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「アクアス」は総水量約3,000トンと中四国最大級を誇る。目の前には美しい日本海が広がりロケーションは最高。石見畳ケ浦は石見地方屈指の景勝地であり、古くは琴高磯、床の浦ともいわれ、多くの和歌が詠まれている。  
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《 浜田市の伝統文化》
 
石見神楽…全国に影響を与えた神楽、今も受け継がれる貴重な民俗芸能 !

島根には今も幾多の貴重な民俗芸能が伝承されています。これらを大まかに分類すると、神楽、獅子舞、田楽、風流、祭礼風流、舞楽、地芝居、人形芝居などに分けられます。中でも神楽は特に多く、全芸能の半分は神楽といっても過言ではありません。かつての村単位で一つ、中には二つといった組織で伝承され習いる所もあります。これは全国でも広島県とともに最も多い数といわれています。
神楽はわが国の代表的な神事芸能で、神霊を迎える座を意味します。従って神を招く所作を演ずることで、やがて神がかり状態になり託宣を行うというのが本来の筋で、七座神事と神能とから構成されています。今では神楽というと面を着けて舞い、長胴の大蛇を出したり火炎を吹かせたりする神話劇である神能を意味するようになっていますが、本来はそうしたものではありませんでした。
島根の神楽はそれぞれ舞い方、奏楽など違いはありますが、大きく出雲神楽、石見神楽、隠岐神楽に分けることができます。中でも出雲神楽は県内はもちろん全国に大きな影響を及ぼし、石見神楽は安芸、長門・方面にも影響を及ぼしてきました。出雲神楽は構成が七座と神能に整然と分けられていることが特徴です。七座とは神事のことで、素面で剣や榊を持って清めたりはらったりして舞うもので、古来の祭式が舞踊化したものと考えられています。神能とは神話劇で、鬼や大蛇、命、姫などが登場します。着面の神能も各地で多少異なりますが、国指定の佐陀神能が能の方式をとる独特のもので、慶長以来出雲はもちろん石見、隠岐、備後、備中など各地に影響を与えました。
石見神楽の社中は大小数えれば現在二百社を下らないといわれ、石見だけでなく長門・安芸の一部にまで見られます。出雲神楽との違いは、七座と神能が出雲ほど整然と分かれておらず、大部分は演劇風の能神楽で、本来の神楽からはさらに前進したショー化したものも多く見られます。ただし邑智郡桜江町市山に本部を置く大元神楽は神職により夜通し厳粛に舞われる神事舞で、古来からの託宣舞が継承されています。
隠岐の神楽は神社の祭礼よりもむしろ大漁とか豊作の祈願などのために舞われてきた祈願の神楽というところに特徴があります。社家といわれる専門の神楽師により伝承されてきました。演劇風のものが少なく、巫女舞が多いことも特徴の一つです。

島村抱月…日本近代劇の普及化大衆化のために多大な貢献を残す。「カチューシャの唄」も作詞した「芸術座」の創始者

島村抱月は島根県那賀郡小国村(現金城町小国)で出生、父佐々山一平は鉄山の支配人でしたが、多大な借金を抱えて倒産し一家は没落します。少年抱月は貧困にめげずさらに学問しようと浜田に出て、病院の薬局の見習い、次いで裁判所の給仕になります。このころは病弱な母を治療するため医者を志していました。
彼の浜田での苦学力行ぶりはすさまじいものです。漢学、英語、数学、ドイツ語等を働きながら独学、あるいは私塾に通って学びました。
裁判所には伊藤孫一という同僚がいました。彼は森鴎外と同郷同年で、しかも鴎外同様東京医学校に進学し、鴎外に「漢詩文の世界」を教示した友人です。鴎外はその著『ヰタ・セクスアリス』の中に二人の親交の様子を書いています。故あって孫一は中途退学し裁判所に勤務していました。抱月はこの孫一を通じて次第に「芸術の世界」に魅せられていくのです。
そのころ検事島村文耕が裁判所に赴任して来ました。彼は巡査から出発し、苦学の末わずか10年で検事に昇進した人物です。青年抱月の明敏な頭脳とひたすらな向学心に着目し、上級学校への進学援助を申し出ます。抱月は将来島村家の養子になる約束で学資の支援を受け明治23年(1890)上京します。20歳の早春のことでした。
上京後、鴎外に修学上の相談をしますが、結局翌24年、東京専門学校(現早稲田大学)文学科へ入学し、文学と哲学の交差点としての美学研究に打ち込みます。明治27年、首席で卒業し、翌年、島村検事の姪イチと結婚します。以来母校の講師の傍ら新鮮な評論、小説等を発表し新進気鋭の文学者として注目を集めました。明治35年、彼の最高の名著『新美辞学』を完成し、選ばれて英独への三カ年の留学に旅立ちます。オックスフォード、ベルリンの両大学で哲学、芸術学、美学等を学びましたが、特におびただしい観劇を通して西洋演劇の神髄を把握してきました。
帰国後、藤村の『破戒』、花袋(かたい)の『蒲団』等の出現に日本自然主義文学の萌芽をいち早く洞察し、条理明解で轍密な自然主義文学理論を展開し、文学、批評の近代化に貢献しました。彼の芸術論は次の言葉が要約しています。「在るがままの現実に即して 全的存在の意義を髣髴す 観照の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を芸術という。
しかし、このころから生来の悲涼的人生観と相まって、学問的体系を構築することに懐疑的になり「観照の芸術」から「実行の芸術・演劇」へと傾斜していくのです。明治44年、鴎外とともに文部省の文芸委員に任命されます。この年早稲田の文芸協会でイプセンの『人形の家』を上演、大成功を収めましたが、ノラ役の女優松井須磨子を彼の芸術実現にとって不可欠の存在であると意識し始めます。
坪内道遙(つぼうちしょうよう)の「酔わせる劇」に対し、西洋近代の「醒まさせる劇」を志向した彼は、須磨子との恋愛問題も絡んで、ついに大正2年、大学教授の地位も妻子もすべてを投げ捨てて、世間の非難嘲笑の中で「芸術座」を創立し、もはや後戻りのできない生活に入りました。芸術劇と商業劇の二元の道を歩みながら「芝居者」を蔑視していた日本の土壌に近代演劇を育成させるため「総合芸術大学」設立と「新劇職業化」を目指して黙々と上演を続けました。
特にトルストイ原作『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」は、一世を風摩し、日本近代劇の普及化、大衆化のために多大な貢献をしました。
大正7年11月5日、東京牛込の芸術倶楽部の一室で、業半ばにして孤独な死を遂げました。47歳の男盛りでした。雑司ヶ谷霊苑に葬られましたが、後年金城町久佐の浄光寺、佐々山家の墓地に分骨埋葬されています。抱月死後二カ月、須磨子の後追い自殺により、芸術座の幕も降りました。

 
《 浜田市観光ガイド 》
 
中四国地方最大規模誇る水族館「アクアス」(浜田地区)

総水量約3,000トンと中四国最大級を誇る。目の前には美しい日本海が広がりロケーションは最高。約1,000トンの大型水槽が2槽設置され、他の水槽とあわせて、約500種1万点もの海の生物を展示。シロイルカのショーや、サメなどの展示する迫力の海底トンネルのほか、ファミリー遊園やレストランなどもあり1日中楽しめます。
開館時間→9:00〜17:00(7月20日〜8月31日は9:00〜18:00)※入館は閉館の1時間前までとなります・休館日→毎週火曜日(当日が祝祭日の場合は翌平日休館)12月31日、1月1日・入館料→個人(大人1,500円、小中高500円)、団体(20名以上大人1,200円、小中高400円)・問0855-28-3900(しまね海洋館)・波子駅から徒歩10分・P2000台(無料)・浜田市久代町1117-2

 
石見畳ケ浦(浜田地区)

石見地方屈指の景勝地であり、古くは琴高磯、床の浦ともいわれ、多くの和歌が詠まれている。
石見畳ケ浦は、円礫が露出する高さ25m余の見事な海食崖の下に、千畳敷とよばれる約6haにおよぶ広大な砂岩の隆起海床が広がっている。これらの地層は約1500万年前に浅い海の中でたい積したもので、鯨骨や貝などの化石が多く含まれている。また、千畳敷面には断層や畳を敷いたようにみえる規格的な亀裂、そして化石などを核とした直径50cm程度の腰掛け状の丸い岩(ノジュール)が列状に多数あるなど、多くの地質現象をみることができ、「天然の地学博物館」ともよばれている。石見畳ケ浦の入口付近には石見国分寺にまつわる伝説をもつ犬島、猫島や賽の河原あるいは穴観音とよばれている洞窟がある。昭和7年(1932)3月国の天然記念物に指定されている。
問0855-24-1085(浜田市観光協会)・浜田駅から石見交通バスで10分、千畳苑口下車、徒歩10分・P50台・浜田市国分

 
浜田海岸県立自然公園(浜田地区)

特異な隆起海床をもち、国の天然記念物の指走を受けている石見畳ケ浦を中心に、東は久代町村
ケ浜から、西は瀬戸ケ島におよぶ。面積238.6haの浜田市を中心とした県立自然公園で、昭和12年(1937)12月に指定された。馬島、矢箆島など大小多数の島々をふくむ。石見畳ケ浦は、約6haにおよぶ平坦な砂岩の海岸で、断層や石化など多くの地質現象を見ることができ、学術的に貴重である。他の海岸の多くは絶壁であり、洞窟がみられる。公園には県史跡に指定されている浜田城跡も含まれ、東端は石見海浜公園の園域になっている。海岸に沿っては、中国自然歩道の浜田海岸コースが整備されている。海岸一帯は、磯釣りや海水浴に利用され、特に夏季には、広島方面から多数の海水浴客が訪れる。
問0855-28-2231・8:30〜18:30(11〜2月は17:00まで)・無休・入園無料、施設により料金が異なる・浜田駅から石見交通バスで15分、国分寺下車、徒歩5分・P650台(夏期のみ有料)・浜田市国分町1644-1

 
浜田市世界こども美術館(浜田地区)

幼い頃から美術に触れることで創造力をを養い、感性を学んでほしいとの思いで1996年11月開館以来、子どもの視線に合わせたさまざまな展覧会を開催するとともに、創作活動にも力をいれ、「みること・つくること」の両方を充実させようと多種多様な活動を展開しています。
問0855-23-8451・9:30〜17:00(入館は4:30まで)・無料・観覧料(展覧会により異なります)・休(月曜、祝日の翌日、展示替え期間、年末年始・浜田市野原町859-1

 
石見安達美術館(浜田地区)

収蔵品は、石見地方を中心とする古美術品が主体で、主なものは石見刀、鍔、書画、染布地、石見長浜人形等がある。建物は浜田市と江津市の中間、県立海浜公園に隣接した国道9号線沿いにあり、白砂青松に石見の美術の殿堂として現在に至っている。
問0855-28-1920・9:30〜16:00・500円・休(火曜、祝日の翌日)・浜田駅から石見交通バスで15分、美術館前下車すぐ・P50台・浜田市久代町1655-28

 
浜田城跡(浜田地区)

浜田市殿町の市街地中央部に位置する標高70mの小丘上にある。築城当時に鴨山を亀山に改名したことから、別名亀山城という。この城は元和5年(1619)に最初の浜田藩主となった古田重治によって築城されてから、慶応2年(1866)長州軍によって落城するまでの247年間、浜田藩6万1,000石(寛政3年)の本拠地であった。石垣や門が残り、桜や紅葉の名所として親しまれています。
問0855-24-1085(浜田市観光協会)・浜田駅から石見交通バスで5分、商工会議所前下車すぐ・P約20台・浜田市殿町

有福神楽(浜田地区)
浜田市下有福町に伝わる神楽で、時期ははっきりしないが、有福八幡宮創建の時、八幡宮の門宮司を中心に、近隣の神職たちが神楽社中を作って舞ったのが始まりとされている。有福神楽は石見神楽の代表的な神楽で、曲目30種を数え、見せ場の多いのが特徴である。ことに、「尊神」「帯舞」「関山」「貴船」など他の神楽にないレパートリーの広さを持っている。石見神楽は出雲神楽と違って、直面の採物舞と面の演劇風の舞いとがはっきり区分されていない特色があり、それに、記紀神話に必ずしも忠実でない点は、石見神楽が、復古神道によって整頓される以前のものであることをうかがわせている。有福神楽の曲目の一つ「関山」では、神楽でありながら僧形が出てきたりする。石見神楽は一般的にショー化されつつあるが、昭和45年(1970)の万博にも出演し、ダイナミックな舞いで好評を博している。昭和39年(1964)5月に県の無形民俗文化財の指定を受けた。
 
石見の飾面(浜田地区)
石見の飾面は、石見神楽の道具面の域を脱し、今では民芸品として好評を博し、東京の劇団で使われたり、郷土工芸品として海外に紹介されるほどである。作品には魔除けの般若面、鍾馗面、商売繁盛用の猿田彦面、祝い用のお多福面、おひな様などがあるが、特に口をカッと開き、眼光鋭く角を生やし、ひげをたくわえた恐ろしい面相の般若面が一番人気があるという。もともと長浜の面作りは神楽の道具として、江戸時代末から明治の初めごろに作られるようになった。木彫面と違って、石見和紙を何度も重ね張りして作るこの面は大変丈夫で、落ちてもこわれない。粘土で形をつくり、それに和紙を張り、粘土の型をとりのぞき、出来た面に胡粉を何回も塗って白くし、そのうえに、漆や絵具で顔だちを描くという、文字どおり手作りの作品である。石見神楽面は、昭和57年3月しまねのふるさと伝統工芸品に選ばれ浜田市、江津市に制作者がいる。
 
長浜人形(浜田地区)
浜田市長浜地区には、江戸時代中ごろから始まった陶器職人によって作られる人形がある。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際、浜田から従軍した永見氏隆が、朝鮮の陶工を2名連れ帰って、陶器を作らせたといわれている。永見氏は陶工の技術を伝承して陶器をつくっていたが、江戸時代の中ごろ、6代永見成助が陶器のほかに人形作りを始め、さらに7代治三郎が津和野城下で彫刻の技を磨いて、人形作りに新境地を開いた。そして治三郎の子房造は、九州の博多や有田へ修業に出かけ、伝統の技法に博多人形の絵つけをとり入れて優雅な人形を完成させた。これが長浜人形と呼ばれた。 長浜人形にも天神さん、大黒さん、恵比須さん、えと干支もの、石見神楽面、子供用のお面など種類は多い。幕末には浜田藩の専売特許を得て、東北方面にまで売り出された。近年制作者が少なくなったが、素朴で郷土色にあふれた人形である。昭和57年(1982)3月島根県ふるさと伝統工芸品に選ばれた。
 
田ばやしはあでやかに(三隅町)
農民が豊作を祈って田の神(サンバイさん)に奉納する小笠原流三隅の田ばやしは、200年以上も井野地区に伝わる郷土芸能。浴衣に赤いたすきをかけ、揃いの花笠をつけた40〜50人の男達が、腰に付けた太鼓、小太鼓を胴頭のササラに拍子を合わせて打ちながら田歌を歌いはやして回る行事。信仰と労働、芸能とが一体になったもので民俗学的にも貴重なものです。また黒沢地区には、花田植、大代、牛供養の三者が一体となった神事、県の文化財指定の黒沢田ばやしがあります。
 
梅、桜、つつじの競演、三隅は花で飾られる町(三隅町)
平戸つつじ、久留米つつじなど5万本あまりが配され、中国地方随一の規模を誇る三隅公園のつつじ。町を見おろす公園では、4月下旬から5月中旬の花の頃にはつつじ祭りが開かれ、たくさんの観光客で賑わいます。三隅公園の上手には、町内外の人々の寄贈による1018本の梅の木が植栽された梅林園があり、早春の花一番として町の名所となっています。また、梅が実る頃には「梅狩り」が開催され、多くの町民が梅取りを楽しむ憩いの場にもなっています。
 
三隅神社(三隅町)

祭神は三隅兼連。三隅氏は藤原(御神本)国兼を祖とし、建久4年(1193)四代目兼高が石見権介となって益田七尾城に入り、益田氏を名乗った。その次男兼信が三隅に来て四代兼連は高城山によ拠り三隅氏を名乗った。南北朝の争乱の時、新田義貞、名和長年らに呼応して足利氏と戦い、山城国で戦死した。このため明治以降、忠臣として脚光をあび、昭和3年(1928)神社創建の議が出願され、昭和12年(1937)造営された。境内のツツジは約5万本、石見で随一といわれる。

参禅道場として知られ、600年の歴史を持つ龍雲寺(三隅町)
山号を海蔵山」といい、県指定文化財の「紙本墨書大般若経」、本堂の各天井に狩野惟信の巨大な竜の墨絵など多数の文化財を有しています。入増尾唐破風つきの本堂は、天保3年(1832年)松平周防守康任が会津屋八右衛門の密貿易事件で奥州棚倉に移封される時、その菩提寺としていた浜田の長安院のものを移築、寄進したものと歴史に残っています。また、禅と精進料理が堪能できるイベント「石州心の旅」が好評です。
三隅大平桜(三隅町)
南には、根周りが5.4m、高さ17mにも達する彼岸桜に似た種類の巨木で、作家水上勉も絶賛したといわれる大平桜があります。推定樹齢三百年、太い幹が六本に別れ、周囲を圧倒するような枝振り、満開の花の素晴らしさは、まさに雪の小山のようで他に類を見ません。
 
三隅町立石正美術館(三隅町)
ロマネスク様式の建物がすばらしい。三隅町出身の石本正画伯の世界が満喫できる至宝の美術館。
 
石見神楽の中でも古い形式を伝え、その正統を継ぐものといわれる三隅石見神楽(三隅町)
井野八幡宮に奉納するために創作された井野神楽はその代表的なもので、演目の総数は30数曲もの数にのぼる県の無形文化財です。
 
幽玄な趣の石州半紙(三隅町)
大阪商人が大災の時に井戸に投げ込んで保存したといわれるほどの強靭な石州半紙は、昔ながらの手づくりの伝統を守り続けており、国の重要無形文化財伝統産業工芸品でもあります。また近年では、ブータン王国からの紙漉の技術研修者を受け入れ、技術指導などを通じて同王国との国際交流に多大な貢献をしています。町観光協会を通じて申し込みをすれば、紙漉の体験もすることができます。
 
美又温泉美又温泉旅館ホテル(金城町)
浜田市の東およそ15km、金城町の北東部にある閑静な保養向きの温泉である。泉源は江の川支流の美又川河畔から湧き出し、豊富な湯量を誇っている。日露戦争当時には、浜田連隊の療養所が置かれ、山陽方面にもよく知られた温泉であった。現在では美又温泉国民保養センター家族休養ホーム、他旅館8軒が美又川のほとりにある。いのしし料理、あゆ料理、山菜料理など山峡の温泉らしい料理がある。温泉は40℃の単純温泉で、神経痛、リュウマチ、動脈硬化症に効能があるといわれている。20リットル10円のコインスタンドもある。
 
リフレパークきんたの里(金城町)
コンセプトは温泉と食を通じた心身のリフレッシュ。湯屋温泉を利用した若返りの湯と薬膳風健康食が好評を得ています。
 
伊木温泉伊木温泉(金城町)
七条嵩山では、明治から昭和初期までマンガン採掘を行っており、その廃坑から湧出する酸性鉱泉を浴用に利用していた。泉源は1。泉温は10.9℃で法第二条第一項に規定する温泉である。真菌症(水虫)、リウマチ、慢性湿疹等に効能があるといわれている。
 
湯屋温泉湯屋温泉(金城町)
昭和の初期、役場から1kmのところに傷によく効く冷泉が発見され、旅館が一軒あり湯治に利用されていた歴史がある。平成5年(1993)町がその地をボーリングし、泉温21℃の低張性弱アルカリ性冷鉱泉を得た。浴用では痛風、動脈硬化症、高血圧症、胆石症等、飲用では糖尿病、痛風および尿酸素質等に特に効能があるといわれている。浴場「子安華湯館」のほかコインスタンドもある。
抱月公園(金城町)
浜田から美又温泉へ向かう途中にあるのが抱月公園である。金城町出身で新劇の創始者といわれる島村抱月の碑は、すでに浜田市の城山公園内に建っているが、出身地である金城町には、久佐の宝林山浄光寺に墓があるだけであった。「誕生地に顕彰碑を」との声で顕彰会が発足し、昭和53年(1978)石碑および顕彰板が完成した。小商い丘の上にある抱月碑から見た周辺の眺めはよく、また公園には整備された散歩道を中心に1,700本のツツジやサクラが植えられている。
金城町歴史民俗資料館(金城町)
約170年前の粗鋼等を収納していた倉庫「踏韓ぐら倉」の木造2階建をそのまま使用し、昭和53年(1978)に資料館となった。二丁フイゴの復元をはじめ、たたら関係の文献、資料約500点、製鉄用具約80点、町内から出土した埋蔵文化財等が展示されている。さらに、同町出身で日本人として初めてチベットに入国した宗教家能海寛と、日本近代演劇の祖、島村抱月の遺品なども展示してある
金城町民俗資料館
金城町は江戸時代から明治中期までタタラ製鉄や和紙づくりが盛んなところであった。民俗資料館は鉄筋コンクリート2階建一部吹抜で、昭和48年(1973)にオープンし、西中国山地民具を守る会によって収集された2,500点を展示する。山村生産用具758点は、昭和46年(1971)12月、国の重要民俗文化財に指定され、山村生活用具221点は昭和47年(1972)7月、県の指定を受けている。そのほか、紙すき用具100点などがある。二つの資料館は、国道186号線をはさんで約30m離れた近距離にある。
かなぎウエスタンライディングパーク(金城町)
広大な森林公園の中で本格的野外乗馬。雨天でも楽しめるインドアアリーナ、バーベキューレストランを備えています。
 
金城カントリークラブ(金城町)
中国山地の山々を背景に、変化に富んだ地形をいかしたチャンピオンコース。ロング、ミドル、ショートと多彩に楽しめます。
 
森の公民館(金城町)
バンガロー、キャンプ場、野外ステージを備えた交流施設。合宿、研修、音楽イベントなどさまざまな活動に最適です。
大佐山
標高1,069mの山。この山の島根県側は山麓になるほど急で、中腹から上は少しなだらかな斜面となっている。大佐山から広島県芸北町一帯にはキー場が点在しており、特にこの大佐山はその中心的スキー場である。国道186号線沿いにあり、冬は広島・島根両県から多くのスキーヤーが訪れる。山頂一帯は、西中国山地国定公園に指定されている。
 
エクス和紙の館(金城町)
金城町波佐は江戸時代津和野藩に属し、年貢を和紙で上納した歴史がある。昭和61年町はこの地に紙すきの歴史、和紙芸術作品の展示や体験紙すきのできる「エクス和紙の館」を建設した。12月黄色のミツマタの花が咲く頃の波佐の地は、大佐山の背景と相まって最高の景色をかもし出し、訪れる人をよろこばせてくれる。
 
旭テングストンスキー場(旭町)
旭町は島根県の中央部から南西よりの広島県境に接し、温泉・リゾートと緑豊かな自然のあふれる町です。平成3年、待望の浜田自動車道が全線開通し、山陽、北九州経済圏との時問距離も大幅に短縮され、旭テングストンスキー場は年間10万人のスキーヤーで賑わい、自然水族館、キャンプ場、アスレチック、フィッシング、ペンションなどなど盛りだくさんのリゾートエリアです。
 
旭峡(旭町)
渓谷や島根の名水に挙げられる旭峡をはじめとする渓谷美の素晴らしさも、筆舌に尽くしがたいものがあります。
 
早水渓谷(旭町)
切り立った断崖や巨大な岩の問に小さな滝や淵が連なり、約4kmの∨字渓谷をなすこの渓谷は、秋には美しい紅葉を楽しむことができます。
 
熊ケ谷の棚田(旭町)
農水省の「日本の棚田百選」に選定されたこの棚田は、城郭の石垣をも連想させる見事な文化遺産です。
 
ふるさと歴史公園(旭町)
浜田自動車道建設により出土した「やつおもて18号墳」の復元や昆虫学者湯浅啓温博士の資料を展示している資料館があります。
旭温泉旭温泉旅館ホテル(旭町)
インターチェンジに近い良質な泉質をもつ旭温泉にも多くの観光客が訪れています。山陰、山陽のほぼ中央に湧き出る旭温泉郷。旭町の北部に位置し、春は新緑、夏は星空の下を飛び交う蛍、秋の紅葉、山菜、そして冬の銀世界ど四季折々に美しいたたずまいをみせる、温かな人情にすっぽりと包まれた別天地です。泉温38度、無色透明、無味無臭の単純泉は湯上がりの保温が良く、リューマチ性疾患などに薬効が高いとされています。周辺にはナイター施設も完備した屋根付のゲートボール場や誰でも気軽に楽しめるパターゴルフ場があり、温泉と軽スポーツの組み合わせが、心と体のリフレッシュにはもってこいと、大変喜ばれています。
 
山の内梨園(旭町)
新しい農業づくりとして、旭の梨「旭豊」として栽培、販売に取り組んでいます。合わせて観光梨園としての取り組みも進めています。
 
ふるさと体験村(弥栄町)
中国山地のはぼ中央、深い緑に抱かれるような盆地に位置する弥栄村。現在、恵まれた自然環境と山里ならではの人情味を活かして、訪れる誰もが弥栄の暮しに触れられるような「田舎の暮し体験リゾート」が村ぐるみで進められています。
都会にはない田舎の暮しの楽しさと貴重な自然環境をさらに育て、人々が忘れかけている「ふるさと体験」を、おいしい食べ物とともに提供するための、「ふるさと体験村」は。山小屋風のログハウス、冒険の森、体験農場、体験工房など数々の施設があります。弥栄村では、おいしい食べ物づくりが村づくりの基本となっています。今、多くの人々が求めている、安全で、どこよりも優れたおいしい食べ物づくりが真剣に行われています。そして食べ物を作る側(農村)と食べる側(都市)との食を通じてのふれあいづくりにも積極的に取り組まれています。弥栄村では、ふれあいから魅力ある食文化を生み出す村を「コンベンションビレッジ」と名付けました。交流の拠点となる「ふるさと体験村」では地元でとれる素材に、村の風土を織りまぜ四季折々の料理で訪れる人々を迎えています。また標高800〜900mの尾根を縦走する全長2.2kmのフナ林遊歩道も近くにあり、樹齢200年を超すブナの原生林が目を楽しませてくれます。
 
水車は村のシンボル
自然に囲まれたログハウス
ブナ林の自然遊歩道
松ヶ谷遊歩道(弥栄町)
すがすがしい谷あいの森林浴コース。自然が造りだした美しい渓谷とせせらぎの全長2.4kmの遊歩道は自然を満喫できます。また、紅葉の季節の景観も見事です。
 
長安八幡宮天然並木杉(弥栄町)

長安本郷の永岳山に鎮座する八幡宮の社殿は山頂にある。この社殿から下の鳥居までは急傾斜の石段が直線的に続く。石段の両側には県下で稀な老巨木の杉が3本あり、社殿のある平地の右側前縁に同様の老巨木の杉が2本異彩をはなっている。 この5本の巨杉は県指定天然記念物で昭和47年(1972)3月に指定された。そのうち最大のものは石段左側ので、根回りは9m近く、目通りの幹囲は6m以上もある。かつては、この杉並木が数多く並立していたであろうということは、周辺の大株跡などからうかがわれる。

 
ドイツでも人気の弥栄村石見神楽団(弥栄町)

古くから伝わる伝統芸能は農村の暮しを支える大切な財産でもあります。豊作を祈願する「田ばやし」、村の人々の最大の娯楽である「村芝居」、そして賑やかで勇壮な石見神楽と、その調べは現代にも脈々と生活の中に息づき、伝統芸能は子供達にまで受け継がれています。そうしたなかでも弥栄村石見神楽団は草の根国際文化交流委員会が企画した「未来農業研究団」の一行としてドイツを訪問し、ウルム、ケンプトン両市で、石見神楽の花形「大蛇」など五演目を上演、大好評を博し、国際交流にも大役を果たしました。村内のみならず島根県内でも大きな話題となりました。

 
《 浜田物語 》
 
浜田藩と会津屋八右衛門…藩財政に大きく寄与した密貿易。国禁を犯し海外へ夢を馳せた八右衛門!

浜田市松原湾鰯山に、はるか海を眺めるように一つの碑が建っています。「会津屋八右衛門氏頌徳碑」と刻まれたこの碑には、浜田の人たちの熱い思いが込められています。八右衛門は浜田の誇る巨人であり、この町の偶像ともいうべき人物になっています。
昭和10年に刊行された『浜田町史』、昭和48年刊行の『浜田市史』に善かれた会津屋八右衛門のことは一般に「竹島事件」と呼ばれ、江戸時代末期、浜田を舞台に行われた密貿易事件のことをいいます。鎖国政策を執っていた江戸時代外国領に行って貿易をすることば国禁を犯す重罪でした。しかし、厳しい禁制を犯して海に乗り出して行った冒険的海商、覇気のある八右衛門はこの地の人たちにとって忘れ去ることのできない人物です。
当時、浜田藩は松平周防寺家が治めていました。八右衛門の家は浜田松原浦で浜田藩御用の回船問屋でした。八右衛門の父清助は二千五百石積の大船を建造して文政2年(1819)秋、江戸へ向けて出航したところ、紀州沖で難破して消息を絶ってしまいましたが、三年後に浜田に帰って来ました。清助は漂涜中にオランダ船に助けられ、ジャワ、スマトラ、ルソンなど東南アジア諸国に寄港したりして長崎に着いたのですが、長崎での取り調べを避けてオランダ船から海に飛び込み、役人の目を逃れ裸同然の姿で浜田に着いたといわれています。
八右衛門は、繰り返し聞かされる父の漂涜談に刺激を受けて、次第に海外との交易を志すようになりました。そこで密かに藩の勘定方は橋本三兵衛、年寄松井図書、家老岡田頼母らと計って密貿易を始めたのです。当時、浜田藩の財政は窮乏の時でしたから、八右衛門の計画は藩にとっても財政的に潤うことでした。そこで密貿易は実行に移されます。八右衛門は竹島(今の韓国・欝陵島で、現在竹島と呼ばれている島は当時は松島という)に渡航して、ここを取り引き地として数年間、浜田藩の会符を使って集めた国産の刀剣類と、外国の珍しい竹木草根その他外国品との交易をしました。交易対象も次第に拡大して朝鮮、中国だけでなく、台湾・安南・ジャワにまで広がり、珍しい品々が荷揚げされたといわれます。これによって八右衛門は巨利を得、藩へは莫大な運上金が納められて、藩財政にも大きく寄与しました。
しかし、八右衛門と橋本三兵衛は、天保7年(1836)6月、大阪町奉行矢部駿河守の配下に捕らえられます。事が発覚したのは、 幕府の隠密間宮林蔵の探索によるといわれています。この検挙は早くから予知されていたために、岡田頼母は隠居し、橋本三兵衛は妻子を離別し、八右衛門は妻を離縁、子を養子に出していました。幕府の出頭命令を受けた岡田と松井は自刃し、八右衛門、橋本らは江戸へ送られ取り調べの後、この年12月23日、死刑に処せられたのです。このほか関係した人たちにも判決が下されていますが、死刑は八右衛門と橋本だけでした。幕府は翌年2月21日、この事件を全国に公表し、海外渡航厳禁の高札を出しています。藩主松平康任(やすとう)は八右衛門らが捕らえられた天保7年6月以前の同年3月12日に奥州棚倉へ所替えになっていました。これは但馬国出石藩のお家騒動の首謀者仙石左京と姻戚関係にあり、康任も事件当時、幕府の老中首座の地位にあったことから連座し、所替えの処分を受けたものと思われます。さらにこの密貿易事件によって康任も永蟄居の処分を受けています。
これが会津屋八右衛門の竹島密貿易事件として広く巷間に伝えられていることですが、この事件の実像そのものは史的資料に欠けていて、多分に八右衛門や密貿易の実態などが潤色され拡大解釈されているのではないかと、地元の浜田で見直しの史的作業がされています。例えば清助が造った二千五百石の船も今の大きさで五百トンにあたり、浜田の一回船業者が建造し得たのか、清助が長崎から帰って来るのに関所や番所等日本国内の警戒の目を逃れて旅ができるものなのか、八右衛門が交易をするのに東南アジアにまで行ったという程の船を建造でき、その航海技術を持っていたのか、竹島で交易したに過ぎないとしてもどのようなルートで行き、どういう物産を持ち帰ったのか、巨利を得たといわれていてもどのくらいの収益を得ていたのか等々、解明されていない疑問点が多くあるのです。さらに当時の浜田藩の藩政事情、幕閣で重職にあった藩主の立場とその権力争いの実態との関係等からの考察も必要といえます。
密貿易をしたとされるこの事件の八右衛門に対する判決文が「異国の島へ渡り立木等伐採り持ち帰ったことで、異国人に出会い交通等はしなかった」として密貿易を否定し、他国へ行った罪に限定するという政治的判決の裏にある幕藩体制の揺らぎにも注目するものがあるのです。このころ既に日本列島の近海に異国船が出没するのは、もう珍しくない時代に入っていましたし、国内では渡辺華山、高野長英らが世界の情勢を論じ、幕府の対外政策を批判し始めているころでもあったのです。明治維新へ向かって激動期が訪れようとしていた少し前の時代でした。最近、直木賞作家の古川薫が『閉じられた海図』の題で歴史小説として発表しています。

 
この「竹島事件」によると韓国が領有権を主張する竹島は欝陵島(うつりょうとう)のことであり、現在の竹島は当時松島と言われていて、日本固有の領土であったことがよくわかる。
 
  
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