| 源平の争いで功名を挙げた石見の雄・益田氏、益田の室町文化の花を咲かせた雪舟 !
益田氏は藤原鎌足の末裔で国兼の時、石見国司として那賀伊甘郷(浜田市下府町)に赴任しましたが『石見記』によると国司の任期が終わっても帰京せず、上府の御神本の地に土着して次第に地盤を広げ土豪になったといいます。2代兼真(かねざね)3代兼栄(かねひで)父子は土豪から武家生活に入り、元暦元年(1184)源氏が一の谷に平氏を討とうとする時、西国の武士のほとんどが平氏に加担した中で進んで源氏に加わり功名を挙げました。『萩藩閥閲(ばつえつ)録』によるとこの時の功名が頼朝の耳に伝わり、石見一国の押領使(おうりょうし)としての御墨付を賜っています。翌年、壇の浦での平氏討滅戦でさらに軍功を挙げた4代兼高は建久3年(1192)父祖以来住み慣れた上府を去って益田に移りました。元来この地は御神本氏所領の中心地であり、益田、高津の両川が涜れその沿岸一帝は肥沃な地であり、産業、経済上の要衝でもありました。翌4年、兼高は七尾山に本格的な築城を行い、御神本の姓を廃して益田氏と改めました。次いで兼高の次男兼信を三隅庄に、三男兼広を福屋庄の地頭職とし、さらに5代兼季の次男兼定を周布庄に移封するなど、支族を適切に石見の各地に分封しましたが、11代兼見のころになると各分家は本家から離れて完全に独立した状態となり、骨肉相食む世相となりました。延元元年(1336)三隅兼連は足利尊氏に味方した本家の兼見を討とうとして益田城下を急襲し、しばしば争いを起こします。12代兼世は大内義弘とともに筑紫、和泉に転戦し、14代兼理は永享の乱に筑前で戦死、15代兼堯は山名氏に属して赤松の一党を討ち、応仁の乱には大内政弘に属して戦場を渡り歩き石見の雄として地歩を固めました。
19代藤兼のころ大内義隆が重臣の陶晴賢に討たれる不祥事件が起こると、陶氏と親戚関係にあった藤兼は大内氏の親戚津和野城を攻め、晴賢が毛利元就に討たれると藤兼は急いで帰城し、毛利氏の来攻に備えて益田城を補強しました。城山の尾根上に大小さまざまな曲輪を複雑に配置して堅固な防塁を作りましたが、大内義長が自刃したために抗戦の態度を改め、吉川元春と和議を結びました。20代元祥は吉川広家の配下として関が原の戦いに参陣しましたが、徳川勢に破れ毛利氏の恩義に報いるために益田城を去り、毛利氏の家老として長門国須佐に移りました。
15代兼堯から17代宗兼の治政中、画聖雪舟が来遊しました。既に雪舟は遣明船に便乗して明国に渡航し、天童山景徳禅寺に上ると天童山第一座に推され、北京では姚公に頼まれて礼部院に壁画を描くなど、当時の日本の禅林画風が疑似中国画一辺倒である中、ただ技量が優れているだけでなく絵全体からにじみ出る禅的な品性で人の心を動かす絵を描いていました。江戸時代の俳人芭蕉は『笈の小文』の中で「西行の歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一なり」と述べています。
雪舟没後百数十年を経てはいるものの、雪舟の画家としての存在価値は充分に知られていたことが窺えます。文明10年(1469)大内氏の重臣陶弘護との親戚関係にあった益田氏の城下に雪舟は来遊し、医光寺と万福寺に名庭を造りました。前者は武家様式に、後者は欣求浄土(ごんぐじょうど)を表わした寺院様式に工夫し、須弥山石(しゃみせんせき)、三尊石(さんぞんせき)、枯滝石組(かれたきいしぐみ)の安定した配石は山水図を立体的に再現したものです。このころ貞兼に16代を譲り、悠々自適の閑居生活をしていた兼堯の邸を訪れた雪舟は大和絵風に「益田兼堯像」を描き、その図上に東光寺の住僧竹心周鼎(ちくしんしょうてい)が賛(さん)を書きました。この絵は益田市が益田氏38代当主から買い求め、益田市文化ゾーン雪舟山水郷の核として建てられた雪舟の郷記念館に収蔵されています。さらに雪舟は文明15年(1474)宗兼が17代を相続する時の祝いに「花鳥図扉風」を描くなど益田に室町文化の花を咲かせていましたが、晩年再度益田を訪れ、東光寺の住僧となって余生を送っているうちに、永正3年(1506)87歳で大往生を遂げました。以前、山寺図を描いたこの寺こそ彼の心象をゆさぷった禅の境地であったのかもしれません。
この益田の地には、もう一人忘れてならない人物がいます。万葉の歌人柿本人麻呂です。益田市には柿本神社が二社あります。一つは戸田町にあり、人麻呂の出生を記念して建立され、いま一つは人麻呂の死後、鎮魂のために建立された高津の柿木神社です。このように一人物について出生と死没を記念して建立された二つの神社がある町は珍しく、それだけに地区民の人麻呂に対する尊敬の度合いがいかに高いか、語り継がれた人麻呂の伝承が住民の間にいかに生きているかがわかります。
雪舟…日本美術史上に不滅の足跡を残す山水画の巨匠
雪舟は応永27年(1420)に備中国都窪郡赤浜村に生まれ、12、3歳のころ僧籍に入ったといわれる。京都五山の一つ相国寺に掛錫(かしゃく)し、春林周藤(しゆんりんしゆうとう)について参禅した。このころ、相国寺に画僧として名高い周文(しゆうぶん)がいて、画法を学んだといわれている。
幼年から画才があって、寺で修業中にも絵ばかり画いていたため、こらしめに柱にしばりつけられたところ、自分の涙でねずみの絵を画いたと伝えられる雪舟は、生来、一所に留ることの出来ない遠霞僻の人物であったようだ。
相国寺にいつごろまでいたか定かではないが、山口の大内政弘の招きで山口の雲谷庵に居を移し、やがて遣明船に乗って中国へ渡り、本場の画法を学んで文明元年(1469)に帰国した。
そして備後国などを遍歴したのち、石見の益田兼堯の招きで益田を訪れた。文明10年(1478)から文明12年ごろのことである。この間、雪舟は万福寺や崇観寺(今の医光寺)に滞在して、兼堯の庇護のもとで「益田兼堯像図」をはじめ、「花鳥図屏風」「山寺図」などを描き、また、万福寺と崇観寺の庭園を作っている。この両庭園のほかに、小川家(江津市)と大麻山神社(三隅町)の作庭者も雪舟といわれているが、万福寺と崇観寺は雪舟築庭にまちがいないとされている。
ついで雪舟は、石見から美濃国へ旅し、文明18年(1486)に山口の雲谷庵へ帰り晩年をすごすが、明応8年(1499)ごろ再び石見を訪れ、東光寺(今の大喜魔の前身)の住職となって、ここで没したといわれる。没年も種々あるが、永正3年(1506)87歳であったとの説が有力である。没地も石見の他、雲谷庵や備中重源寺、備中真福寺などともいわれているが、石見には、雪舟墓も伝えられ、崇観寺の後身医光寺のかたわらに雪舟を奈昆に付した灰塚などが残っていることから、雪舟石見死亡説はまちがいないといえる。雪舟は柿本人麻呂、本因坊道策と共に石見三聖人に数えられている。
柿本人麻呂…「山門の門」「歌仙」といわれ、雄大で格調高い歌を詠んだ万葉歌人
柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人とされ、歌や伝承を通して石見とのかかわりの深い人物です。
日本最古の歌集として古典中の古典といわれる『万葉集』には、有名無名の古代の歌人たちによる四千五百余首の歌が二十巻にわたり収録され、今も多くの人に読まれています。この膨大な『万葉集』の中で、特に柿本人麻呂の作品は高い評価を受けてきました。
人麻呂の名声は万葉時代、既に大伴家持が「山柿の門」(歌の道を山部赤人と柿本人麻呂に代表させた言い方)と称したほどでしたが、平安時代の歌集『古今和歌集』の序文では「歌仙」と呼ばれ、後には人麻呂の肖像を掲げ、供物をして歌会が行われるようになるなど、神格化されるほどでした。
近代になってからも、大著『柿本人麻呂』を著した歌人斎藤茂吉などによってその雄渾な歌風がたたえられています。茂吉は人麻呂の代表作の一つ
東(ひがし)の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぷきぬ
(大意・東の方の野には曙の光の差し染めるのが見えて、西を振り返ると月が傾いて淡い光をたたえている)について「犯すべからざる大きな歌」と評しています。万葉第一の歌人といわれる人麻呂ですが、伝記についての手掛かりといえるのは『万葉集』だけで、生没年を含めてなぞの多い人物です。そのことがさまざまな説を生み、人々の想像力をかき立ててきたともいえます。
人麻呂の主な作品は689〜700年(持統3〜文武4)の間に作られており、皇子や皇女の死に際しての挽歌、天皇の行幸に随伴しての作が多いことから宮廷に仕えた歌人だったと推定されています。また、地方官吏として石見や近江などに赴任しており、石見国の自然をたたえた歌や、上京する際に依羅娘子(よさみのおとめ)という石見国の妻との別れを悲しんで作った歌が残されています。浜田、益田、江津など石見の各地には、人麻呂ゆかりの場所や伝承が数多くあり、歌碑も建てられています。
そして自らの死に際しての歌「石見国に在りて臨死(みまから)らむとする時、自ら傷みて作る歌」があることから、石見で臨終したとされています。
鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ
(大意・鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そうとは知らないで妻がひたすらに待ち焦がれていることであろうか)
この「鴨山」がどこであるのかについては、古来諸説があります。江津市二宮町神村(かむら)、浜田市城山(亀山)、益田市沖にあって万寿三年(1026)の津波によって水浸した鴨島、邑智町湯抱の鴨山という説があり、また奈良県の北葛城山中にあるという説もあります。
このうち益田市沖の鴨島説は古くから広く信じられており、益田市高津町の柿木神社には、鴨島が人麻呂臨終の地であり、島が津波で水没した時、流れ着いた神体を祀って今の地に神社を再建したと記す縁起が伝わっています。
これに対して前出の斎藤茂吉は20年にわたる調査の末、昭和12年に湯抱-鴨山説を発表、以後広く支持されました。一方、益田市の郷土史家矢冨能二郎は昭和39年刊の『人麻呂と鴨山』で益田市沖の鴨島説を再評価しました。この鴨島説は昭和48年、梅原猛の『水底の歌』で一躍脚光を浴び、益田市沖の海底調査が行われるなど、再び鴨山論争は沸騰しました。
現在に至るまで鴨山論争は決着を見ていません。多くの人々が人麻呂臨終の地をさまざまに想像し、追い求めてきました。それはやはり人麻呂という歌人の偉大さによるといえるでしょう。そして、石見を愛しこの地で没した人麻呂の伝説はいつまでも語り継がれていくことでしょう。
蟻竜湖伝説
昔、益田地方に斎藤忠右衛門という石見国きっての長者がいた。この長者は、自分の力を誇り、何一つとしてできないことはないと自慢していた。
その年、例年の如く千町歩の田植えを1日ですますために、近郷近在から多くの早乙女が集められ、田植えをしていた。すると、どこからかテンテコテンと賑やかな太鼓の響きが聞こえて釆た。さあ早乙女達は落着かない。太鼓の響きのする方へと次々と駆けだしていった。賑やかな太鼓は旅まわりの猿まわしが猿を踊らせている音だったのだ。
その猿の芸のおもしろいこと、早乙女達はすべてを忘れて、猿の芸に見入ってしまった。
そんな時、長者が見まわりにやって来た。ところが、ほとんど終わっているはずの田植えが、半分もすんでおらず、早乙女の姿も見えないのに驚き怒った。そして早乙女達を再び集めると、今日中に田植えをおえなければいけないと厳しく申し付けた。
しかし、早乙女達を連れもどし、田植えをさせようとしても、もう太陽は、西の彼方に沈もうとしていた。
長者は焦った。その時、長者は自分にはできないことは一つもないということを思い出した。そこで長者は、太陽に向かって両手を振りかざして言っ天道(てんとう)さんよ 天道さんよ もう一度昇るのだ。昇ってまいれ!」
すると、どうしたことか沈みかけていた太陽は、西の果てからぐんぐん昇り、再び真昼になった。早乙女たちは驚き、あわてて田植えを急いだ。こうして長者の田植えは、日のある間に終えることができたのだった。長者は満足して鼻をうごめかせた。
しかし、その晩、大雨と大地震が一晩中つづいた。それは天の怒りかとも思えるほど恐ろしい、長い夜だった。
そして、夜が明けた。大雨がうそのような青空だった。が、その下にひろがっている光景に人々は自分の目を疑った。長者の千町歩の田も、自慢の屋敷も跡形もなく、そこは一面湖になって深い水がたたえられていたのである。この湖が、いまの蜂竜湖だといわれる。これに似た長者の物語が鳥取の湖山他にも伝えられている。
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