尋ねますと「他にも注文があれば、こちらも商売だから同じものを作る」と答えましたので、このようなすばらしい薙刀を他人にも作られてはたまらないと思った彼は、その場で叔父を切り殺して修行に出ようとしました。
しかし、運悪く、母が病気にかかりました。最期近くなった母は彼を枕元へ呼んで。「私の菩提を弔おうと思うのなら、紀州国に行き、誕象一門を訪ねなさい。そして、そなたがもし武士になるのなら田那部を、また法師になるなら武蔵坊と名乗るように」と遺言して亡くなったのです。
そこで彼は付近の長海神社に参詣し、書状を書き置いて出雲地方を去り京都へ上り、後に源頼朝の弟である牛若丸と運命の出合いをしたのです。牛若丸はその後義経と改めております。
大山寺の釣鐘を持ち帰る
その後、文治元年、源氏方は平家を一の谷、屋島・壇の浦で破り滅亡させました。義経に従っていた彼は、久しぶりで懐かしい鰐淵寺などに里帰りをします。そしてあるとき、師の使いで大山寺へ行ったことがありました。そのおり、大山寺の僧が、「一夜のうちにこの釣鐘を持ち帰るのならあげよう」と言いましたので、鰐淵寺の釣鐘によいのでほしいと思っていた彼は、その釣鐘を持ち帰りました。釣鐘の銘は「寿永二年五月十九日伯耆国大日寺上院鐘」とあります。そしてこの鐘は現在、国の重要文化財に指定されています。
このとき、彼は担ぎ棒の前に提灯を、後ろには釣鐘を吊して歩いたので、それ以後、釣合わないことを「提灯に釣鐘」と言うようになったそうです。
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| 義経記 島津久基著(岩波文庫)より… |
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義経記は曾我物語と対称せられる中世の歴史物語である。形態・傾向・文章の上からは、軍記物の系列に属すると観られ得るのであるが、曾我物語と共に、英雄伝説的な意図の下に後世せしめられた物語である所に、おのずから他の軍記物とは同じならざる存在を成している。すなわち「判官贔屓」という諺を産んだほどの国民的敬愛の標的たる九郎判官源義經の一代記…但しその戦功時代を欠き、幼時と失意と、すなわちその逆境時代に注力を注いで精叙した…で、いわば義経に関する種々の伝説の淵叢たる観を呈している。作者は不明であるが、流布本の成立は、室町時代、恐らくその中期以前(義満の晩年以後、大略義持から義教頃までの間か・したがって太平記の成立には先立ち得ない。)と推定し得られる。
義経記は、作品としては、構想も完璧とは言い難く、描写も稚拙の域を脱し得ない部分すらある。読過の印象からすれば、軍記物と御伽草子との中間に位置する如き作品である。幸若舞の判官物諸曲ともほとんど同材をなし、ただそれよりは比較的抒情味が勝っている点で、むしろ平安時代の物語文学の遺風を存している。併(しか)し全編に漲る作者の義経愛好熱は、民衆と共に彼の不遇の英雄に対する絶対無限の傾倒と支援とを表明していることが歴々と感じられ。読む者には、漫(そぞ)ろに被痛感奮の界に率き入れしめられる。太平記ほど、漢臭に偏せず、曾我物語ほど、仏教臭に煩わされず、文飾もさまで、過当ではなく、平易軽快で、しかも上品さをも失わず、同時に適度の通俗味をも含んだ面白い文体である。純戦記文学としては、保元・平治にも比肩し得ぬ代わりに、軍記物中、平家物語に次ぐ佳きロマンと言ってよいであろう。
部分的にも、鬼一法眼、弁慶の生い立ち、土佐坊の夜討ち、大物浦の難、吉野別離、忠信の勇戦、奥州落ち等、幾多の好題目と好文字に富んで、後の謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などの主材となった原像、一々指摘するの煩に堪えない。(特に謡曲の「橋弁慶」「船弁慶」「安宅」ないし歌舞伎一八番「勧進帳」などの諸作によって知られている各説話内容とは、かなり異なった姿をしている原形をば、それぞれ本題において見出し得るのも興味が深い。)
就中(なかんずく)、堀川御所の判官・喜三太主従の剛勇に弁慶のユーモア、あるいは童話にも似た諸勇士の土佐坊追っかけ、大物の風波乗り切りの冒険、御身替りを志願する忠信が忠孝と至情と、悪僧覚範との雪中の一騎打ち。衣川合戦の悲劇的週末の如き、いずれも興趣と迫力とをもって、本書の特色を発揮している。更に、貞烈な静の鶴岡の歌舞と、舌端火を吐く勧修坊得業の直言とに至っては、判官贔屓の高潮の極致とも言うべく、幾千万の義経ファンをして斉(ひと)しく快哉(かいさい:痛快なこと)を叫ばずに措かない。
義経記はもとより伝説的素材の集成に仮作的詩想が加えられて成ったものではあるが、その内容の全部が、些(いささか)の信憑をも置き難いほど、全然出たらめ夢物語では決してない。むしろ普通に漫然と想像せられている程度以上、史実との関係は、接触が保たれている。今その一斑を示す為に、主要な部分に就いての参考史料を附録に掲げて置くことにした。
義経記には寛永板・寛文板・元禄板等十数種の板本があって普通に行われ、近時の活版本も大抵それによって校合せられているが、誤脱が相当に多いのが遺憾である。今本文庫の校訂に当たっては、板本よりは、善本と信ずる校訂者蔵の古写本(八巻、無量、胡蝶装、江戸時代初期頃の書写)を底本とし、仮名遺・句読・漢字の充当以外濫(みだ)りに改めず、唯板本ないし現時通行の本に有って此に脱したと推し得られる部分(あるいは誤脱と言い得られずとも、通行本の方がよく通じる場合をも含む)は、[ ]をもって補い、通行本と竝(並)存するを便利とする場合は、[ ]を附して旁書(ぼうしょ)した。
尚、他に高木武氏蔵の「義経物語」と題する珍しい古写の一本(八巻。各巻共章節を立てず、かつ通行本とは、やや異同出入が多い。)を参考として校合し、これは[(ヨ)]の形をもって示すこととした。(底本を補正する意味において以外の、板本並びに義経物語との細かな異同の対照は、快適な繙(翻)読を妨げるいのを惧(おそ)れて、わざと割愛した。)通行板本に誤脱の多い一例は、巻頭の一説に「平治元年二月廿七日に」とある如き、平治の乱の史実から言っても、平治言念一二月でなければならないが、家蔵本、義経物語共に果然「一二月」となっている。(元和木活字本にも同様「一二月」とあるから、整版本になってから脱したものであろう。)のでも示され得る。が又家蔵本とても完全ではなく、却(かえ)って通行本や義経物語の方が正しい場合も少なくないから、それらの異同を照合校訂した主なる成果を、一目明かならしめる為、表に作成して「考異」として巻末に添えることにする。
本文の仮名遺は、現行の式に改め、漢字も適当に当てた。又各巻小章中、更に適宜、段階を立ててみたが、必ずしも当たらない所もあろう。偏に翻読に便したい意に他ならない。
なお義経記に関する詳細な考説は、拙著「義経伝説と文学」(明治書院)並びに岩波講座日本文学に収めた拙稿小論「義経記」に譲って、この處(ところ)には、ただ概要を述べるに止めて置く。
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