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戦国時代の中頃、日本史上長大の規模をほこる銀山が開発されました。それが石見銀山です。博多の豪商"神谷寿貞"によって発見された石見銀山は、天下盗りに挑む多くの戦国大名争奪の的となり、大内氏、尼子氏、毛利氏などによる戦乱絵巻が、ここ山陰石見路に展開されます。そして天下分け目の関ヶ原の合戦。この戦いに勝った徳川家康はまっさきに石見銀山を押さえ、その財宝の独占を図ります。以来、石見銀山は徳川幕府直轄の御料として江戸時代300年を生き抜き、この地に近世江戸文化の華を咲かせたのです。
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| ■龍源寺間歩 |
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間歩…。銀鉱石を求めて掘られた坑道です。石見銀山ではこの坑道を間歩と呼んでいました。慶長から寛永にかけて銀山は最盛期を迎えますが、この時期300余りの間歩が掘られたと言われています。
間歩の発掘は、一日五交代制で二十四時間のフル稼働でした。縦1m・巾60cmの横穴掘りは大変な作業であり、熟練の堀子でも1日30cm掘り進むのがやっとだったということです。現在、石見銀山の間歩群の内「釜屋」「新切」「新横相」「大久保」「福神山」「本」そして「龍源寺間歩」の七つが、国の史跡として指定されています。
通り抜けコースとなっている坑道は全長273m。江戸時代に開発された龍源寺間歩の途中157mのところから左折し、新しく開削した栃畑谷新坑を通って出口に向かいます。入口から157mまでの壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、また二十余りの鏈押し坑道(鉱脈に沿って掘り進んだ横穴)や垂直に100m掘られた堅坑を見ることができます。左折してやや登り加減に続く新坑は長さ116mで、この右壁には「石見銀山絵巻を展示しており、歩きながら当時の坑内の様子が楽しめます。
間歩を出ると、付近には室町時代の屋敷跡や神社仏閣などか点在し、中世から近世の歴史ロマンを静かに表現しています。
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| ■羅漢寺と五百羅漢 |
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羅漢寺の崖に掘られた石窟に安置されている五百体の羅漢像。石見銀山で働く人たちの安全祈願と、亡くなった御霊の供養のため作られたもの。
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| ■石見銀山資料館 |
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銀山で使用された鉱山道具や、古文書、鉱石など約800点を展示。当時の採掘方法や銀山に関わる多くの人たちの暮らしぶりなどがわかる、幅広い歴史的資料が豊富。
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| ■大森町並み |
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石見銀山によって栄えた町は、最盛期には人口約20万人、寺院百カ寺と伝えられている。代官所跡、町屋や武家住宅があり、当時の面影を今に残しつつ、歴史的ロマンに浸れる空気がたちこめている。大森地区と銀山地区は、国の重要伝統的建物保存地区に指定されている。
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| ■石見銀山遺跡(発掘調査が進む石見銀山跡) |
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仙の山山頂近くの石銀地区では、江戸時代の製錬所跡が見つかりました。世界遺産登録に向けてさまざまな調査が進められています。
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| ■勝源寺 |
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徳川家康をはじめ歴代将軍の位牌が納められている東照宮が鎮座する。
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| ■井戸神社 |
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唐イモの導入栽培に成功し、いも殿様と慕われた代官井戸平左衛門正明が祀られてあります。
享保十六年(1731)大森代官として赴任した井戸平左衛門正明は、折からの大飢饉に見舞われている領民の窮状に直面し、その救済に全力を尽くした。
後に人々の命をつなぐ糧となる甘藷の栽培を始めたり、年貢の減免を行うなど、可能な限りの策を施した。
人々は彼を「芋代官」と慕い、村々で報恩の碑を建てた。その数は、石見部を中心におよそ五百基あるという。 |
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| ■大久保長安の墓 |
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慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、徳川家康から名を受け、石見銀山の初代奉行となった大久保石見守長安。斬新な銀山経営で、第二次シルバーラッシュを創出させた人物。現在、大田市大森町に彼の墓が残っている。 |