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  世界遺産を目指す「石見銀山遺跡」に国立公園「三瓶山」青く澄んだ日本海を有する自然文化観光都市。大森銀山は今はひっそりとしていますが、耳を澄ますと鉱夫たちの鎚の音が聞こえてくるかもしれません。  
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大田市観光協会(大田市大森町イ826 銀山公園内)Tel.0854-89-9090
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大田市商工会議所(島根県大田市大田町大田イ309-2)Tel.0854-82-0765
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《 世界遺産と国立公園、自然と歴史と湯のまち大田市にようこそ! 》
 
大山隠岐国立公園・三瓶山

島根県の中央部、出雲国と石見国の境界にそびえる火山で、『出雲国風土記』では「佐比売山」と記されている。大山などとともに白山火山帯に属している火山で、今から約1万6000年ほど前に最後の大爆発を起こしたと言われている。主峰は男三瓶(1,126m)で、女三瓶(957m)、子三瓶(961m)、孫三瓶(907m)の4つの峰からなる。石英安山岩からなり、その山容は釣鐘状で、いわゆるトロイデ型の火山として有名である。
女三瓶と孫三瓶の間には、火山砕屑物が堆積してできた大平山があり、これら5つの山が環状に並んでいる。その中央には室の内と呼ばれる噴火口があり、凹地を形成している。
室の内には鳥地獄と呼ばれる噴気孔があり、今でも二酸化炭素を噴出している。さらに、周辺には、日影山(718m)、森田山(574m)、陣山(524m)などの火山が三瓶山をとりまいている。山鹿には海抜400〜600mのゆるやかな斜面がひろがり、北の原、東の原、西の原をつくり、牛の放牧やスキー場として利用されている。東の原と西の原の火山斜面は、江の川に流出する早水川が深い谷をきざむ。
早水川の上流部の志学には三瓶温泉が湧く。温泉は、およそ1kmへだてた日影山西の谷間から引湯して旅館等に提供している。泉質はNa・Ca・Mg−Cl泉で、かつては湯治に利用され、リュウマチ、神経痛、アレルギー疾患に効くとして広い地域から湯治客を集めている。現在、旅館や各種の保養所が集まっている。
西の原にはレストハウスや休憩所があり、少し下ると浮布地がある。他にはボートやモーターボートがあり、湖畔にはキャンプ場もある。東の原には、食堂のほかリフトがあり、冬期はスキー客で賑わう。リフトの終点から室の内にかけては、自然探勝路が整備されている。北の原には姫逃池(ひめのがいけ)があり、天然記念物のカキツバタが群生している。ここには、レストハウスの他県営のキャンプ場があり、国立三瓶青年の家もある。また、これら三つの草原を結んで三瓶山高原道路があり、一周することができる。
このほか、男三瓶と室の内には大規模な自然林が残っており、国指定の天然記念物となっている。
昭和38年(1963)4月に全域が大山国立公園に編入され、大山隠岐国立公園となった。
トロイデ型火山の三瓶山の裾野の斜面には、
ゆるやかなスロープが高原をおもわせる地形を展開しており、それぞれ北の原、東の原、西の原と称している。北の原は海抜500〜600mのゆるやかな斜面で、姫逃他のある長者原を中心として遊歩道やレストハウスなどがつくられ、キャンプ場も整備されている。
姫逃他の近くには国立三瓶青年の家がある。東の原は海抜400〜500m程度で、大田市と飯石郡頓原町にまたがっている。広い斜面には放牧地がひろがっており、冬にはスキー場となる。西の原も海抜400〜500mの高さで夏涼しく、近くの浮布地周辺にはキャンプ場がある。この西の原が、国立公園三瓶山の実質上の表玄関で、定めの松や片腕の松付近は観光客の集まる場所となっている。ここには貸馬もある。
西の原〜北の原〜東の原を結ぶ自動車道が、昭和45年(1970)にでき、三瓶山を一周することができるようになった。

浮布地(うきぬののいけ)伝説

浮布地は、白鳳13年(684)日本全土にわたって起こった大地震により、三瓶山山麓の西の原に出現した池だという。
この浮布地には、悲しい伝説が残っている。
昔、池の原の長者の家に、やさしくて美しい姫がいた
姫は時どき他のほとりを歩くことがあったが、あるとき、池のほとりを歩いていると、美しい若者と出会った。
姫は、この美しい若者に二度、三度と会う内に、しだいにひかれるようになり、やがて二人は恋し合うようになった。
そんなある日、この他のほとりを、全国を修行中の1人の武士が通りかかった。そして、大きな蛇に巻きつかれで恍惣の表情を見せる美しい姫を見つけた。姫には、素敵に見えた若者は、実は蛇の化身だったのである。
武士は、姫を助けなければと、すぐさま大蛇めがけて大弓をひきしぼり、矢を射た。矢は見事、大蛇の頭に命中、大蛇は全身をくねらせて他の中へと姿を消していった。
しかし、姫は驚き、嘆き、悲しんだ。若者の正体がわかっても、姫にはあくまで恋しく慕わしい対象だったのである。姫は、若者に呼び寄せられるように、他に身を投げてしまった。そして、二度と浮かび上がることはなく、着ていた白い衣だけが、しばらくして浮いて釆たという。
毎年邇幣姫(にべひめ)神社のお祭り(7月15日)の日の夜明けには、この姫のもとへ大蛇の化身の美青年が逢いに来ると伝えられている。
その逢い引きの道が、他の北岸から他の東側の中ノ島にかけて長さ二メートルのさざ波となってあらわれると伝えられている。

温泉津温泉…1300年前に傷ついたタヌキが発見した温泉! 温泉津温泉旅館

温泉津川の川べりにあり、三方を山に囲まれ、西は湾にのぞんでいる。泉源は4つあり、泉温は46〜50℃。泉質はNa-Cl泉で胃陽病・神経痛に効能があるほか、近年は、原爆症にも効果があるとして広島方面からの湯治客が多くなっている。
古くから知られた温泉で、伝説によると今から約1,000年以上も前、旅の憎が行脚の途中、この津に釆て一夜の宿を乞うたが、里人は僧を怪しんで泊めようとしない。しかたなく無住の坊に仮寝をしていた僧は、天地を揺るがす雷鳴と共に現われた妖怪に襲われた。憎が剣をもってこの妖怪に切りつけると、たちまち雷鳴は止み、妖怪もかき消えた。あくる日、点々とあとの残った血痕をしるべに山あいに入ると、そこに昨夜の妖怪と思われる古狸が、湧き出る泉で傷をいやしているのがみえた。僧は里人と共にこの泉を再び訪ねて見ると、まさしく温泉であったという。
温泉の湧く地点はここのほか温泉津駅の西およそ300mの小浜にあって小浜温泉と称され、泉温は33℃程度である。7月7日には温泉祭が行われ、海水浴シーズンとも重なり賑わう。山陰本線温泉津駅からバス5分、温泉前下車大田市温泉津町温泉津

 
《 大田市観光ガイド 》
 
石見銀山遺跡

石見銀山の始まりは、伝説によれば鎌倉時代末期にこの地を領していた周防の雄、大内弘幸が守護神北辰星の「石州仙の山に銀を出す」とのお告げにより発見したと伝えられています。1533年(天文2年)、桂寿と宗丹という才支術者が石見銀山にもたらした「灰吹」という銀精錬法によって良質の銀が大量に生産されました。この灰吹法は、石見銀山から兵庫県の生野銀山や新潟県の佐渡金銀山など日本国内の鉱山へ急速に普及しました。この精錬才支術は、現在の貴金属生産技術の基礎となっています。関ケ原の戦いの終結後、勝利した徳川家康によって周辺7ケ町村に「禁制」を発給され、銀山の直轄支配の体制がつくられました。以後江戸時代約260年間、石見銀山は幕府直轄領(天領)として支配されました。石見銀山は、1922年(大正12年)に閉山となった後、大規模な採掘や開発が行われなかったため、16世紀から20世紀初頭にかけての数々の遺跡がきわめて良い状態で残されています。遺跡は、日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定史跡となっています。また、銀山の繁栄と共に栄えた大森の町並みも、江戸時代末の面影をそのまま伝えており、1987年(昭和62年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。この石見銀山の歴史・文化そして遺跡は、日本はもとより世界的にも貴重な文化遺産です。
石見銀山遺跡といえば、大森町一帯および南にそびえる仙ノ山や山吹城跡のある要害山一帯をいいます。

 
龍源寺間歩

草が繁る山に、ぽっかりと口をあけている間歩(銀山横穴式坑道)に入れば、銀を掘る音が今にも聞こえてきそうな石ノミの跡が当時のままの状態で鮮やかに残っています。
問0854-89-0347・9:00〜17:00(11月24日〜3月19の16:00まで)・休(11月24日〜3月19の第1、3月曜日)・400円・大田市駅からJRバスで24分、代官所跡下車、車で10分・P20台・大田市大森銀山

 
大森銀山代官所跡

石見銀山資料館は大森代官所跡の敷地内にあります。明治年間に郡役所として建てられたものがそのまま資料館として使用されており、銀山で使用された鉱山道具や古文書、鉱石の掘り出しから精錬、搬送までが克明に描かれた絵差物等、485点もの貴重な資料が展示されています。
問0854-89-0846・9:00〜17:00(12〜2月は16:00まで)・無休・石見銀山資料館500円・大田市駅からJRバスで24分、代官所跡下車すぐ・P大森観光センター前50台・大田市大森ハ51-1

 
大森銀山地区

山陰地方では初めて重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)に選定されています。保存地区は、国指定史跡である山吹城跡から代官所跡まで南北2.8km、約32.8haの鉱山町の町並み。同心、町年寄りなどの旧宅や商家が混在、周囲の山や川などの豊かな自然環境とともに特色ある歴史的景観を構成し、ひっそりと息づく町並みは栄枯盛衰のドラマを無言のうちに語ろうとしています。

 
羅漢寺と石窟を結ぶ三基の石の太鼓端

羅漢時と銀山川を隔てて向かい合ったところの岸壁に、寛保から明和にかけ20年の歳月をかけて、三つの石窟をつくり、その中に五百体もの羅漢像が納められています。
問0854-89-0005・9:00〜17:00・無休・大田市駅からJRバスで24分、代官所跡下車、徒歩10分・P銀山公園駐車場利用・大田市大森イ804

 
人間の喜楽哀楽をその表情にたたえる五百一体の石造座像郡

銀山で働く坑夫の安全と供養のためにつくられたと言われる羅漢像は人間の喜怒哀楽の表情を如実に表している。

城上神社拝殿
文化9年(1812)に建造された神社で、社殿の格天井には極彩色の鳴き竜が描かれています。昭和52年5月に島根県指定文化財となりました。
問0854-82-2555(大田市観光協会)・参拝自由・大田市駅からJRバスで24分、代官所跡下車すぐ・P大森観光センター前50台・大田市大森
勝源寺
徳川家康をはじめ歴代将軍の位牌が納められている東照宮が鎮座する。
 
井戸神社
唐イモの導入と栽培に成功。大飢きんを救い、いも殿様と慕われた代官井戸平左衛門が祀られてあります。
 
井戸神社
唐イモの導入と栽培に成功。大飢きんを救い、いも殿様と慕われた代官井戸平左衛門が祀られてあります。
 
大久保長安の墓
石見銀山初代奉行大久保長安の逆修墓。長安は鉱山奉行として天下にその名をとどろかせました。
 
物部神社

石見の一の宮として広く崇敬を集めてきたのが、物部神社です。創建は継体天皇8年(513)、大和地方からこの地に移り住んだ物部氏が氏神を祭神としたものと伝えられています。県の文化財に指定されている高さ16.3mの本殿は出雲大社につぐ壮大なものです。

 
清滝
札打巡礼の番数を読みながら江谷川をのぼりつめると、20mの断崖からあたりの木立にこだましながら落下する清滝があります。春の桜、秋の紅葉が美しく、清滝自然公園になっています。
 
掛戸松島
塔状にそそり立つ高さ20mの奇岩。てっぺんに1本の松が立ち、月と漁り火に照らされて浮かぶ姿は感動の風景です
問0854-82-2555(大田市観光協会)・大田市駅から車で15分・Pなし・大田市久手町
 
静之窟
波浪の浸食作用でできた海食洞で、万葉集ではこの中で二人の神が国造りの策を練られたといわれています。
三瓶温泉
遙か昔、佐比売山と称された三瓶山は、大山と並び、国引神話の舞台として語り継がれています。壮大な高原リゾートと呼ぶにふさわしいステージは、いまなお自然の躍動感に充ちあふれ、四季折々の美しい表情を見せてくれます。
 
三瓶自然館
館内は、西日本有数規模の大型映像スペースと展示スペースに大別され、島根県の自然分布や伊達鳥類コレクションの常設展示、また、さまざまな特別展示などで、見て、触れて、自然に学べるミュージアム。ビジュアルミュージアムは183席の傾斜式リクライニングシートを揃えた直径20mのドーム型スクリーンに、70mmのフイルムを使った、迫力ある全天周映画とファンタジックなプラネタリウムを上映します。
問0854-86-0500・9:00〜17:00(4〜10月の土曜は午後6時まで)・休(月曜日、祝日の場合は翌日休館)、3-6-9-12月の第1月曜日〜金曜日までの各5日間、12月26日〜1月3日、夏休みは毎日開館・JR大田市駅より車20分、中国自動車道三次ICより車1.5時間・大田市三瓶町多根1121-8
国立公園三瓶山
三瓶山は古くは出雲国風土記に佐比売山と記され、国引きの神話の山としても知られています。主峰は男三瓶で、女三瓶、子三瓶、孫三瓶の4つの峰からなる女性的な山です。山麓には海抜400〜600mのゆるやかな斜面が広がり、北の原、東の原、西の原では、牛の放牧やスキー場として利用されています。また、山菜狩り、登山、キャンプ、森林浴、紅葉やリンゴ、モモ、クリなどの観光農園、そして貸し馬、ボート、メイズ等、四季を通じてお年寄りから子供まで楽しめます。その他、浮布池や姫逃池など伝説とロマンを秘めたものも数多く残され、三瓶温泉をはじめとする温泉も多くあり、湯治客などで賑います。昭和38年4月に全域が大山国立公園に編入され、大山隠岐国立公園に指定されています。
問0854-83-3311(三瓶観光案内所)・大田市駅から石見交通バスで40分、三瓶温泉下車、車で10分・P各施設にあり・大田市三瓶町
西の原
近くに浮布の池があります。長者の娘に思いを寄せる大蛇が若者に変身し、娘を池に誘い入れた、その後娘の娘の衣が湖面に浮かんだという悲しい伝説のある池です。三瓶山で一番広い草原。馬に乗って草原をひと回りできる。
貸し馬1コース800円
 
北の原
姫逃池に咲くくカキツバタは、紫の花が悲恋の伝説の娘、白い花が若者の化身といわれています。
 
北の原
三瓶の自然を紹介する三瓶自然館、消すとラン三瓶こもれび館がある。クロマツの木立に囲まれたキャンプ場は、常設オートサイトテント・集団オートサイト・屋根付きファイアー場・温水シャワー・コインランドリー…と家族で充分楽しめる設備が完備されている。
ケビン1棟1万300円
 
東の原
三瓶温泉スキー場は、初心者から上級者まで楽しめる変化に富んだスロープ。滑り終わったら、温泉でひと休み…ナイタースキーも楽しめます。春から秋にかけて動く観光リフトからの眺めは壮観。リフト終点から徒歩約2時間で男三瓶山頂
観光リフトは往復630円
 
ビジュアルドーム
183席の傾斜式リクライニングシートを備えた直径20cmのドーム型スクリーンに、70mmのフイルムを使った、迫力ある全天周映画とファンタジックなプラネタリウムを上映します。
 
地底劇場
三瓶山の生いたちを紹介します。
 
森の動物たち
森にはどんな動物が住んでいるのかな?
 
くり園
さわやかな秋風と共に味覚の王者…三瓶栗
りんご園
高原が紅く萌え始めるころ色づく甘酸っぱいりんご。短い秋の1日をりんご狩りで楽しめます。
仁摩サンドミュージアム(仁摩町)
全面ガラス張りのピラミッド大小6基からなる砂の博物館。最大の呼び物は一年計の砂時計で、高さ五.二メートル、直径一メートルの器から砂の量一トンが三六五日絶え間なく落ちています。半年がかりで製作されたガラス容器はドイツのショット社製で、特殊ガラスが使用されています。館内には砂に関するさまざまな資料や、アート作品を展示するほか、マルチスライド、立体音響システム導入のAVホールを設け、多様な砂の世界をダイナミックに表現しています。また、6基のピラミッド型の外観が、ライトアップによって優しく照らし出される夜の情景には、思わず心をときめかせてしまうことでしょう。
ふれあい交流館(仁摩町)
サンドミュージアムの持つ「時の流れ」「ロマン」「クリスタル」「透明感」などのイメージからガラスをテーマとした出会いのターミナルです。一階は伝統に伝統につちかわれた高度な技術で世界を魅了するチェコのボヘミアガラス。その中から44点を常設展示しています。またガラス工房ではブローチ・ネクタイピン・コップなど、世界に一つしかないオリジナル作品を作ることができます。
 
自然環境アーチスト「シムシメール展(仁摩町)
地球規模で環境問題が叫ばれる今、壮大なキャンバスに「愛」を描き、地球が助けを求めているさまを、視覚的に訴えている。
 
展示コーナーとガラス工房(仁摩町)
 
鳴き砂の資料の展示(仁摩町)
 
琴ヶ浜(仁摩町)
日本海の荒波によってできたダイナミックな海岸美。その一端に広がる白砂の琴ケ浜は、日本でも希な鳴き砂の浜として知られ、歩くとキュキュッと音を立てます。この鳴き砂には平家落人の琴姫伝説が残されています。その昔、平家の姫が琴を抱いて流れ者き、村人の手厚い看護で生き返り、その恩返しに琴を引いて人々を慰めていた。ある日突然、姫は死んでしまうが、その翌日から浜が鳴り始めた‥‥。」白砂に青松、そこに流れる琴の音は、きっともの悲しく美しく響くことでしょう。この琴ケ浜の西側にある友漁港の東端にある鵜の島は、風光明楯な景勝地で、金釣り洞、手斧ケ平など神秘的な洞門、渚門が多く、小船で探勝できます。
 
琴ヶ浜盆踊り(仁摩町)
夏、7月下旬には、日本海を彩る大漁飾り、夜空響く仮装カラオケで賑わう「にまごいせ祭り」が盛人に行われます。そしてお盆になると琴姫の伝説とロマンのある琴ケ浜では、老若男女帰郷者をも加え、鳴き砂を踏み鳴らしながら夜明かしで踊る琴ケ浜盆踊りが行われます。三百年の伝統を誇り、太鼓と嚇子だけの素朴な踊りですが、三種の踊りは優美・快活・端麗の要素を備えています。月の光に照らされて打ち寄せられる波の音と、太鼓の響きに誘われて踊り輪は広がり、その足下で鳴く鳴き砂は、その昔、平家の琴姫の伝説を人々の胸に呼び起こさせるのです。
 
高山(仁摩町)
標高499m馬路の琴ヶ浜から3km入ったところにある高山の登山道は、家族連れのハイキングコースとなっており、天気の良い日には遠く三瓶山を望むことができます。
 
蛇島(温泉津町)
日本海側のウミネコ繁殖地の西の南限地として有名であり、県の天然記念物に指定されている沖の蛇島。石見福光海岸の突出部にあり、年々その飛来数繁殖数は増えている。
 
櫛島(温泉津町)
後鳥羽上皇が隠岐に流される時に大嵐にあってここに漂着され、鳥人に愛用の櫛を授けられたという伝説が残る。付近にはキャンプ場、海水浴場、海岸遊歩道があり磯釣りも楽しめる。
巨大なのぼり窯(温泉津町)
やきものの里のシンボル、のぼり窯。長さ30m15段のそれと、長さ20m10段の二つののぼり窯が修復され、その大きさは全国で最大級としわれます。毎年無11月初旬に開催される"やきもの祭"では、昔ながらのやり方で、のぼり窯に炎が燃え上がります。資料館の陶芸体験ルームでは、気のむくままに、自分だけの作品を作ることができます。
土とのふれあいやきもの館
やきもの館には、温泉津焼の歴史、展示コーナー、温泉津と温泉津焼の歴史と作陶の行程を説明するビデオルーム、温泉津焼展示室、そして創作体験室があって温泉津焼のすべてを紹介しています。
 
温泉津温泉(温泉津町)
江戸時代の町並みを色濃く残す素朴なたたずまいの風情あふれる湯どころ。そぞろ歩けば、まるでタイムトリップしたような気分が味わえ、味の方では天然の良港温泉津港で水揚げされるブリやタイの活造り、温泉津自慢のアンコウ鍋を存分にお楽しみ頂けます。
 
元湯
 
藤乃湯
港の祭は勇壮で、荒神様も上機嫌(温泉津町)
8月7日に行われる恒例の温泉津温泉夏祭は、港を舞台に子供みこしや花火大会、漁り火行進など多彩な催しが繰り広げられ、観光客と地元住民がふれあいを深めています。
毎年2月14日、温泉津町小浜の厳島神社では、伝統ある御日待祭が行われます。小浜の大火事を治めたといわれる白鷺の伝説に由来する火祭で、火の神様はむかし、浜にいた五人兄弟の末弟の五朗の王子。らんぼうものの荒神様、五朗の王子にちなみ、祭では各家から薪を持ち寄り、夜通し火をたき、「寝たら起こせ王子や王子、五朗の王子」と叫びながら、青年達が町を練り歩き神社まで道中するという行事。厳島神社の境内の火は、一年間の安全を祈って翌朝まで燃やし続けられます。
旧庄屋屋敷(温泉津町)
人口五万人を数えた当時は、全国各地から五百石、千石の北前船が集まり、回船問屋や旅寵、酒屋が軒を連ねるほどの繁栄をみました。その名残を今に残すのが「船番所跡」や「豪商屋敷」。外塁のなまこ壁や玄関の縄のれん、屋内の梁り組などが華やかな往時を偲ばせます。現在は屋敷内に資料館がつくられ、温泉津の歴史をかいま見ることができ、抹茶を頂くこともできるようになっています。
 
安楽寺(温泉津町)

また、温泉津駅の近くには昭和の妙好人といわれる浅原才市にゆがりの深い安楽寺があります。境内入口に才市の法悦句を刻んだ碑があり、数々の遺品も保存される。毎年六月五・六日に顕彰法要が行われる。

 
銀山街道(温泉津町)

温泉津から大森へ通じる銀山街道には数々の史跡や城跡が点在します。現在は中国自然遊歩道となり多くのハイキング客で賑わっています。

 
かなびしゃくの井戸(温泉津町)
銀山街道は清水地区に今も残る名水で、江戸時代の代官様が、あまりの美しさに当時貴重な金びしゃくを置いたとい引云説を持つ。現在、島根名水百選の−つに選ばれている。
 
野口雨情詩碑
大正から昭和にかけ−世を風摩した歌人、野口雨情は昭和十八年に温泉津を訪れ「温泉津小唄」を残している。温泉津湾のほとりにその詩碑が建ちも風情を醸し出す。
 
《 石見銀山物語 》
 
石見銀山…ひそやかな時間の流れ、かつて銀とともに歩んだ大森町並みは数百年前の記憶を今にとどめている !

かって世界にその名をとどろかせた石見銀山は、現代に数多くの文化遺産を伝えています。そして、そのほとんどは地域住民の努力によって極めて良く保存されています。
石見銀山に関する文化財には銀を産出した鉱山遺跡の部分と、その銀山を背景に江戸時代を通じて石見銀山御料約百五十力村の政治経済の中核にあった大森の町並みの二つがあります。この町並み、大田市大森町の大森区域と銀山区域は、昭和62年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
『石見国銀山旧記』にいわく「就中慶長の頃より寛永年中の大盛、士稼ぎの人数20万人、一日米穀を費やすこと千五百石余、車馬の往来昼夜をいはず、家は家の上に建、軒は軒の下に連れり」また「家数二万六千余、寺百ケ寺程も有之」。この記述はもちろん誇張がありますが、しかし、現在の大森町からは想像ができないくらい最盛期には華やかでした。今、かつての繁栄は草木に埋もれ地中深く眠っています。大田市の市街地 から大森町に入ると、その玄関部分に代官所跡があります。代官所跡は大森の町並みの北側に位置しており、現存するのは表門と門長屋で、昭和44年に国指定史跡になりました。
大森の町並みは、江戸時代に入ってから形成されたもので、代官所の近隣に中間、小者長屋や上層の武家の住宅が立ち並んでいました。通りに入って行くと代官所御用達を勤めた商家、武家住宅や江戸時代に行政機構の一部であった郷宿、明泊時代に建てられた郵便局、裁判所など各時代の様子をさまざまな形でわれわれに見せてくれます。武家住宅と町家が混在していることがこの町並みの特徴ですが、主屋を通りから奥に配置し、その間に土塀や庭を配置するのが武家住宅、通りに面して主屋を設けているのが町屋であって、その中でも間口が広い建物や土蔵と主屋を通りに面したものは比較的経済力のあった人たちが建てた町屋といえます。通りから枝分かれしている小道は町並みの外側に建つ寺社に通じていて、銀山川と交差している道には大音寺橋、京伝寺橋など寺院にかかわる名前の木橋が架かっています。地元運営による石見銀山資料館では採掘から銀の精錬までの様相をわかりやすく展示したり、銀山関係史料を展示するなど地域にとって大切な文化遺産の保護と活用が図られています。

石見銀山物語…人口20万、寺院百カ所寺と伝えられ、江戸幕府を支えた天領・石見銀山 !

中世から近世にかけ、日本第一の銀山として姿を現す石見銀山(大田市大森町)は、筑前博多の回船問屋、神屋寿貞(かみやじゅてい)が大永6年(1526)1月、邁摩郡仁摩町宅野の韓島(からしま)の沖を航行中、南の空に立つ仙の山(537.5メートル)が輝いているのを眺め、銀を含む山と直感し、本格的な開発に入ったのが、その始まりだと伝えられています。寿貞は簸川郡鷺浦の銅山主、三島清右衛門らとともに、この年の3月に周防の守護職、大内義興の武力を背景に入山します。仙の山は東側が銀、西側が銅を埋蔵する地域で、主な鉱脈は東西に近い方向で走り、銀の鉱脈は「福石鉱床」といい、寿貞が日本海から望見したのはこの区域でした。
天文2年(1533)8月、南朝鮮から「灰吹」と呼ばれる進んだ冶金技術が入ってきます。鉱石に熟を加え鉛と銀の合金を造り、これをわらに包んで焼き立てて鉛を灰に吸収させ銀を取り出す方法で、これにより銀山は素晴らしい大増産の時代を迎えます。このころ銀山の谷に人家が一万三千戸あったことから、純銀が五百貫(二千キロ前後)くらい生産されていたと推定されます。やがて灰吹法は全国各地の鉱山に伝えられ、日本は空前の金銀増産の時代に入ります。
宝の山を中国路の武将が見逃すはずがなく、享禄4年(1531)2月、邑智郡川下の温湯城主、小笠原長隆が攻め、大内氏が取り返すと尼子氏が銀山を狙い、大内氏が陶晴賢の謀叛で滅ぶと、安芸・吉田の毛利元就と尼子氏の争いになります。銀山攻防戦の中心は、仙の山と谷を隔てた山吹山城(416メートル)でした。永禄5年(1562)6月、山吹山が毛利氏の攻撃で開城となるまで、30年余り、8回の占領と落城が繰り返されました。
銀の採掘は争乱の中でも続きますが、応仁の乱(1467〜)で皇室の経済が衰え、即位の式が上げられないでいた後奈良天皇(105代)に大内義隆が、正親町天皇(106代)に毛利元就が、石見銀山領有の財力で、即位式の費用を献じています。特に毛利元就が永禄2年(1559)に献じた、純銀の貨幣千枚(一枚四十一匁五厘)は、正月の飾りにする「譲葉」の形に鋳造してありましたが、後に豊臣秀吉や徳川家康が譲葉の形の優美さが気に入って、文禄丁銀慶長丁銀をこのスタイルで造ったのは、銀山とかかわりのある話として興味の尽きないところです。
銀山は豊臣秀吉の中国地方進出とともに、天正13年(1585)から秀吉と毛利輝元の共同管理となります。
このころの国内の金銀増産は海外貿易に変化をもたらし、世界の産銀40万キロに対し日本が輸出する銀は約16万キロに上り、その主力は石見銀山だったといわれています。
慶長5年(1600)9月15日の関ケ原の戦いの後、徳川家康は毛利輝元の支配地の石見銀山へ素早い進出を図り、11月には彦坂元正と大久保十兵衛(後の石見守)を銀山に送り込み毛利から譲渡を受けた後、大久保十兵衛が初代奉行として支配に乗り出します。石見銀山御料(後に天領)の範囲は東は島津屋(大田市朝山町)、西は江津、南は酒谷(邑智町)、北は仁万までで、飛び地が美濃郡と鹿足郡内にありました。慶応2年(1866)7月まで延266年間、幕府の直接支配が行われ、その間にいろいろな変動がありますが、文政2年(1819)の村高調べを見ますと、百五十三力村、四万八千八百二十九石、備後の上下地方の一万二千石も治め、上下には出張陣屋を置いたりしています。歴代の奉行、代官は奉行8人(ほかに預り一人)代官39人(預り十一人)で、当時の代官所は現在、石見銀山資料館となっています。
銀山の最盛期は慶長8年(1604)から寛永(1624〜)の初めまでで、銀山は後に銅が主流の鉱山に変わっていきます。大久保十兵衛が備中早島の人、安原傅兵衛とのコンビで拓いた釜屋間歩(かまやまぶ)は歴史的な大鉱脈で、幕府に納めた運上(税)はこの鉱区だけで三千六百貫(14トン)といいます。慶長8年(1604)8月1日、伏見城に傅兵衛を招いた徳川家康は「備中」の称号を与えたり、自分の着ていた辻ケ花染道服(重要文化財)と陣扇を授け功績を賞しました。このころの銀山を人口20万、寺院百力寺というふうに古文書は伝えています。
銀山の運上銀は毎年11月中旬に中国山脈を越える陸路を尾道まで積み出し、海路は瀬戸内海を大坂へ運びましたが、輸送労力を割り当てられた農村の人たちは長く苦しみました。
歴代の代官で、今も人々の心に刻まれているのは、芋代官井戸平左衛門のほかに川崎平右衛門がいます。宝暦12年(1762)に着任した平右衛門は財政が頭打ちの幕府における新しい産業政策の期待の一人でした。銀山領では波根湖(安濃郡波根西村)を埋め立てる新田造りや、元禄年間に代官後藤覚右衛門が手を付けていた鉱脈に新しい探鉱を進め、灰吹銀を例年の3倍の二百貫(八百キロ)に増産の成功を収めました。
銀山は幕末になるとすっかり衰えます。坑内の空気の汚れから「けだえ」(気絶え)という鉱山病が続出し、働く人が激減したためで、困り果てた代官所に招かれた備中笠岡の医師、宮太柱(みやたちゅう)は安政2年(1855)8月から2年間、鉱山に滞在して研究を重ね坑内浄化のため大型通風機を考案し、鉱山病に効能がある漢方薬を煮立てて、坑内の送風に蒸気を加える工夫をするなど、坑夫の健康に大きく貢献しました。
慶応2年(1866)7月、長州軍が大森に進駐し、天領は終蔦を告げますが、銀山が名実共に閉山となるのは大正12年です。

井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)…享保の大飢饉から石見の人々を救い"芋代官"と慕われた大森代官

石見各地の旧道のほとりや寺院の境内などに「井明府之碑(いみょうふのひ)」とか「泰雲院殿義岳良忠居士(たいうんいんぎがくりょうちゅうこじ」などと刻まれた石碑をよく見かけます。江戸時代の享保年間(1716〜36)第19代大森代官として、石見の人々を飢えから救うことに命をかけた井戸平左衛門正明に対する村人たちの報恩感謝の誠を表わした頌徳碑です。
平左衛門が大森代官として江戸から石見国に着任したのは、享保16年(1721)ごろでした。当時石見国は連続する凶作で農村は極度に荒廃していました。平左衛門一行が出雲国赤名峠を越えて石見銀山領に入った時、国境の酒谷口(邑智町)まで出迎えた銀山領村々の庄屋たちは、口々に石見の惨状を訴え救済を願い出ました。平左衛門は大森に着任すると長旅の疲れを癒す間もなく村々を巡回し、聞きしに勝る惨状を実地に見聞し、石見の人々を救う根本的な手立てはないかと、日夜心を痛めていました。
翌享保17年、養父の命日にあたる4月15日、平左衛門は大森の栄泉寺で追善供養の法要を営み、そこに居合わせた諸国行脚の僧春永から「琉球芋のおかげで薩摩国ではどんなひどい凶作でも餓死する者はない。この芋はどんなやせ地でも育つ」という話を聞き、平左衛門はこれこそ日夜求めてやまなかった石見の救済策と、即座に琉球芋の導入を決意しました。
平左衛門がどのような手段で琉球芋(薩摩芋・甘藷)を入手したのかは不明ですが、6月の中ごろ待望の種芋百斤(約60キロ)ほどが大森に到着しました。平左衛門はこの種芋に大きな期待と祈りを込めて、海辺の村々へ石高百石につき八個の割合で配布し試作させました。しかし、6月も半ばを過ぎ(現7月末)既に時期外れであったことと、何よりも栽培法に不案内であったため大方は失敗に終わりましたが、今の温泉津町釜ノ浦の一老農の試作が成功し辛うじて種芋を残すことができました。このわずかな種芋からやがて銀山領ばかりでなく、海岸の砂地にも山間の山畑へも甘藷のつるはたくましく伸びて行きました。
その享保17年は春から夏にかけての長雨と低温に続き、高温暑熱という異常気象でウンカやイナゴが大発生し、稲作は徹底的な打撃を受けました。特に西日本で披害が大きく、失われた稲四百万石、餓死する者19万9千とも30万ともいわれる未曽有の大ききんに襲われました。連年の凶作に追い打ちを掛けられた石見地方の状態は、まさに想像に絶するものでした。
平左衛門は早速幕府に状況を報告し対策について指示を仰ぎましたが、もはや猶予はなく人々が日に日に飢えて行く中で苦悩の選択に迫られました。平左衛門は官米を放出して飢えに苦しむ人々を救い、また年貢徴収も思い切った減免を断行することを決意しました。波根東村、鳥井村、黒松村などに残された享保17年の年貢割付状は「当子虫付皆無引(とうねむしつきかいむびき」「此取米(とりまい)なし」と田方の年貢は全免となっています。どの村も上納米零にはなりませんでしたが、この年の村々の年貢割付状は、被害の激甚さを物語るとともに、代官井戸平左衛門の適切な施政をよく示してします。こうした果断な施策によって、一人の餓死者も出すことなくこの大ききんを切り抜けることができたのでした。
翌18年は気候も順調でようやく回復の兆しが見えるようでした。しかし、歳既に60を越えた平左衛門は、一年有半にわたる寝食を忘れての奔走に心身共に極度に衰弱していました。享保18年5月26日、代官井戸平左衛門正明は備中笠岡の陣屋で62歳の厳しい生涯を閉じました。
平左衛門の死後、石見地方は何回か大凶作に襲われました。その都度石見の人々は甘藷によって命を救われ、今更のように平左衛門の恩徳に感謝の念を捧げたのでした。村々では報恩の碑を建て、甘藷の収穫に合わせ井戸公の命日に当る10月26日(旧)前後、各地で芋法座、芋法事を営み、改めて芋代官に感謝の誠を捧げたのでした。
井戸平左衛門正明没後百二十年ほど経た安政元年(1854)渡津村から「井戸様献金」として金十両が江戸へ送られました。その前の年には馬路村から献金があったということです。こうした形で報恩の志を表している例は全国でもほかに見ることはありません。井戸平左衛門は石見の人々の心の中に永遠に生き続けていたのでした。
井戸平左衛門頌徳碑の正確な数はまだ調査されていませんが、石見部を中心として東は弓浜半島や隠岐から、西は日原町に至るまでその数は三百基を超えるものと思われます。

  
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