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  島根の西端に位置する益田市は、万葉歌人・柿本人麻呂や画僧・雪舟のゆかりの地としても知られている。石見美術館「グラントワ」に訪れると、石見地方の伝統文化・芸能のすべてを体験できる。スケールの大きい匹見峡は必見。  
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《 益田物語》
 
源平の争いで功名を挙げた石見の雄・益田氏、益田の室町文化の花を咲かせた雪舟 !

益田氏は藤原鎌足の末裔で国兼の時、石見国司として那賀伊甘郷(浜田市下府町)に赴任しましたが『石見記』によると国司の任期が終わっても帰京せず、上府の御神本の地に土着して次第に地盤を広げ土豪になったといいます。2代兼真(かねざね)3代兼栄(かねひで)父子は土豪から武家生活に入り、元暦元年(1184)源氏が一の谷に平氏を討とうとする時、西国の武士のほとんどが平氏に加担した中で進んで源氏に加わり功名を挙げました。『萩藩閥閲(ばつえつ)録』によるとこの時の功名が頼朝の耳に伝わり、石見一国の押領使(おうりょうし)としての御墨付を賜っています。翌年、壇の浦での平氏討滅戦でさらに軍功を挙げた4代兼高は建久3年(1192)父祖以来住み慣れた上府を去って益田に移りました。元来この地は御神本氏所領の中心地であり、益田、高津の両川が涜れその沿岸一帝は肥沃な地であり、産業、経済上の要衝でもありました。翌4年、兼高は七尾山に本格的な築城を行い、御神本の姓を廃して益田氏と改めました。次いで兼高の次男兼信を三隅庄に、三男兼広を福屋庄の地頭職とし、さらに5代兼季の次男兼定を周布庄に移封するなど、支族を適切に石見の各地に分封しましたが、11代兼見のころになると各分家は本家から離れて完全に独立した状態となり、骨肉相食む世相となりました。延元元年(1336)三隅兼連は足利尊氏に味方した本家の兼見を討とうとして益田城下を急襲し、しばしば争いを起こします。12代兼世は大内義弘とともに筑紫、和泉に転戦し、14代兼理は永享の乱に筑前で戦死、15代兼堯は山名氏に属して赤松の一党を討ち、応仁の乱には大内政弘に属して戦場を渡り歩き石見の雄として地歩を固めました。
19代藤兼のころ大内義隆が重臣の陶晴賢に討たれる不祥事件が起こると、陶氏と親戚関係にあった藤兼は大内氏の親戚津和野城を攻め、晴賢が毛利元就に討たれると藤兼は急いで帰城し、毛利氏の来攻に備えて益田城を補強しました。城山の尾根上に大小さまざまな曲輪を複雑に配置して堅固な防塁を作りましたが、大内義長が自刃したために抗戦の態度を改め、吉川元春と和議を結びました。20代元祥は吉川広家の配下として関が原の戦いに参陣しましたが、徳川勢に破れ毛利氏の恩義に報いるために益田城を去り、毛利氏の家老として長門国須佐に移りました。
15代兼堯から17代宗兼の治政中、画聖雪舟が来遊しました。既に雪舟は遣明船に便乗して明国に渡航し、天童山景徳禅寺に上ると天童山第一座に推され、北京では姚公に頼まれて礼部院に壁画を描くなど、当時の日本の禅林画風が疑似中国画一辺倒である中、ただ技量が優れているだけでなく絵全体からにじみ出る禅的な品性で人の心を動かす絵を描いていました。江戸時代の俳人芭蕉は『笈の小文』の中で「西行の歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一なり」と述べています。
雪舟没後百数十年を経てはいるものの、雪舟の画家としての存在価値は充分に知られていたことが窺えます。文明10年(1469)大内氏の重臣陶弘護との親戚関係にあった益田氏の城下に雪舟は来遊し、医光寺と万福寺に名庭を造りました。前者は武家様式に、後者は欣求浄土(ごんぐじょうど)を表わした寺院様式に工夫し、須弥山石(しゃみせんせき)、三尊石(さんぞんせき)、枯滝石組(かれたきいしぐみ)の安定した配石は山水図を立体的に再現したものです。このころ貞兼に16代を譲り、悠々自適の閑居生活をしていた兼堯の邸を訪れた雪舟は大和絵風に「益田兼堯像」を描き、その図上に東光寺の住僧竹心周鼎(ちくしんしょうてい)が賛(さん)を書きました。この絵は益田市が益田氏38代当主から買い求め、益田市文化ゾーン雪舟山水郷の核として建てられた雪舟の郷記念館に収蔵されています。さらに雪舟は文明15年(1474)宗兼が17代を相続する時の祝いに「花鳥図扉風」を描くなど益田に室町文化の花を咲かせていましたが、晩年再度益田を訪れ、東光寺の住僧となって余生を送っているうちに、永正3年(1506)87歳で大往生を遂げました。以前、山寺図を描いたこの寺こそ彼の心象をゆさぷった禅の境地であったのかもしれません。
この益田の地には、もう一人忘れてならない人物がいます。万葉の歌人柿本人麻呂です。益田市には柿本神社が二社あります。一つは戸田町にあり、人麻呂の出生を記念して建立され、いま一つは人麻呂の死後、鎮魂のために建立された高津の柿木神社です。このように一人物について出生と死没を記念して建立された二つの神社がある町は珍しく、それだけに地区民の人麻呂に対する尊敬の度合いがいかに高いか、語り継がれた人麻呂の伝承が住民の間にいかに生きているかがわかります。

雪舟…日本美術史上に不滅の足跡を残す山水画の巨匠

雪舟は応永27年(1420)に備中国都窪郡赤浜村に生まれ、12、3歳のころ僧籍に入ったといわれる。京都五山の一つ相国寺に掛錫(かしゃく)し、春林周藤(しゆんりんしゆうとう)について参禅した。このころ、相国寺に画僧として名高い周文(しゆうぶん)がいて、画法を学んだといわれている。
幼年から画才があって、寺で修業中にも絵ばかり画いていたため、こらしめに柱にしばりつけられたところ、自分の涙でねずみの絵を画いたと伝えられる雪舟は、生来、一所に留ることの出来ない遠霞僻の人物であったようだ。
相国寺にいつごろまでいたか定かではないが、山口の大内政弘の招きで山口の雲谷庵に居を移し、やがて遣明船に乗って中国へ渡り、本場の画法を学んで文明元年(1469)に帰国した。
そして備後国などを遍歴したのち、石見の益田兼堯の招きで益田を訪れた。文明10年(1478)から文明12年ごろのことである。この間、雪舟は万福寺や崇観寺(今の医光寺)に滞在して、兼堯の庇護のもとで「益田兼堯像図」をはじめ、「花鳥図屏風」「山寺図」などを描き、また、万福寺と崇観寺の庭園を作っている。この両庭園のほかに、小川家(江津市)と大麻山神社(三隅町)の作庭者も雪舟といわれているが、万福寺と崇観寺は雪舟築庭にまちがいないとされている。
ついで雪舟は、石見から美濃国へ旅し、文明18年(1486)に山口の雲谷庵へ帰り晩年をすごすが、明応8年(1499)ごろ再び石見を訪れ、東光寺(今の大喜魔の前身)の住職となって、ここで没したといわれる。没年も種々あるが、永正3年(1506)87歳であったとの説が有力である。没地も石見の他、雲谷庵や備中重源寺、備中真福寺などともいわれているが、石見には、雪舟墓も伝えられ、崇観寺の後身医光寺のかたわらに雪舟を奈昆に付した灰塚などが残っていることから、雪舟石見死亡説はまちがいないといえる。雪舟は柿本人麻呂、本因坊道策と共に石見三聖人に数えられている。

柿本人麻呂…「山門の門」「歌仙」といわれ、雄大で格調高い歌を詠んだ万葉歌人

柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人とされ、歌や伝承を通して石見とのかかわりの深い人物です。
日本最古の歌集として古典中の古典といわれる『万葉集』には、有名無名の古代の歌人たちによる四千五百余首の歌が二十巻にわたり収録され、今も多くの人に読まれています。この膨大な『万葉集』の中で、特に柿本人麻呂の作品は高い評価を受けてきました。
人麻呂の名声は万葉時代、既に大伴家持が「山柿の門」(歌の道を山部赤人と柿本人麻呂に代表させた言い方)と称したほどでしたが、平安時代の歌集『古今和歌集』の序文では「歌仙」と呼ばれ、後には人麻呂の肖像を掲げ、供物をして歌会が行われるようになるなど、神格化されるほどでした。
近代になってからも、大著『柿本人麻呂』を著した歌人斎藤茂吉などによってその雄渾な歌風がたたえられています。茂吉は人麻呂の代表作の一つ

東(ひがし)の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぷきぬ

(大意・東の方の野には曙の光の差し染めるのが見えて、西を振り返ると月が傾いて淡い光をたたえている)について「犯すべからざる大きな歌」と評しています。万葉第一の歌人といわれる人麻呂ですが、伝記についての手掛かりといえるのは『万葉集』だけで、生没年を含めてなぞの多い人物です。そのことがさまざまな説を生み、人々の想像力をかき立ててきたともいえます。
人麻呂の主な作品は689〜700年(持統3〜文武4)の間に作られており、皇子や皇女の死に際しての挽歌、天皇の行幸に随伴しての作が多いことから宮廷に仕えた歌人だったと推定されています。また、地方官吏として石見や近江などに赴任しており、石見国の自然をたたえた歌や、上京する際に依羅娘子(よさみのおとめ)という石見国の妻との別れを悲しんで作った歌が残されています。浜田、益田、江津など石見の各地には、人麻呂ゆかりの場所や伝承が数多くあり、歌碑も建てられています。
そして自らの死に際しての歌「石見国に在りて臨死(みまから)らむとする時、自ら傷みて作る歌」があることから、石見で臨終したとされています。

鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ

(大意・鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そうとは知らないで妻がひたすらに待ち焦がれていることであろうか)
この「鴨山」がどこであるのかについては、古来諸説があります。江津市二宮町神村(かむら)、浜田市城山(亀山)、益田市沖にあって万寿三年(1026)の津波によって水浸した鴨島、邑智町湯抱の鴨山という説があり、また奈良県の北葛城山中にあるという説もあります。
このうち益田市沖の鴨島説は古くから広く信じられており、益田市高津町の柿木神社には、鴨島が人麻呂臨終の地であり、島が津波で水没した時、流れ着いた神体を祀って今の地に神社を再建したと記す縁起が伝わっています。
これに対して前出の斎藤茂吉は20年にわたる調査の末、昭和12年に湯抱-鴨山説を発表、以後広く支持されました。一方、益田市の郷土史家矢冨能二郎は昭和39年刊の『人麻呂と鴨山』で益田市沖の鴨島説を再評価しました。この鴨島説は昭和48年、梅原猛の『水底の歌』で一躍脚光を浴び、益田市沖の海底調査が行われるなど、再び鴨山論争は沸騰しました。
現在に至るまで鴨山論争は決着を見ていません。多くの人々が人麻呂臨終の地をさまざまに想像し、追い求めてきました。それはやはり人麻呂という歌人の偉大さによるといえるでしょう。そして、石見を愛しこの地で没した人麻呂の伝説はいつまでも語り継がれていくことでしょう。

蟻竜湖伝説

昔、益田地方に斎藤忠右衛門という石見国きっての長者がいた。この長者は、自分の力を誇り、何一つとしてできないことはないと自慢していた。
その年、例年の如く千町歩の田植えを1日ですますために、近郷近在から多くの早乙女が集められ、田植えをしていた。すると、どこからかテンテコテンと賑やかな太鼓の響きが聞こえて釆た。さあ早乙女達は落着かない。太鼓の響きのする方へと次々と駆けだしていった。賑やかな太鼓は旅まわりの猿まわしが猿を踊らせている音だったのだ。
その猿の芸のおもしろいこと、早乙女達はすべてを忘れて、猿の芸に見入ってしまった。
そんな時、長者が見まわりにやって来た。ところが、ほとんど終わっているはずの田植えが、半分もすんでおらず、早乙女の姿も見えないのに驚き怒った。そして早乙女達を再び集めると、今日中に田植えをおえなければいけないと厳しく申し付けた。
しかし、早乙女達を連れもどし、田植えをさせようとしても、もう太陽は、西の彼方に沈もうとしていた。
長者は焦った。その時、長者は自分にはできないことは一つもないということを思い出した。そこで長者は、太陽に向かって両手を振りかざして言っ天道(てんとう)さんよ 天道さんよ もう一度昇るのだ。昇ってまいれ!」
すると、どうしたことか沈みかけていた太陽は、西の果てからぐんぐん昇り、再び真昼になった。早乙女たちは驚き、あわてて田植えを急いだ。こうして長者の田植えは、日のある間に終えることができたのだった。長者は満足して鼻をうごめかせた。
しかし、その晩、大雨と大地震が一晩中つづいた。それは天の怒りかとも思えるほど恐ろしい、長い夜だった。
そして、夜が明けた。大雨がうそのような青空だった。が、その下にひろがっている光景に人々は自分の目を疑った。長者の千町歩の田も、自慢の屋敷も跡形もなく、そこは一面湖になって深い水がたたえられていたのである。この湖が、いまの蜂竜湖だといわれる。これに似た長者の物語が鳥取の湖山他にも伝えられている。

  
《 益田市観光ガイド 》
 
日本人の魂をゆさぶる謎の歌人「柿本人麿」

万葉歌人としてあまりに著名な柿本人麿の生涯をたどるとき、益田との深い結びつきを無視することはできません。人麿は、益田市戸田の里で生まれました。長じて都にのぼり歌道の第一人者としての名声を得たのち、石見の役人として里帰りし、この地で没した歌聖人麿を祀る神社が益田市内には2つあります。生地戸田と高津にある柿本人麿神社がそれです。戸田柿本神社には代々語り部として社家を守つてきた綾部家50代の子孫が残っており、庭内の遺髪塚など貴重な遺跡とともに歌聖人麿の偉大な足跡を今に伝えています。一方の高津柿本神社は、美しい日本海をのぞむ角山の頂にありうっそうとした松林に囲まれた社は正一位の神社にふさわしい風格が備わっています。

 
戸田柿本神社

人麿の生地と伝えられる戸田にあります。小高い丘の中腹に建つ社殿は、うっそうとした森に囲まれ、樹々からもれる光を受けて、神秘的な雰囲気を漂わせています。
問0856-22-7120(益田市観光協会)・参拝自由・益田駅から石見交通バスで20分、植松下車、徒歩20分・P10台・益田市戸田町

 
高津柿本神社

どっしりとした風格の変形春日造りの本殿を持つ神社。地元では人麿を「人丸」と呼んでいますが、これが読み方によって「人生まる」とも 「火止まる」ともなることから、開運、火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めています。また元来が歌聖であるところから学業成就を願う学生も多く、人麿を偲ぶ参拝客が一年中あとを絶ちません。
問0856-22-7120(益田市観光協会)・6:00〜日没・境内自由、宝物館・本堂・庭園300円・益田駅から石見交通バスで7分、徒歩5分・P50台・益田市高津町

 
万葉公園

高津柿本神社の境内常に広がる島根県立都市公園で、園内には、万葉集に登場する植物のうち153種類が植えられている万葉植物園や、大規模休憩所「やすらぎの家」、水と青空の広場、トリムコースもある子供の広場、石の広場、和風野外音楽堂、まほろばの園などの施設が立ち並び、万葉のロマンにひたりながら静かな散策が楽しめます
問0856-22-2133(万葉公園管理センター)・入園自由・益田駅から石見交通バスで20分、蟠竜湖下車、徒歩10分・P300台・益田市高津町

 
不滅の足跡を残す山水画の巨人「雪舟」

漂泊の南家雪舟等楊は備中の生まれですが、益田との因縁は浅くありません。京や中国で絵の修業を重ね、当代一流の画家として認められていた雪舟が益田を訪れたのは、益田七尾城主兼尭の招きによるものでした。崇観寺(現在の医光寺)5代目住職として数年間をすごすことになる雪舟はその間に、「花鳥図屏風」など傑作ともくされる作品を次々と生みだしました。また、この期間の雪舟の創作活動で忘れてならないのが、医光寺と萬福寺に残された庭園です。いずれも室町時代の典型的な庭園様式をとつたもので、雪舟が益田に残した代表的な文化遺産になっています。兼尭の死後、雪舟は周防へ一時去りますが、よほど益田が気に入っていたとみえ、最晩年を益田の束光寺 (現在の大書庵)の住職としてすごし、この地に没しました。

 
萬福寺・雪舟庭園

もとは安福寺と呼ばれ、七堂伽藍を備えた天台宗の大寺として栄えていましたが、万寿3年(1026)の大津波で一瞬にして流出してしまいました。その後は小庵が建てられ細々と寺号を保っていましたが、正和2年(1313)、時宗の道場として再興され、さらに応安7年(1374)に益田氏11代の兼見が現在地に移し、寺号も萬福寺と改め、益田氏の菩提寺として発展するようになりました。雪舟の手になる庭園は、地表回遊式兼観賞式庭園で、医光寺のものが武家様式であるのに対し、寺院様式と呼ばれる手法で作庭されています。奥にゆるやかな築山を横たえ、その中腹に石組みを築き、その下に池を掘った構成で、中央の小高い石組みの集団が主調をなし、曼陀羅(悟りの境地)に通じる仏教の世界観が表現されているといわれています。作庭以来幾多の変遷を経てきましたが、一連の石の枠組みは作庭時のまま残り、安定した石の据え方、巧みな地割りなど非凡な作庭家でもあった雪舟の面目をよく伝えています。鎌倉時代の様式を残す本堂は国指定の重要文化財。荘重な威厳を持つ七間四面の九重造り単層建築です。鎌倉時代に描かれた国指定重要文化財「絹本着色二河白道図」、県指定文化財「書院襖絵三十二面」、市指定文化財「流仏三体像」など数多くの寺宝も見ものです。
問0856-22-0302・6:00〜日没・境内自由、宝物館・本堂・庭園300円・益田駅から石見交通バスで7分、折戸下車、徒歩7分・駐車スペースあり・益田市東町25-33

医光寺・雪舟庭園
正平18年(1363)、益田氏7代・兼弘のとき創建されました。武家様式を取り入れた庭園は、文明年間(1469〜1486)、第5代住職に任じられた雪舟によって作庭されました。様式的には池泉観賞半回遊式庭園と呼ばれ、山岸を巧みにあしらった上下2段構え。裏山の滝蔵山を背景に、山すそに刈り込みを用い、鶴をかたどった池に亀をかたどった島を配しています。中国の伝説上の島、蓬莱を表現しているといわれ、雪舟の山水画に多く見られる直線的で、見る者をぐいぐい引きっけずにおかない雄渾な構図を持っています。現在の庭園は享保川年(1729)の大火後に復元されたものですが、石組みや地勢などは雪舟の意図したままに残されており、国の史跡及び名勝の指定を受けています。枝垂れ桜が花吹雪を散らす春、楓があざやかな紅を池に映す秋をはじめ、四季折々に微妙な表情と色彩を見せてくれます。入口に立つ切妻屋根の総門は県指定の重要文化財。もとは七尾城の大手門でしたが、関ケ原の合戦後、現在地に移されました。2本の太い柱に2段の屋根をかけ、大扉を前面に配した作りは豪壮そのもの。日光・月光菩薩像、十六羅漢像など所蔵品にも貴重なものが数多く残されています。
問0856-22-1668・8:30〜17:00・300円・益田駅から石見交通バスで10分、終点下車すぐ・P20台・益田市染羽町4-29
 
大喜庵
もとは妙喜庵東光寺と呼ばれ、雪舟が最晩年を過ごした寺として知られています。当時はすぐ側まで海が迫っており、その景観を雪舟が愛したものと思われます。境内には雪舟が絵を描くのに使用した「雪舟硯水雲厳泉」が、また、裏山には雪舟の墓が残されています。
問0856-22-7120(益田市観光協会・境内自由・益田駅から石見交通バスで10分、今市下車、徒歩10分・P40台・益田市乙吉町
 
雪舟の郷記念館
雪舟は、晩年を大書庵という寺で過ごし、その墓も、この寺の後ろの小高い丘の上に作られています。また境内には、雪舟が絵を描くのに使用した水を汲んだという井戸も残されています。この大書庵のすぐそばに「雪舟の郷記念館」があり、雪舟の傑作として有名な「益田兼尭寿像」(重文)や「花鳥図屏風」(複製)をはじめ、大書庵の本尊「観世音菩薩立像」など雪舟に関する資料が数多く展示されています。
問0856-24-0500・9:00〜16:00・休(月曜、祝日の場合翌日休)・100円・益田駅から石見交通バスで10分、今市下車、徒歩5分・P40台・益田市乙吉町イ1149
 
益田歴史民俗資料館
歴史資料や民俗資料の常設展示の他、益田の人々によって使われてきた民具、玩具などを集めた特別展示も頻繁に開催されています。建物は大正時代に建てられた役所を保存改修したもので、古き良き時代の雰囲気をまるごと伝えています。
 
蟠竜湖
湖岸線が複雑に入り組み、竜がわだかまっているような形をしているためこの名前があります。快適な散策コース。
問0856-22-7120(益田市観光協会)・見学自由・益田駅から石見交通バスで20分、終点下車すぐ・P90台・益田市高津町問0854-49-6565・境内自由・加茂中駅から車で10分・P50台・雲南市加茂中大竹
 
古墳

益田市内には数多くの古墳がありますが、その代表が鵜の鼻古墳群と須久茂塚古墳。鵜の鼻古墳群は、日本海に突き出た半島に30基あまりの古墳が築かれており、また須久茂塚古墳は、5世紀ごろ作られた全長108mにも及ぶ巨大な前方後円墳です。

 
高津川

美しい自然を背景にゆるりと流れる高津川の清流は、アユの産地としても知られ、6月の解禁後は、たくさんの太公望がつめかけます。また、400年の伝統を持つ放し鵜飼いも行なわれます

 
日本海

益田は美しい白砂が数kmにわたって伸び海の青との鮮やかなコントラストを見せる三里ヶ浜海岸や、岩の表面に大蛇がはったような模様の描かれた奇勝・唐音の蛇岩のある鎌手海岸、雄々しい岩が連なる飯浦海岸と、所によってまったく様相を異にする海岸を持ち、その海岸ごとに趣きの異なる釣りや、海水浴、キャンプなどが楽しめます。

 
海水浴・キャンプ

白く美しい砂浜が続く三里ヶ浜海岸は海水浴に最適で、シーズンには大勢の海水浴客が訪れます。土田海岸や飯浦海岸でも海水浴が楽しめます。三里ヶ浜海岸はキャンプも楽しめ、毎年夏になると、自然との対話を求める若者や家族連れで賑わいます。また、波の状態が良く、ウインドサーフィンを楽しむには絶好の海岸です。

万葉料理
益田市は万葉の歌人・柿本人麿生誕の地。これらの万葉人がほ賞味した料理を現代に調理したのが万葉料理で、益田市の旅館組合かぼ共同開発しました。お酒は昔ながらの白酒、器はすべて雪舟焼を使用し、昔風のあっさりした味付けになっています。料金は7000円、10000円の2コース。旅館により、季節により多少内容が異なります。予約が必要です。
 
益田の朝市
海の幸の宝庫・日本海を控えた益田では、1年を通じて豊富な魚介類が水揚げされますが、これらの新鮮な魚介類を超安値で買えるのが益田駅前の朝市。日曜、祭日を除く毎日、朝5時ごろから午後1時ごろまで、その日の朝獲れたばかりの魚や野菜などを売っており、大勢の人々で賑わいを見せています。
問0856-22-7120(益田市観光協会)・5:00〜昼頃・休(日曜、祝日)・益田駅からすぐ・P周辺に駐車場あり・益田市駅前町
 
荒磯温泉
日本海に面した海岸に位置する温泉です。大正時代からすでに、この温泉を利用した共同浴場があったといいます。皐近は海水浴客や釣り客の宿泊も多くなっており、また、すぐ目の前で獲れる新鮮な魚介類を素材にした活魚料理も好評です。
問0856-27-0811(荒磯館)・日帰りコースは11:00〜14:30(予約制)・不定休・日帰りコース5000円〜1万円、入浴のみ600円、2食付1万3000円〜・P60台・益田市西平原1019-1
 
多田温泉
扇原の関門に近い山あいに湧く温泉です。大正5年(1916)に鉱泉の湧出が発見され、鉱泉浴場として開設しました。湯治のほか、川魚、山菜料理などの食事処としても人気を集めています。
 
大谷温泉
大谷川上流の谷あいにあり、益田市では最も古い温泉です。明治の初めごろから近隣の人々に風呂として使用されていたといいます。大正3年(1914)から大谷鉱泉として営業を始めました。また、昭和5年(1930)には新鉱泉源が発見されています。最近では、従来の湯治客に加え、山の中の静かな温泉ということで、観光客の訪れも多くなっています。
 
匹見峡
西中国産地の最高峰・恐羅漢山を源流とする国定公園匹見峡は、表匹見峡、浦匹見峡、奥匹見峡の3つの変化に富んだ渓流で構成され絶妙の模様を描き出す岩肌の美しさ、流れ落ち、しぶきをあげる渓流の美しさは、さながら自然の織りなす芸術品のよう。新緑のまぶしい木々、涼しさと潤いを与えてくれるせせらぎ、とりどりに紅葉していく山々、雪の中でひっそりと息づく渓流……。それら四季のおりおりに鮮やかに彩られる匹見峡の景観は、大自然とのふれあいを満喫させてくれ、美味しい空気、澄み切った青空につつまれて、ハイキングやキャンプ、森林浴、バードウォッチングなどゅたっぷり楽しんでください。
 
表匹見峡(匹見町)
匹見川流域、虫ケ谷の魚飛からキャンプ場に至るまでの全長4kmの渓谷が表匹見峡です。神秘的な色彩をたたえる深淵や、風雪に磨かれどっしりとした存在感を帯びた岩石など、めくるめく色彩とシルエットの競演が道路のすぐそばにくり広げちれ、数々の見どころを手軽に楽しめます。また、4月上旬から5月上旬にかけては、町の花であるキシツツジが川辺で満開となります。そのキシツツジの名所である亀ケ淵、水がくつきり澄み、川底を泳ぐ魚の動きがはっきり見てとれる粋の淵、小沙夜という名の娘の悲恋伝説が残る小抄夜淵、断崖絶壁が切り立つ辟風ヶ淵などの見どころがあります。
問0856-56-0305(匹見町産業課)・益田駅から石見交通バスで1時間15、匹見保険センター前下車、車で10分・P周辺に駐車場スペースあり・益田市匹見町匹見
 
裏匹見峡(匹見町)
おだやかな表匹見峡に比べて、切り立つ断崖や変化に富んだ渓流のうねりが続く裏匹見峡は、男性的な景観が特徴。裏匹見峡随一の景観・鈴ヶ山淵までの4kmは自然探勝歩道になっていて、水深が深く水の色が引き込まれるように青い青の淵、奇山石怪石の間を縫って滝が山洛下し水面が神秘的な色をたたえた平田淵、水量が多いとき見ると岩が上流に動いているように見える流石の瀬などの奇観が展開し、裏匹見峡の美しさを堪能できる絶好のハイキングコースとして親しまれています。また、憩いを広げる各種の施設が揃った匹見峡レストパークもあり、家族連れやグループで貼っています。なお、峡中から上流、支流にかけて、ヤマメ、ゴギなどの釣りも楽しめます。
問0856-56-0305(匹見町産業課)・益田駅から石見交通バスで1時間15分、匹見保険センター前下車、車で10分・P匹見峡レストパークの駐車場利用・益田市匹見町匹見
奥匹見峡(匹見町)
道川の元組から2kmの三の谷一帯に広がる峡谷で、表匹見峡、裏匹見峡にも増して秘境の観は強まりますが、国道191号線から少し入った駐車場から手軽に散策が楽しめます。美しい滝が多くあり、絶壁の岩影にじゅうたんを敷きつめたような苔の群落、天然記念物シャクナゲが群生しているさまは、奥匹見峡の名にふさわしい静寂境の趣にあふれています。いちばんの見どころは高ささ15mの二段滝と、シャクナゲの名所としても知られる高さ53mおmの大竜頭。
問0856-56-0305(匹見町産業課)・益田駅から石見交通バスで1時間152分、匹見保険センター前下車、車で30分・更に徒歩15分・P30台・益田市匹見町道川
 
メイズ(匹見町)
匹見町が姉妹都市縁組みを結んでいるニュージーランドのワカナ町から導入した迷路ワンダーランド。日本に数ある巨大迷路の元祖。
 
匹見ウッドパーク(匹見町)
匹見ウッドパークは、パズル館、樹林館、立体映像室、研修室などを備え、一般観光客の利用のほか、学校、企業などの団体やグループ研修、町民の地域資源開発など地域教育の場としても活用されています。パズル館には、世界から集めた珍しいパズルや匹見産のパズルなどを展示しています。また、樹林館には、101種の木で作った椀や、その木の写真などを展示しています。立体映像室では、匹見オリジナルの飛び出す映像も楽しめます。季節の催しとしては、春の野草展、初夏の山菜・薬草展、夏の水族館展、秋の森展、写真展などが楽しめます。
問0856-56-1144・8:00〜16:30・無休・無料・益田駅から石見交通バスで1時間15分、匹見峡温泉下車、徒歩3分・P80台・益田市匹見町匹見
 
匹見峡レストパーク(匹見町)
裏匹見峡の入口にあり、キャンプ場やケビン、テニスコート、バーベキューハウス、センターハウス、レストランなどのレジャー施設を完備。みずみずしい自然に囲まれ、快適なアウトドアライフが楽しめます。ケビンは、匹見川の清流と鮮やかな緑につつまれた木造りの建物で、美しい星空の下、くつろいだ夜をお過ごしいただけます。センターハウスは研修や休憩にご利用いただけ、匹見の特産品販売コーナーもあります。またレストラン「クック」は、裏匹見峡を散策する観光客の人気のマト。キャンプ場は炊事場などを完備しています。匹見一帯は渓流釣りのメッカとして知られ、その基地としても最適です。
問0856-56-0341・3〜11月(レストパークは9:00〜17:00・休(期間中水曜)・ケビン1棟1万3000円〜・常設テント(6人用)3000円〜・中国自動車道河内から車で1時間・P200台・益田市匹見町匹見イ853-3
 
パズル(匹見町)
島根県随一の山林面積を持つ匹見町は、良質な木材の産出地でもあります。お椀や盆、皿、パズルなど様々な木工品が町を代表する特産品となりました。ここで製作されたパズルは全国へ出荷されます。
 
匹見温泉やすらぎの湯(匹見町)
匹見ウッドパークに隣接して、平成7年10月20日にオープンした温泉。泉質は単純弱放射能冷鉱泉でマイルドな肌ざわりが特長。1階には、庭に面して岩風呂、桧風呂、薬草風呂、水風呂、サウナ、露天風呂やレストランなどが、2階には無料休憩室、予約により宴会や休憩にご利用いただける大小(6畳〜36畳)の和室があります。隣接する宿泊棟にはツイン8室、3名用1室、6名用4室があります。
問0856-56-1126・11:00〜21:30・休(月曜、祝日は営業)・650円・益田駅から石見交通バスで1時間15、匹見峡温泉下車すぐ・P100台・益田市匹見町匹見イ713
 
全国最高級品「匹見わさび」(匹見町)
険しい山から一気に流れ落ちる清流と澄んだ空気が作り上げる匹見わさびは、江戸時代から栽培が始まった伝統名産。匹見町の気候や風土がわさび栽培に理想的な環境でもあるため、関西や九州などの市場をはじめ、全国でも最高級品との折り紙が付いています。
ランプの光が懐かしい、みと自然の森(美都町)
グリーンフロンティア“みと自然の森”は美都町の中心地から益田川を8kmほどさかのぼった所にある、滞在型のリゾート地です。美しい渓流と豊かな緑の中に、自然を満喫できる施設が散在しています。山小屋10棟、バーベキューハウス2棟、管理棟、調理施設を備えたキャンプ場、ハイキングコースなどが整備されスが2棟、調理施設を備えたキャンプ場もあり、特にランプの光で過ごす夜の雰囲気は、普段の生活では味わうことのできないものです。誰でも気軽に利用できるリゾート施設として人気があり、家族づれやグループで賑います。とくに春の新緑、秋の紅葉の美しさはひとしお。夏には森のなかを流れる清流で釣りや川遊びも楽しめます。また遊歩道もあります。
問0856-52-2212(エイト)・4〜9月開設・休(水曜、7・8月は無休)・キャンプサイト利用料1人300円・、山小屋宿泊7000円〜・中国自動車道戸河内ICから車で1時間・P30台・益田市美都町都茂
 
水と緑と木もれ陽が描きだす佳境「双川峡・養戸の滝(美都町)

美都町の景勝地として広く知られている双川峡。その中心をなすのが養戸の滝で、古樹の聞から20mあまりの水菜が落下するさまは壮観です。滝の近くには京都清水から飛来した十一面観音の語 り伝えのある六地蔵・観音堂があり、また、銀杏の大樹(胸高周囲5.6m、高さ33m)がそそり立っています。この−帯は夏は涼感にあふれ、別世界を思わせます。また入口の駐車場から滝に至る遊歩道には、町内や近郊の人々が詠んだ短歌を刻んだ石碑が点在し、訪れる人を楽しませてくれます。

 
周囲を圧する美しい花と樹形「金谷城山桜(美都町)

金谷の入船山城跡にあり、築城当時に植えられたと伝えられます。樹高15m、根回り周囲7.15m。地上2〜3mのところで大きく分岐し、その枝張りは東西19m、南北25mあります。樹種はエドヒガン(アズマヒガン)。約570年の樹齢を誇り、島根県の指定文化財・天然記念物に指定されています。

 
杉天然杉(美都町)

樹齢数百年といわれる杉の老大樹(直径2.3m)のほか、一帯には直径60cmをこえる天然杉30数本、樺、桧、縦などの大樹も見られ、貴重な天然林として保存されています。

 
四ツ山城跡(美都町)

四ツ山城は鎌倉時代の中期に益田氏によって築城された山城で、戦国時代には、毛利氏と尼子氏の対立を背景として、隣国の三隅氏との間でこの領有をめぐって幾度も戦いが繰り返されましたが、江戸時代になるとともに廃城となりました。今では井戸や堀切の跡などが当時の様子を思い浮かばせます。この四ツ山は名前のとおり高さも形も同じ4つの山が周囲の山々より帖立して東西に並んでおり、その姿・形の美しさから地域の象徴として人々に親しまれています。

 
秦記念館(美都町)

秦佐八郎は明治6年(1873)美都町都茂に生れ、26歳の時に上京して北里柴三郎博士に師事、細菌学の研究に励みます。その後ドイツに留学、エールリッヒ博士とともにスピロヘータの特効薬サルバルサン606号を発見しました。以後も北里博士の下で研究を続けて数々の業績を残し、昭和13年(1938)65歳でその尊い生涯を終えました。秦記念館は秦佐八郎の生家に隣接して建つ記念館で、博士の一生を物語る多数の資料と遺品が展示されています。
問0856-52-2415・9:00〜16:00・休(月曜、祝日の翌日)・200円・益田駅から石見交通バスで40分、丸茂下車、徒歩5分・P30台・周辺に駐車場スペースあり・益田市美都町丸茂

 
大久保広兼石州和紙資料館(美都町)

承応元年(1651)に御用紙漉を仰せつけられた大久保(廣兼)の初代・廣兼又兵衛重長以後、200年の間、浜田藩の御用紙漉を勤めた廣兼家の13代に及ぶ資料を展示しています。隣接して宿泊施設「かみの宿」があります。

 
まろやかなお湯が評判「美都温泉」(美都町)

つるつるとした、まろやかなお湯で評判のアルカリ性単純温泉で、効能は神経痛、関節炎、冷え性、打ち身、痔疾など。美都温泉の中核施設である「湯元館」には、大浴場、露天健康風呂、食堂などが完備し、すぐ側を流れる矢原川の対岸には旅館や民宿もあり、町民や周辺の町村から訪れる日帰りや宿泊での湯治客で賑わっています。

  
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