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"隠岐は絵の島花の島 磯にゃ波の花咲く 里にゃ人情の花が咲く"、隠岐を代表する民謡しげさ節である。今もなお唄い伝えられているこの歌に、隠岐のすべてがある。紺碧の海と松の緑のコントラストが美しい。、  
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《 美しい自然と配流の島という歴史が育んだ、素朴な人情と独特の文化 ! 》
 
本土から約40キロの日本海に浮かぶ隠岐は、住民の住む4つの島など大小約180の島々からなる諸島です。抜けるような青空と紺碧の海がたくましさと躍動感を感、じさせる夏の隠岐。そして北西の季節風がもたらす風波に荒れる日本海に不気味ささえ感じる冬の隠岐。これら自然の明と暗が織りなす島嶼(とうしょう)環境の中で、古来、日本海という自然の大動脈を通じて大陸の先進文化が日本本土に伝来しましたが、隠岐はその玄関口であり、また中継点にありました。当時の日本にとつての国際社会とは、中国の歴代王朝を中心とした束アジア文化圏であり、、まさに「環日本海文化圏」であったといえます。この大陸文化の影響を強く受けた日本の原始、古代から中世の歴史の涜れの中で「流人の島」隠岐の歴史と文化が育まれました。
近世に入ると、越前、加賀などの「北前船」の活動が活発化しできました。本土各地との商業活動も始まり、隠岐は「辺境の島嶼」ではなく、本土の生活や文化が移入され、本土の情報も容易に伝えられる島へと変貌していきました。隠岐を代表する民謡「しげさ節」や「どっさり節」など独特の情緒を持つ隠岐民謡には、蝦夷地(現在の北海道)から九州までを行き来する船頭によって伝えられた各地の文化や民謡から発達したものが多いのです。
また新聞記者の安井武己氏は「隠岐の島起こしを考える」という特集記事「山陰中央新報』1991年1月20日で「海岸美や固有の動植物といつた美しい自然、貴人の配流の島だったことなどによる歴史資料の豊かさ、さらに島民の素朴な人柄、人情味」を"静的な要素"と呼び、「祭りや牛突き、柑撲に狩猟、釣りといった躍動感あふれる勇壮な」ものを"動的な要素"と呼んでいます。そして「静の穏やかな隠岐と、動の雄々しい隠岐。この対極に位置する二つの要素を、隠岐はどちらも持っており、「対極であるからこそ、互いに相手の要素を際立たせているともいえる」と述べています。
隠岐は本土が長い歴史の中で失っていった人情や伝説を、離島という厳しい自然環境であったことから、後世に継承し、より豊かなものにしていったといえます。そして厳しい環境の中で育まれた「たくましい」島民の「優しさ」は来島者を歓待し、大きく包み込みました。ラフカディオハーン(小泉八雲)もまた隠岐を訪れてその魅力にとりつかれ、旅行記「伯耆から隠岐へ=知られぬ日本の面影」を残しています。その中で「少なくとも島前では現代の人工的もの総ての範囲を脱して自己を識る歓喜をそこで感じた」と述べたハーンは晩年、隠岐に家を建てて住みたいと念願していたと伝えられています。

国立公園・隠岐観光…変化に富んだ海岸線

隠岐の海岸線を見ると、外海に面した場所と湾内とではその景観が一変しているのに驚かされます。また浸食の激しい外海部でも、冬期に季節風が吹きつける北西部の海岸は特に激しく、巨大な海食崖や海食洞が多く見られます。海食崖の代表は何といっても国賀海岸の摩天崖です。海上からほぼ垂直にそそり立つ257メートルの岩壁はまさに絶景といえるでしょう。また知夫村の赤壁など、ほかにも多くの優れた海食崖の景勝地があります。海食洞の代表的なものも国賀海岸に見られます。巨大な岩の架け橋通天橋や、200メートルにも及ぶ天然のトンネル明暗の岩屋など、大小さまざまな変化に富んだ海食洞が多く見られまず。
また海岸や小島にはクロマツが茂り、海岸の景観をより素晴らしいものにしています。クロマツの林床や海岸部には、オキノアブラギクやオキタンポポ、トウテイラン、ダルマギク、オキノアザミなどの隠岐を代表する植物が多く生息しています。
このほか、大波加(おおはか)島や星神(ほしかみ)島などの無人島では数千羽のオオミズナギドリが子育てをしており、菱浦港や別府港ではクロキヅタが生息しています。このクロキヅタは紅海や大西洋にしか生育しない珍しい滞藻なのですが、不思議なことに隠岐にも見られ、海藻としてはわが国唯一の天然記念物に指定されています。
このように非常に変化に富み優れた景観を有する隠岐の海岸線は、昭和38年に大山隠岐国立公園に指定され、その保護と利用がm図られてられています。

豊かな内陸部の自然

隠岐に渡ってみると想像以上に島が大きく、結構山国なんだなという感想を漏らす人が多くいます。特に島後は島も大きく山も険しいため、いったん内陸部に入り込むと島というイメージは消え去ります。隠岐最高峰の大満寺山は標高608メートル。一連の山塊は急峻で岩場も多く、トカゲ岩や鷲ヶ峰のびょうぷ岩など県下でも第一級の景勝地が見られます。また植生も豊かで陵線や尾根部にはクロベ、ヒメコマツなどが生育し、林床にはオキシャクナゲが群生しています。このオキシャクナゲはホンシヤクナゲの一品種で、葉が小さく鉢物などに適し土産物としても利用されています。またわが国で最も低い場所に自生しているところから、暖かい気候にも耐え栽培しやすいシャクナゲといわれています。
谷奥部などにはスギやモミ、ウラジロガシなどが生い茂り、老木や岩場には地元で「隠岐ふうらん」と呼ばれるナゴランや 「ささふうらん」と呼ばれるフウラン、セッコクなどの着生ランが生育しています。しかし、残念なことに近年は乱獲等のため自生しているものはほとんど見られなくなつてしまいました。また布施村の中谷奥には、樹令250年以上といわれるスギの巨木林があり注目を集めています。最近、歩道や展望所が整備されたこともあり、ここを訪れる人が多くなりました。
内陸部の林内には隠岐島固有の種であるオキノウサギやオキサンシヨウウオ、オキタゴガエル、オキオサムシ、オキマイマイなど珍しい生物が多く生息しており、ヤマネ(天然記念物)やカラスバトも生息しています。このように大満寺山一帯には優れた自然が残っており、国立公園にも指定されています。よく隠岐島全域が国立公園の指定区域のように思われがちですが、指定されているのは海岸部と内陸部ではこの大満寺山を中心とする一部だけなのです。
このほか隠岐島は中国地方唯一の黒曜石の産地として知られ、今でも五箇村の一部では土産物の原料として掘り出されています。この黒曜石はマグマが急激に冷やされ、結晶になる前にガラス状に固まったもので、割れ口が馬のひずめのようになるのが特徴です。この割れ口がカミソリの刃のように鋭いところから、縄文時代には矢じりなど重要な生活道具として使われました。

承久の湯…気分爽快、日本海のパノラマを見下ろす天然温泉! 承久の湯

隠岐一の平野が広がる五箇地域の広々とした地に建つ隠岐温泉GOKAは、隠岐島後唯一の温泉。ゆっくりと温泉浴が楽しめる浴室、温泉プール感覚の水着コーナー、ゆったりとしたレイアウトのロビーでくつろぐことができる。山と田園風景を眺めながらのんぴりすれば心身ともにリフレッシュ。名物「隠岐そば」も味わえます(期間限定11〜4月)

 
《 西ノ島町・海士町・知夫村(知夫里島)観光案内》
 
 
隠岐の観光リゾートが、ますます楽しくなる便利な船の旅
本土の境港、七類港から隠岐汽船に乗船。カーフェリーで約2時間20分、超高速船は本土の境港・七類港・加賀港から約1時間過ごすと、島後の西郷に到着します。島前の別府にへは、カーフェリーで約2時間50分、海士へは約3時間の船旅です。船は、フェリーおきじ、くにが、しらしま、超高速船レインボーが就航し、隠岐へのアクセスはスピーディー、のんびりと自由自在。楽しみ方に合わせてご利用ください。
 
船内は、楽しさを倍増させるパブリックスペース

船旅をするうえで、まず重視したいのは設備が充実している客室です。ゆっくりとくつろげるフェリーの旅は、プロローグ・エピローグをより想い出深いものにしてくれます。航海の安全を約束する操舵室からは、迫力ある景色、紺碧の海を眺めることができます。

 
まるで海面を翼走する飛び魚のような乗り物です

高速ディーゼルエンジン搭載の超高速船レインボーは、隠岐と本土を時速70km、約1時間で結ぶ双胴型の水中翼船です。40ノットの高速力の走りは、まさに海面を浮上翼走しているかのよう。夢を見ている間に隠岐へ着くという早技です。船体は快適・安定した乗り心地、ひと味違う旅のはじまりです。

 
海が空が風が船旅をエスコート、デッキから大自然を満喫

青い海をバックに白い波しぶきを上げながら走るフェリー。左右に島根半島を見ながら船は加速を続けます。デッキに立ちエメラルドグリーンやコバルトブルーに変わる海を眺めると、海は太陽の光にきらめき、ここでしか観賞できないような岸壁や風景が楽しめます。大空に海鳥が舞い、澄んだ海面を回遊魚が泳ぐさまを間近で見れるのも船旅の醍醐味。隠岐が近くなると迫力ある景観が続き、期待に胸が高なります。

 
島へ降り立つ人をホッとさせる素朴な風土と人情

「ようこそござんした、とって隠岐の宝島へ。」と歓迎の横断幕としげさ節が流れる中、船はゆっくりと港に入ります。七色のテープが風に舞うと、港は旅情ムードいっぱい。素顔の隠岐に出会える一瞬です

 
おおいなる風景…the grand view(西ノ島町)
西ノ島の西側に連なる国賀腐岸にはイザナギ浦、天上界、鬼ヶ城、通天橋、摩天崖なとといった浮世離れも際立った名の秘境か地図に記されている。実際この場所はかつて神々がもっと身近な存在として崇められていた頃、古代神話にいうところの「霊異(くし)ふる」界、神々の世界こ最も近い地として人々に信しられてきた国賀だけに限らず、この小さな島々そのものが海洋の神殿ともいうへき壮大な自然の造形物だ。何十万年ともいわれる気か遠くなるような時間を費やして創られた奇岩や断崖の数々。果てしない地球の営みを目の当たりにしてもはや出てくる言葉など無い。その大いなる光景にたたたた圧倒されるのみである。
 
隠岐国賀海岸(国指定名勝天然記念物)(西ノ島町)

西ノ島町の西海岸一帯は、約7kmにわたって粗面玄武岩の海食崖や海食洞が続いている。これが、昭和13年(1938)に国の名勝および天然記念物に指定された隠岐国賀海岸である。昭和38年(1963)4月には、大山隠岐国立公園にも指定され、特別保護地区として保護されている。この海岸一帯は、日本海の激しい海食作用を受けて、大規模で変化に富んだ海食景観を呈している。国賀の中心は何といっても摩天崖で、海面から257mの高さをもち垂直にそそり立っている。その反面、断崖の上部一帯はおだやかな地形が広がり、一面緑の草地となっている。ここには多くの牛馬が放牧されている。
浦郷港より車で約15分・別府港より車で約30分・観光船(3/21〜11/20)→Aコース(1時間20分)大人2,040円、小人1,020円 →Bコース(2時間)大人3,210円、小人1,610円 →Cコース(4時間)(バスとセット)大人6,200円、小人3,100円 →観光バス(3/21〜11/20)1時間45分 大人2,000円、小人1,000円

 
通天橋(国指定名勝天然記念物)(西ノ島町)

通天橋は、日本海の荒波が造り出した岩の架け橋である。かつては下を船で通ったが、落石によって次第に浅くなり、現在は船は通れない状態である。このほかにも、長さ200mに及ぶ天然のトンネル「明暗の岩屋」や、荒々しい玄武岩の岩肌をみせる断崖「鬼が城」「金棒岩」や「龍宮城」「乙姫御殿」「観音岩」「天上界」などと名付けられた奇石がある。今では海路、陸路の両方とも浦郷から容易に行くことができるようになっている。浦郷から国賀に船で行くには、船引運河を通る。国賀公園道路を浦郷から車で10分で、通天橋の近くにある展望台まで行き、海岸一帯を探勝することができるようになった。
浦郷港より車で約15分・別府港より車で約30分・駐車場から摩天崖展望所まで徒歩5分・観光船(3/21〜11/20)・Aコース(1時間20分)・大人2,040円、小人1,020円・Bコース(2時間)・大人3,210円、小人1,610円・Cコース(4時間)(バスとセット)・大人6,200円小人3,100円・観光バス(3/21〜11/20)1時間45分・大人2,000円・小人1,000円

魔天崖(西ノ島町)
何十万年もの間、日本海の逆巻く風浪に削り取られてできた比類なきスケールの大断崖。標高は257mにも及び、海蝕崖では日本一の高さを誇ります。圧巻とはまさにここのことを指す言葉と言っていいでしょう。また、崖上にも行くことができ、そこから見る日本海はとてつもなく雄大です。隠岐自然館は、海と島と生きものをテーマに臨場感あふれる自然系の見学施設。
●水族館………………隠岐近海の魚たち
●生き物たち展示……動物、鳥、昆虫、貝類、甲殻類
●シアターコーナー…オオミズナギドリの子育て・隠岐海中散歩
※レインボープラザ…隠岐観光の紹介コーナー・無料休憩所
問08512-2-1583・8:30〜18:00(11〜3月は17:30まで)・無休・350円・西郷港からすぐ・P8台・西郷町西村
 
船引運河(西ノ島町)
島の中央を内海と外海を一直線で結んでいます。大正4年に完成し、昭和50年に改修が行われ、漁船や観光船には無くてはならない水路。
 
釣り堀公園センター(西ノ島町)
磯のような環境で魚釣りができるうえ、竿などのレンタルもあるので気軽に本格的な釣りが楽しめます。石鯛やグレ、鯛、ヒラメなどの大物狙いで挑戦してみては。
釣魚種/イシダイ・マタイ・クロアイ・小アジ他・ご利用料金(税込)個人1日1,500円、半日 800円、渡船料(往復)1,000円・営業期間/4月末〜10月末(火曜日定休日)7、8月定休日なし・お問合(浦郷漁業協同組合)08514-6−0201
 
マリンパーク弁天キャンプ場(西ノ島町)
問/マリンバーク管理棟08514-6-1667)・浦郷・別府よりタクシー15分/収容数7張・貸・ント及び使用料6人用6張テント付(1,500円)、テント無(1,000円)/水道・トイレ・炊事場・シャワー・西ノ島町美田・ログハウス/16,000円〜
 
黒木御所跡(西ノ島町)
後醍醐天皇の配流の地である、別府の天皇山という小高い山の項にある。この黒木御所跡は、配流されてから脱出するまでの約1年余りを過ごされた行在所と伝えられ、石碑の建つ狭い台地は、後醍醐天皇の不遇時代を偲ばせています。しかし、この行在所には黒木御所と、島の国分寺との二つの説があるのですが、天皇にまつわる伝承は黒木御所にしか残っていない点などから、黒木御所跡を天皇の行在所として昭和38年(1963)県の指定史蹟となりました。
浦郷港より車で約15分・別府港より徒歩で5分
 
黒木御所跡「碧風館」(西ノ島町)
黒木御所は、元弘の変で鎌倉幕府に敗れ隠岐に流罪された後醍醐天皇が脱出するまでの1年足らずを過ごした行在所と伝えられています。碧風館には天皇にまつわる資料などが展示されています。
入館料:大人300円、小人100円・会館時間.8時〜17時30分・※11月20日〜3月20日は閉館・問08514-7-8556(碧風館)
 
焚火神社(国指定重要文化財)(西ノ島町)
隠岐島前の最高峰、西ノ島町の焼火山(452m)の中腹にあるこの神社は、一条天皇の時代(1000年ごろ)の創建と伝えられる。もとは焼火山雲上寺として焼火権現が祀られていたが、明治以降は焼火神社と改称された。大時化のとき祈願をこめると、神の導きの光明によって救われるという故事があるように、島民だけではなく諸国の舟人の海上信仰の対象となった。かなりの急坂を2kmほど登ると、大名の館を思わせるような宮司本邸と1,000人もの参寵者を泊めることのできる雲表閣にたどりつく。老杉に囲まれた境内をしばらく行くと、大岩窟の中に半分身を隠すようにして岩屋造りの社殿が建っている。精巧を極める彫刻に飾られた社殿は享保年間(1716〜1736)の改築と伝えられている。この神社の祭礼は7月23日。祭礼で舞われる神楽は、隠岐神楽独特の荘重さをしっかりと伝えており、一見の価値がある。神社一帯は暖地性、寒地性植物の群生地で、昭和45年(1970)10月に県の天然記念物の指定を受けている。中でもその名が示すようにシダ類タクヒデンダは、この地にしか見られないものである。
浦郷港より車で約20分・別府港より車で約25分
 
西ノ島ふるさと館(西ノ島町)

西ノ島町の自然と人の暮らしの資料を集めた展示館。木村コレクションは隠岐で採集された貴重な生物資料として高く評価されています。
入館料:大人300円、小人100円・浦郷港より車で約20分・別府港より徒歩で5分

 
シャーラ船(西ノ島町)
シャーラ(精霊)船は、美田、浦郷地区に残るもので盆行事の一つとして古くから受け継がれてきたものです。このシャーラ船は、支わらと竹とで作られ、帆のかわりに子どもたちが各戸や墓をまわって集めてきた色とりどりの盆旗をいっぱいつけます。この大変素朴ながら、華麗なシャーラ船送りは、8月16日の早朝に行なわれますが、仏前の供物をいっぱいに積み込み、念備や盆唄に送られながら、引き船に引かれ静かに岸壁を離れていく姿は、素朴な哀感をさそいます。
開催日時→8月16日、7時〜10時
由良比女神社(西ノ島町)
浦郷港の入江に面した所にあり、漁業神や海上守護神として多くの信仰を集めています。大祭は、隔年ごとに7月28日から29日にかけて行なわれ、28日の海上渡御は相撲が奉納されたり、夕方からは大神輿が神社の広場から船着場まで何百人もの人々によって練り歩くという大変賑やかで勇壮なものです。そしてその大神輿を神船に乗せ浦郷港をゆっくり巡航していくのです。翌29日は還幸式で、神社の境内において元気な若者によって神輿が担がれ、威勢のいい声が境内に響き渡ります。
浦郷港より車で約5分・別府港より車で約15分
 
由良比女神社大祭(奇数年(西ノ島町)
イカ寄せで有名な由良の入江にある由良比女神社の大祭で、隠岐唯一の船まつり(夜まつり)。当社は延喜式神名神帳に名神大と記さ放た古社で、神幸の船に観客も乗せ、にぎわう。
開催日時→7月28日・29日19時〜21時
 
海中展望船「あまんぼう」(海士町)
日本海側では初めての半潜水型海中展望船が浮かぶ豊田港。赤褐色の絶壁がそびえ立つ明屋海岸の海中は起伏に富み、海藻、魚種が豊富。海に潜むマダイやイシダイが群れをなして未知なる龍宮城への旅を案内してくれる。
海中展望船「あまんぼう」
コース/菱浦港〜三郎岩営業時期/4月から10月、時間9:00〜16:05、1日6便休業日/11月1日〜3月31日交通機関/菱浦港下船、徒歩2分問、チケット販売/海士町観光協会08514-2-0101料金/大人2,000円、小人1,000円島根県隠岐郡海士町菱浦
あまんぼうハウス
1F「あまんぼう」乗車券売場、喫茶・軽食堂・特産品売場
2F海士ダイビングサービス 営業期間4月〜11月・受付時間8:0〜17:00・体験ダイビング→料金13,000円(保険込)、ダイビングスクール→料金58,000円(Cカード発行)問08514-2-0203
 
三郎岩(海士町)
仲の良い兄弟のように、島前湾に浮かぶ三つの奇岩。その姿から三郎岩と呼ばれ、船上から人目を引く景観です。
定期観光船(5/1〜11/20)所要時間:1時間30分〜2時間・大人3,000円、小人1,500円・その他に、船とバスのセット・貸切バス・貸切船・貸切観光タクシーがあります。
 
明屋海岸(海士町)
紺碧の海に雄大な赤かっ色の断崖や奇岩がそびえ、不思議なコントラストを見せています。岩場の多いこの海岸は、対馬暖流の影響を受け、魚の格好の住み家であり、又、町営のキャンプ場なども整備されており、夏ともなると島内外の多くの海水浴客で賑わいます。
菱浦港より車で約20分・定期観光バスコース(3/21〜11/20)・所要時間:1時間40分(大人2,300円、小人1,200円)
 
約り(海士町)
島前の海は言わずと知れた太公望達の楽園です。対馬暖流の影響を色濃く受け、魚種、魚介類がとにかく豊富で年中楽しむことができます。磯釣りから船釣りまで、とにかく島々のありとあらゆる場所でありとあらゆる魚が釣れます。太公望だけでなく、初心者の方でも安心して楽しめるフィッシングデッキもあります。
 
スキューバーダイビングスポット「松島」(海士町)
松島は、今流行のスキューバダイビングのスポットとして注目を浴びている。この付近は、日本北限の造礁サンゴ"アワサンゴ"の生息が確認されており、日本海の温もりを感じさせてくれる。水中アーチの岩礁に群生するカラフルなウミカラマツをはじめ、1m級のマダイやヒラマサの大群がダイバーの目の前を廻り、紺碧のブルーホールヘと姿を消していく。
問(クラブノア隠岐)08514-6-0825
 
ジェットスキー(海士町)
マリンスポーツの中でも高い人気を誇るジェットスキー。海士の青い海を颯爽と駆け抜ける快感をぜひ味わってください。
問(B&G海洋センター)08514-6-0825・浦郷、別府からパスで約10分、小向バス停前
 
シーカヤック(海士町)
にわかにブームになりつつあるシーカヤック。のんびりと漕ぎながら、ダイナミックな自然を全身で感じることができます。
問(B&G海洋センター)08514-6-0825・浦郷、別府からパスで約10分、小向バス停前
後鳥羽上皇火葬塚(国指定史跡)(海士町)
後鳥羽上皇は、承久3年(1221)倒幕をめざし北条義時追討の院宣をくだしたものの、承久の乱が、鎌倉幕府の圧倒的勝利の結果、隠岐・中ノ島に配流れされました。その時、上皇の御歳42才であり、延応元年(1239)60才で亡くなるまでの19年間、ひたすら都への思いに苦しみながらも、この島の温かい人情や豊かな自然に接することにより、都では得られなかったおだやかな日々も得、やがて和歌や仏の道などにうち込み、新古今和歌集の改訂や遠島百首、後鳥羽院御集など和歌文学史上特筆すべき作品の数々が生まれたのです。この後鳥羽上皇行在所跡である源福寺は、明治2年(1869)の廃仏毀釈で焼失し、今ではうっそうとした杉木立ちにその跡を偲ぶことができます。また、そのすぐ近くに残る小さな勝田池のほとりには「蛙鳴く刈田の池の夕だたみ聞かましものは松風の音」と上皇の詠まれた歌碑がひっそりと建っています。上皇のご遺骨は、源福寺の北部丘陵に埋葬され廟殿が建てられ、この山陵を現在は後鳥羽上皇御火葬塚と呼んでいます。当時、遺骨の一部は北面の武士・藤原能茂によって都へ持ち帰られ、京都大原の法華堂に納められました。御火葬塚は源福寺の住職や上皇の身辺の世話など忠勤に励んだ土地の豪族村上氏により守られてきました。明治6年(1873)、遠島の地で崩御された順徳、土御門上皇とともに、水無瀬神宮へ合祀されることとなり、山陵の御本殿が取り払われ、その時、鋼根の金具といっしょに三重の骨壷が発見されました。そして明治8年(1875)宮内省が山陵を修復し、それよりこの一帯は宮内省所管となり、村上氏が管理することになりました。
菱浦港より車で約15分・定期観光バス船セットコース(5月1日〜8月31日)・料金 : 大人5,300円、小人2,700円
 
隠岐神社(海士町)
後鳥羽上皇を祀る隠岐神社は、昭和14年(1939)上皇没後700年を記念して建てられたもので、神社は隠岐づくりといわれる様式で、銅板葺の本殿および拝殿や宝物殿などからなっています。又、境内には300本の桜の並木があり、4月14日の例祭日ごろには一斉に開花し、島内外からの花見を楽しむ人々で賑います。
海士町中里・菱浦港より車で約15分・定期観光バス(3/21〜11/20)所要寺時間:1時間40分・料金:大人2,300円、小人1,200円
 
隠岐神社(海士町)
後鳥羽上皇を祀る隠岐神社は、昭和14年(1939)上皇没後700年を記念して建てられたもので、神社は隠岐づくりといわれる様式で、銅板葺の本殿および拝殿や宝物殿などからなっています。又、境内には300本の桜の並木があり、4月14日の例祭日ごろには一斉に開花し、島内外からの花見を楽しむ人々で賑います。
海士町中里・菱浦港より車で約15分・定期観光バス(3/21〜11/20)所要寺時間:1時間40分・料金:大人2,300円、小人1,200円
 
村上家(海士町)
海士の豪族で後鳥羽天皇に忠勤を励み、天皇亡き後、現在まで代々御墓守を務めてきた。重厚な石垣と正面の門が往時の勢力をしのばせる。
位置・分類
海士町中里・菱浦港より車で約15分
 
海士町歴史民俗資料館(海士町)
すぐ近くに隠岐神社があり、採光などに工夫をこらした和洋折衷の大変シャレた建物です。後鳥羽院関係をはじめ、隠岐神社宝物などが展示されており、隣接した別館には民俗資料など300点が展示されています。
海士町中里・菱浦港より車で約15分・定期観光バス(3/21〜11/20)所要寺時間:1時間40分料金:大人2,300円、小人1,200円
 
日本名水100選・天川の水(海士町)
環境庁選定の日本名水百選・真言宗の古利清水寺境内の一角に湧出する。日量400tもあり生活用水、農業用水として広く利用されている。
海士町保々見・菱浦から車で20分
 
金光寺山(海士町)
高さ120〜160mの台地状の山で、山頂までドライブウェイが通じています。遣唐使、小野篁はこの地で約2年の歳月を送り、その間、六社権現に百日の参篭をし、仏像を刻み、都に還らせ給えと一心に祈願したといいます。山頂からは島後の島々が遠望でき、大変眺望の良い所であり、又、ここではバーベキューが楽しめるようになっており、イカ、サザエ、アワビなどの海の幸を焼きながら食べる味は格別です。夜には、点々と漁火が点り一層ムードを盛り上げてくれます。
海士町東・定期観光コース(3月21日〜11月20日)所要時間:1時間40分(大人2,300円、小人1,200円)
 
キンニャモニャ祭(海士町)
その昔、菱浦に住んでいた松太郎じいさんの恋物語を歌ったのがキンニヤモニヤで“キヨが機織りゃキンニヤモニヤ〜"と、楽しい歌詞とメロディー、ユーモラスな踊りで約1000人がパレードします。毎年8月下旬、海士の熱い夏はこの祭でピークに達します。
海士町菱浦・開催日→平成14年8月24日(土)13時〜20時・会場→ 海士町菱浦地区湾岸道路一帯・問(海士町 キンニャモニャ祭り実行委員会  海士町商工会内)TEL08514-2-0376・FAX08514-2-0775
田楽の舞(国無形文化財指定)(海士町)
日吉神社で行われる古代芸能。地元ではシューハイラー(十方拝礼)・庭の舞という。
 
隠岐知夫の赤壁(知夫村)
知夫里島の西海岸には、およそ1kmにわたって荒々しく削りとられた断崖が続いている。断崖の高さは150mから200mにも及ぶが、その色彩のすばらしさに目をうばわれる。断崖の色彩は、その断崖を構成する粗面安山岩質の凝灰岩(鉄分を含有する)の風化の度合いによって、赤、黄、紫色などに変化し、玄武岩の黒、粗面岩脈の白色などが強烈なコントラストをなしている。中でも、昇龍岩と臥岩は見事で、夕日を受けると岩肌は深紅に輝く。昭和10年(1935)12月に国の名勝および天然記念物に指定されており、国立公園の特別保護地区にもなっている。
来居港より車で約20分・郡〜赤ハゲ山〜赤壁〜郡のハイキングコースがあります(所要時間4時間)
 
アカハゲ山(知夫村)

知夫里島の西部に位置している。標高325m。山頂展望台が整備され、車で乗り入れできる。360。の大パノラマ、まるで地球儀に乗っているような錯覚になる。無料の4基の望遠鏡、ビデオが整備してある。付近は放牧場となっていて牛馬の放牧が多い。かってさかんであった牧畑は、居島牧、西牧、中牧一帯で行われていた。牧畑の境界は木の柵または石垣で仕切られ、中牧には右横垣が長くつづき独特の牧畑景観を残存させている。5月になると、この山肌一面に野大根が咲き乱れ、遠く定期航路の船上からも眺められる。
来居港より(車で約20分)トイレ・水道(湧き水使用のためそのままでは飲めません)来居港より車で20分、又は徒歩で2時間・問(知夫里島観光協会)08514-8−2272

 
河井の地蔵さんの湧き水(知夫村)

島根の名水百選に選ばれていて美味しい水と評判で、お茶や料理用として水くみに来る人が後を絶ちません。島の主要な生活路線の脇に並ぶお地蔵さんの所から湧き出ており、これまでに一度も枯れたことのない湧き水で、島の人たちにとても親しまれています。
来居港より車で約5分

 
郷土館(知夫村)

昔から使用されてきた、集魚用のランプやナマコを突くための「ナマコおとし」、冬のイカ釣り船において手を英る「ばんや」など、村人が長い年月にわたって生活と共に培ってきた民具類を始め、約2,000点にのぼる貴重な郷土文化資料が展示、保存されています。
知夫村郡・来居港より車で約5分・入場無料・連絡先→公民館08514-8-2301

 
お松の碑(知夫村)

渡津の入江にある小島、島津島にあるお松の碑は磯馴れの松に囲まれて立っている。お松の名は、隠岐の代表的な民謡である「どっさり節」にまつわる悲恋物語とともに語り継がれている。昔、知夫村仁夫の漁師の家にお松という娘がいた。あるとき、この島に寄港した越後の船乗りと恋をし、その若者はよく北国の追分節を歌って聞かせた。やがて船出の時が来て若者は去り、再びお松のもとへは帰って来なかった。お松は聞き覚えた追分節を口ずさみながら、若者をしのぶのが唯一の慰めとなった。節まわしは若者のものとはずい分遣っており、島の人々はそのことを注意したが、お松は「どっさりくっさり似ています」と言って寂しそうに笑った。「どっさりくっさり」とは隠岐の方言で、「どうにかこうにか」という意味である。「どっさり節」の歌詞は恋歌に近いものであるが、節まわしにはどこか悲しげな、今にも消え入りそうな哀感がある。お松の碑のそばには、「忘れられよか 知夫里の港とほいどっさり二日月、明日が別れの洗ひがみ」という西条八十の詩碑も建っている。
知夫村島津島・来居港より車で5分

 
渡津海水浴場(知夫村)

夏季限定でサザエ・アワビの採集が解禁。素手・素潜りで楽しめます。

 
長尾海水浴場(知夫村)

ホテル知夫の里から歩いて5分のところにある海水浴場で、地曳き網なども体験できます。
トイレ・水道・来居港より車で10分、さらに徒歩で3分

 
《 隠岐物語 》
 
隠岐の地名由来

隠岐島は『古事記』『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が4番目にお生みになった土地で「隠岐の三子州(みつこしま)」と書かれています。「隠岐の三子州」とは、島後が親島で、島前の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親鳥に率いられた三つの子島の意味であるといいます。喜田貞吉博士によると島前三島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとってオキの島と呼称されるようになったということです。しかし『記紀』には、隠岐の地名由来は書かれておらず、なぜ「隠岐」の字を当てるようになったか定かではありません。オキと呼ぶようになった伝承として天照大神が、この島の40余丈もある木をご覧になって「美しき御木だ」といわれたことから、御木と付いたとも語り伝えられています。島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、次いで島全体の名称として沖の島が呼び名となったのでしょう。

島の明治維新

慶応4年(1968)西郷隆盛と勝海舟が江戸開城をめぐつて歴史的な会談を持ったころ、天領で松江藩預り地だった隠岐では、一般的に「隠岐騒動」と呼ばれる日本史上でも有名な事件が起きています。
この事件は同年2月に明泊新政府の山陰道鎮撫使(西園寺公望)が発した公翰(こうかん)を松江藩吏が無断で開封したことへの不満を直接の契機として、崎門(きもん)学の中沼了三(隠岐出身)らの影響をうけた島後の神官、庄屋層ら「正義党」が郡代の追放を決定し、3月に島民約三千人がほう起したものでした。そして郡代追放に成功した正義党は、西郷に会議所、総会所を中心とした日本史上でも画期的な自治政権を樹立したのでした。しかし、事件は戊辰戦争という内乱中のことで、中央政界の思惑も絡み、結局、新政府の命を受けた松江藩によって5月に武力鎮圧され、自治は80日間で終焉を迎えました。
この事件の原因は幕末以来の打ち毀しと対外的な危機感、そして天領の島民の持つ優越感が松江藩の支配に対して持っていた不満と「御一新」への期待感だったと考えられています。
この事件後の明治2年(1869)の春から夏にかけて島民の反封建的な革命エネルギーは、鬱積した不満の爆発のように、島内九十九の寺院と仏像の破壊や寺領百七十四町歩の没収という徹底した「廃仏毀釈」を生むのでした。

どっさり節

隠岐は民謡の島とも呼ばれている。著名なものに「どっさり節」「しげさ節」「キンニヤモニヤ」「隠岐追分」「相撲取節」などがあり、この他にも、田植歌、畑歌、田歌、山歌、船歌、海歌、木やり歌、祝儀歌、盆歌、祭歌、子守歌、童歌など数多い。
その中でも「どっさり節」は隠岐民謡の第一にあげられるが、それは一人の島娘の悲恋物語が伝承され、島に住む人の愛惜を伝えるからである。
江戸時代、回船が島へ頻繁に出入りするころ、越後の若者と恋仲になった島娘お松は、船が隠岐を出る時、再び島へ来るという若者の言葉を信じて待ちわびていたが、二度と若者はお松の前に姿を見せなかった。恋しさのあまり、船影を求めてお松は恋しい人から聞き覚えた追分節を口ずさんで慰めたという。お松が唄う歌はどうやらこうやら(ドッサリクッサリ)追分節に似ているというので、「どっさり節」とついたと伝えられている。
しゃもじを使って伴奏する「キンニヤモニヤ」も、変った題と軽快なテンポで親しまれる民謡である。

隠岐神楽

島根には今も幾多の貴重な民俗芸能が伝承されています。これらを大まかに分類すると、神楽、獅子舞、田楽、風流、祭礼風流、舞楽、地芝居、人形芝居などに分けられます。中でも神楽は特に多く、全芸能の半分は神楽といっても過言ではありません。かつての村単位で一つ、中には二つといった組織で伝承され習いる所もあります。これは全国でも広島県とともに最も多い数といわれています。
神楽はわが国の代表的な神事芸能で、神霊を迎える座を意味します。従って神を招く所作を演ずることで、やがて神がかり状態になり託宣を行うというのが本来の筋で、七座神事と神能とから構成されています。今では神楽というと面を着けて舞い、長胴の大蛇を出したり火炎を吹かせたりする神話劇である神能を意味するようになっていますが、本来はそうしたものではありませんでした。
島根の神楽はそれぞれ舞い方、奏楽など違いはありますが、大きく出雲神楽、石見神楽、隠岐神楽に分けることができます。中でも出雲神楽は県内はもちろん全国に大きな影響を及ぼし、石見神楽は安芸、長門・方面にも影響を及ぼしてきました。出雲神楽は構成が七座と神能に整然と分けられていることが特徴です。七座とは神事のことで、素面で剣や榊を持って清めたりはらったりして舞うもので、古来の祭式が舞踊化したものと考えられています。神能とは神話劇で、鬼や大蛇、命、姫などが登場します。着面の神能も各地で多少異なりますが、国指定の佐陀神能が能の方式をとる独特のもので、慶長以来出雲はもちろん石見、隠岐、備後、備中など各地に影響を与えました。
石見神楽の社中は大小数えれば現在二百社を下らないといわれ、石見だけでなく長門・安芸の一部にまで見られます。出雲神楽との違いは、七座と神能が出雲ほど整然と分かれておらず、大部分は演劇風の能神楽で、本来の神楽からはさらに前進したショー化したものも多く見られます。ただし邑智郡桜江町市山に本部を置く大元神楽は神職により夜通し厳粛に舞われる神事舞で、古来からの託宣舞が継承されています。
隠岐の神楽は神社の祭礼よりもむしろ大漁とか豊作の祈願などのために舞われてきた祈願の神楽というところに特徴があります。社家といわれる専門の神楽師により伝承されてきました。演劇風のものが少なく、巫女舞が多いことも特徴の一つです。

遠流の島・隠岐…天皇、公家、学者など、隠岐の文化に大きな影響を与えた多くの流人 !

隠岐は「涜人の島」とよくいわれます。作家の司馬遼太郎は「日本史上の離れ座敷」と呼び、歴史の半面は「流人の歴史である」と言っています。また「隠岐国」とも呼ばれます。それは隠岐が佐渡、淡路、対馬、壱岐の四島とともに、八世紀に体系化された律令制度によって、一島で一国とされたからです。
隠岐が流刑の地となったのは、佐渡、常陸、安房、伊豆、土佐と合わせて、律令制度によって流刑の中でも最も重い「遠流の地」と定められてからでした。それ以来、江戸時代の終わりにかけて、天皇や皇族、公家、学者、僧侶などたくさんの人々が流されました。近世までの流人は政治犯がほとんどだったようですが、それ以後、隠岐には近畿、山陰、山陽方面の主として犯罪者が流刑されたようです。流人の中には隠岐の歴史を彩った人々が何人かいます。そのうちの一人、平安時代の学者で公家の小野篁(小野小町の祖父)は承和元年(834)に遣唐副使に任命され、中国へ派遣されることになりましたが、大使の藤原常嗣との間で遣唐船の交換を巡って対立、抗議した篁は病気と偽り、命令に服さなかったため承和5年に隠岐へ涜刑となったのです。篁は相当な文化人で、しかも美男の都会人だったので大変もて、二年の在島期間に三人の島の女性との恋の話が伝わっています。中でも美しい村の長者の娘「阿古那(奈)」との悲恋は、篁が阿古那に贈った二体の木像彫刻(西郷町上西の都万目に伝わっている歯痛に霊験があるとされる地蔵堂の「あごなし地蔵」)の伝説とともに、島人の哀感を伝えています。

思いきや ひなの別れにおとろへて あまのなはたぎ いさりせんとは

…小野 篁『古今和歌集』…

延応元年(1239)2月22日に、隠岐で60歳の生涯を閉じたのは後鳥羽上皇です。上皇は寿永2年(1183)に祖父の後白河法皇の院政のもとで天皇に即位し、建久9年(1198)から院政を行いました。上皇は朝廷での親幕勢力の排除に努め、公家勢カの伸張を図りました。そして、ついに承久3年(1221)こ朝権回復を目指し、時の鎌倉幕府の執権北条義時の追討を命じ挙兵しましたが、幕府軍に完敗しました。この承久の乱の失敗によって、上皇は隠岐へ配流されることになったのです。この年の8月に隠岐へ到着した上皇一行は、侍二人と女官、医師それぞれ一人のわずか四人の従者だけだったといわれます。

われこそは 新島もりよ おきの海の 荒き波風 こころして吹け

…後鳥羽上皇『遠島百首』

この和歌は渡海の際に、上皇が船中で詠まれたと伝えられています。
行在所は海士町苅田の勝田山の源福寺境内に急造され、近くには在地の豪族村上氏の居館があり、上皇のお世話をしていました。上皇はこの粗末な行宮で多くの和歌を詠み、在島中の御製は『遠島百首』にまとめられています。また上皇自身の勅撰によって藤原定家らに撰修させた『新古今和歌集』をさらに厳撰し、御製も含めた三百八十余首を取捨し『隠岐本新古今和歌集』を撰修しました。
豪気な気性で相撲、水泳、流鏑馬など武道を好み、和歌や管弦にも長じた文武両道の後鳥羽上皇は在島19年、わびしい隠岐の行在所でついに病を得、幕府打倒と都への遷幸の望みを果たすことなく、一生を終えたのでした。
後鳥羽上皇の没後百年近く経って、上皇同様、鎌倉幕府を打倒して天皇親政を実現しようとしたのが、後醍醐天皇でした。天皇は鎌倉末期の正中(しょうちゅう)の変(正中元年、1324)に次いで、元弘元年(1331)に元弘の変を起こし失敗しました。幕府は捕らえた天皇の隠岐配流を決定し、天皇一行は翌年3月に京都を出発しました。お供は一条行房、六条忠顕、三位局廉子という寂しいものだったと伝えられています。4月1日に美保関から隠岐へ向けて出航、翌日到着しました。隠岐での天皇の心境について

すまのあま 浦こぐ舟の 輯をたえ よるべなき身ぞ 悲しかりける 

…後醍醐天皇『続古今和歌集』

などの和歌が残されています。
今も論争が続いているのが、天皇の行在所問題です。口碑伝説を根拠にする島前黒木御所説(西ノ島町)と、文献資料に依拠する島後国分寺説(西郷町)の二説です。どちらの説も決定的とはいえず、今後の研究と史料調査の進展が期待されます。
強烈な個性と強固な意志を持った天皇は在地の豪族近藤氏や村上氏等の支援もあり、島外の倒幕派と密接な連絡を取り、脱出の機会を狙っていました。そして、元弘3年(1333)閏(うるう)2月、六条忠顕ら二、三人と隠岐脱出を実行し、追っ手の難を逃れ、島根半島の浦々を転々とし、伯耆の港に到着しました。伯耆の御来屋に着いたと伝えられる天皇は、在地の豪族名和長年に擁されて船上山に入り、ここに建武の新政実現への一歩をしるしたのでした。
ここで紹介した三人以外にも、伝説の域を出ないものも含めて、多くの流人がいます。隠岐の流人第一号といわれる柿木躬都良麿(人麻呂の子)、奈良時代の女性涜人名草直(なぐさのあたい)高根女、淳仁天皇の弟船王、八幡太郎義家の子源義視、後鳥羽上皇を批判した僧文覚上人、そして江戸初期に派手な宮中女官との遊蕩乱行をとがめられた飛鳥井少将雅賢などが配涜されています。
このように隠岐に流刑になった人々の数は、三千人を下らないといわれています。この流人たちの悲喜こもごもの思いや島の人たちとの交流が、伝説や民謡などの中に残って、今に伝えられています。

「公卿の子が泣く 知夫里の島で 母に鼓がついたやら……」

…隠岐の麦つき歌 

  
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