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文豪小泉八雲が愛した水の都松江市。東に中海、西に夕日が美しい宍道湖、松江城の周りには堀川が走り、いたるところで水の風景に出会えます。城下町として栄え、数多くの文化遺産が今も残り、国際文化観光都市に指定。  
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松江市観光文化振興課(島根県松江市末次町86)Tel.0852-55-5214・Fax.0852-55-5564
松江観光協会(島根県松江市中原町19)Tel.0852-27-5843・Fax.0852-26-6869
松江商工会議所(島根県松江市母衣町55-4)Tel.0852-23-1616・ Fax. 0852-23-1656
 

松江市観光ガイド

 
出雲は美しい穏やかな土地です。

北側には東西65キロメートルの島根半島が長々と横たわって日本海の風涛を防ぎ、南側には重畳たる中国山脈が1000メートル級の高峰を連ねて走り、それらに抱かれた出雲はまるで箱庭のようなこじんまりとした世界です。

宍道湖と中海の二つの湖水はアップリケのように出雲の風情を引き立たせています。

静かな空の下で、雲は人の心を追い掛けながら去来します。

益田出身の作家田畑修一郎は湖水の風景を見ながら。

雲は多いばかりでなく美しい。

(略)いつとはなしに、雲を見ては水を眺め、水を見ては雲の方に目をやったりした。

(略)私には、この水と空と雲とのつくり出す或る微妙なたゆたひが、あらゆる出雲的な性格に反映しているように思われる。

志賀直哉『濠端(ほりばた)の住まひ)』より

ひと夏、山陰松江に暮した事がある。

(略)私は此処で出来るだけ簡素な暮しをした。

人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。

虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮しだった。

こう記した志賀直哉が友人里見と三カ月余り滞在したのは、大正3年の夏のことでした。

直哉32歳、里見27歳でした。直哉はそのころ、孤独と不安な精神状態にありましたし、里見も恋愛問題で苦しんでいました。

里見『在る年の初夏に』より

二人は松江の宿を拠点に、よく近郊を歩きました。

旧い神話の舞台である土地は、私たちにも忘れられない美しい印象を残した。

と書いています。

芥川龍之介が失恋の痛手を癒すため、友人井川(恒藤)恭の招きで松江を訪れたのは、大正4年のことでした。

彼は滞在中、地元の松陽新報に松江の印象記を投稿しました。

芥川龍之介『松江印象記』より

松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持っている。

椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでいる濠の水から、(略)滑らかな硝子板のような光沢のあり、どことなくLIFELIKEな湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら、(略)絶えず懶(ものう)い呟(つぶや)きを此処に住む人間の耳に伝えつつあるのである。

渡辺淳一も『みずうみ紀行』で書いています。

宍道湖ほど(略)自然のおおらかさをたたえている湖はない。

宍道湖には原色のけばけばしさはありません。

その周りの山々も、松江の町並みも淡い色に包まれ、落ち着いた静けさが感じられます。

こうした風景を、

五木寛之『地図のない旅』より

松江は永遠に静かな、すんだ町なのだろう。

立原道造『長崎ノート』より

しづかだ、だが、そのしづかさは眠ってゐるしづかさだ。

と書いています。

しかし、穏やかに広がる湖水の光と影、家並みを水面に映し出す風情の中にかすかにきらめくものが潜み、旅人の郷愁を誘っています。

二葉亭四迷の心に文学的なものを芽生えさせたのは、少年期を過ごした松江の風土でした。

また多くの作家、詩人が松江の風景を求めて訪れました。

昭和2年、島崎藤村は次男鶏二と訪れました。

10日余り山陰を旅した藤村はこの町が大変気に入っていっそ松江の人にでもなってしまおうか『山陰土産』と冗談を飛ばすほどでした。

その3年後、与謝野鉄幹、晶子夫妻が松江に遊びました。

幼児期を大社で過ごした阿部知二は『宍道湖のほとり』でこう記しています

出雲の印象は、私にとっては宍道湖の中心として心にあらわれてくる。

(略)温和な、親しみやすい、一見平凡ともいえそうな、しかし繊細で陰影がゆたかで、どことなく夢幻的なものを感じさせる。

その宍道湖が温和な姿をかなぐり捨てる一瞬があるのです。それは夕陽に映える湖です。

宍道湖に於て見るペきものはただ一つしか無い。壮麗なる落日のけしきである。

『諸国畸人伝−小林如泥』と書いた石川淳だけでなく、夕陽の美しさを描いた文人は少なくありません。

田山花袋『山水小記』、駒田信二『湖と私』、尾崎士郎『雷電』、岡本太郎『日本再発見』など数え切れないほどの文人たちが、神秘的な情景に見せられたのでした。

大正2年暮れから、二年余り出雲今市に住んだ詩人の田中冬二の詩集『青い夜道』に「松江」という詩があります。

「秋になった 湖水の鱸の美味しいころとなった 秋の星座をうつしたしづかな湖水に 鱸はかなしくも美味になっていった」

宍道湖は四季折々の味覚を楽しませてくれます。

鱸が悲しくもおいしくなるころ、白魚捕りの漁火が湖面にきらめき、長い冬ごもりに入ります。

出雲は茶どころです。

安来出身の陶芸家河井寛次郎は次のようにいっています。

出雲の冬は、炬燵とぽてぽて茶で明けくれた

薄茶がこの町の暮らしの中に立てられ出したのは何時頃であったろう。

朝10時頃になると家人はみな座敷に集まって、火鉢か炬燵の横に短冊形の茶箱を置いて母親たちが立てました。

江戸時代、民家にとって無縁であった不昧の茶の湯は、知らず知らずの間に民衆に受容されていったのです。

そして、陶器、漆器、工芸、和菓子、料理などの茶道文化は、民衆に見守られて育ちました。

『神々の国の首都─松江』と、日本人の気付かなかった音に聞き入って、知られぬ日本の面影を求めたのは小泉八雲でした。

からころと下駄の音が、漸次高く響いてくる。

大橋の上で下駄の鳴る音は、何うしても忘れられない。

彼は明治23年(1980)はるばる長い旅をして松江にやって来ました。

孤独な八雲の心に出雲の自然と文化、そして人々がどれほど慰めとなったか、はかり知れません。

開高健もいっています。

この町へくるには濁りに濁り、疲れに疲れしたうえでのほうがいいのではあるまいかと思われる。

 
 
宍道湖
 
松江を語るとき、第一に挙げられるのは宍道湖です。

この潮の魅力は四季を通じてそれぞれの雰囲気を醸し出す美しさにあります。

春のかすみにもやる潮。夏ははるか山並みにわき出る雲ときらめく潮。

秋の夕陽に照り映え一面深紅に染まる潮。

冬は薄墨色の空の下、灰色の水面に白い波頭が踊り、時には雪降りしきる潮。

春夏秋冬の自然の中で変幻する宍道湖です。

一日中、潮のほとりで見続ける宍道湖も時問とともに変わり、見飽きることのない不思議さを持っています。

その中でも何よりほかを圧して美しいのは落日の一瞬です。

太陽が一日を終え、ゆっくりと没して夜のとばりと交代して行く様を、刻々と眼にしていくことのできる潮はほかにはないでしょう。

ゆっくりと沈んでいくその時、夕陽は神秘的なまでに神々しく松江の街を包み込んでいるのです。

松江はその郊外に、古代出雲の息吹を今に伝えています。

古代に意宇(おう)の里で暮らす人々も都から来た宮人たちも、恐らくこの美しい自然の織り成す綾を見たことでしょう。

そして今は太陽が沈み切った湖面に湖岸のネオンが映え、揺らぐ夜景の美が加わっています。

 
 
宍道湖夕映見ごろ時間
 
季節によって夕映えの時間が違うので、グラフで確認して下さい。

「ぐるっと松江レイクライン」や宍道湖遊覧船にも夕日コースが設定されています。

 
宍道湖夕映スポット…松江市袖師付近
 
松江市の西にひろがる周囲45kmの湖。

夕日が美しいことで全国的にも有名で「夕日百選」に選定されている。

国道9号の湖畔沿い(松江市袖師町)には「宍道湖夕日スポット」が整備され、階段状テラスや遊歩道、駐車場などがある。

また湖畔の島根県立美術館は、閉館が日没時刻の30分後まで延長されるほか、夕日と一緒に食事も楽しむことができる。

 
嫁ヶ島(よめがしま)
 

宍道湖の東端、松江市嫁島町の国道9号線から約200m沖合いに浮かぶ宍道湖唯一の島である。

東西に長く、全長110m、幅約30m、周周240m、の扁平な島で、面積およそ2,657平方メートル。

島の西側に弁天さまを祀る竹生島(ちくぶじま)神社の小祠があり、束端に鳥居もあって、30本ばかりの磯馴れ松が風情をそえる。

昔はもっと少なかったが、昭和の初め松江出身の政治家・若槻禮次郎が苗木を寄贈し賑やかになった。

奈良時代にできた『出雲国風土記』には蚊(か)島とあり、いつのころからか、これに可憐な嫁島の字があてられ、悲運の若妻の伝説も生まれて、嫁ケ島の呼び名になったのではないかと見られる。

第三紀中新世の火山活動によって噴出した玄武岩を基盤とし、南方の円成寺山、床凡山、茶臼山などと成因は同じである。

島の一角には松江地方の漢詩人の結社 剪淞詩社(せんしょうぎんしゃ)が、島の西端弁財天祠の後に建てた永阪セキタイの詩碑もある。

安来節はじめ数々の民謡にも唄われる島だが、ここを点景とした夕景は特にすばらしく、ラフカディオ・ハーンも暇さえあれば、浜乃木のそば屋に人力車を走らせて、このあたりの宍道湖の残照をあかず見入ったという。

 
嫁ケ島の伝説
 

昔、姑にいじめられた哀れな嫁が、あまりの辛さに堪えかねて里帰りをした。

その時に近道をしようと氷の張り詰めた湖上を、寒さに震えながら渡っていった。

嫁は、実家へ余程早く帰りたかったのか、急ぐあまり氷の溶けかかった上を歩いてしまった。

そのため氷が割れ、あっという間に、深い宍道湖の中へと吸い込まれ、溺れ死んでしまったのである。

この様子を宍道湖に住む神さまが見ていた。神さまは、嫁があまりに哀れなので、松江城下の燈が見えるところに、嫁のなきがらと共に、一夜のうちに島を浮かび上がらせたと伝えられている。

 
 
松江開府 ・松江城
 
慶長5年(1600)9月、関ケ原の合戦の後、遠江国浜松から出雲・隠岐両国24万石の大名として堀尾忠氏と父吉晴が富田城に入ったのは、同年11月のことでした。

近世大名の新領主として堀尾父子が直面したのは、富田の地が領国支配を行う城下町としてふさわしくないという現実でした。

日本史上、城下町は中世(14世紀ころ)から見られるのですが、中世の城は大体軍事的な山城で、城下町はその山麓に自然発生的にできたものでした。

しかし、豊臣政権下で行われた太閤検地とそれに伴う刀狩などの政策によって、兵農分離・農商工分離が実施され、武士階級をすべて城下に集め、城と家臣の居住が一体となり、さらに商人・職人を城下に吸収して経済活動も把握する町づくりが求められる時代になっていました。

富田の地は出雲の東部に偏っており、飯梨川がつくる平野は開けているといっても狭長です。

交通運輸の便も陸上を頼らざるを得ない山間地であり、24万石の家臣団とその家族を居住させるには狭い所だったのです。

さらに鉄砲伝来以来、変化した戦闘において、富田城は向山の京羅木山から見下ろす山になり、軍事的にも時代遅れの城となっていました。

堀尾父子は領国支配のために、出雲の中心に近く城下が広く取れ、海上輸送の便もある宍道湖岸の地に新城地を求めたのです。

二人は、宍道湖東岸の乃木村元山(床凡山)から北の山々を眺望し、城地選定をしたといわれます。

吉晴は洗合山を適地とし、忠氏は亀田山を主張しました。忠氏は亀田山は28.4メートルの丘陵で、南は川と湖があり、東西は深田や沼沢地で道も狭く、敵が来ても向城は造られず、北は白鹿城の古城があり、ここに遠見番を置けば堅固な城になるといい、洗合山は山が大きく50万石以上の知行がないと維持できないという意見でした。

吉晴は亀田山は小さくて平城のように見えると思い、結論を出さなかったのですが、しばらくして忠氏が慶長9年(1604)28歳の若さで急死したため、忠氏の遺志を継いで亀田山に城を築くことにしたのです。

築城は幕府の許可を慶長8年(1603)に得ていたのですが、工事の準備や、検地を行って資金の調達をすることに四年間が費やされたようで、慶長12年に着工、完成したのが慶長16年で、足かけ五年の歳月をかけた大工事が行われました。

吉晴は当時「普請上手」といわれた人物で、土木工事の名手として知られた家臣を抱え、石工、大工、泥工、かわら工などは、大阪築城の経験者を招いたといわれますし、加えて縄張り(設計と施工指揮)をしたのが、軍学、歴史、易学にも通じ『太閤記』の著者としても有名な侍医小瀬甫庵(おぜほあん)でした。

築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。

末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。

しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。

工事の初年度は資材運搬のための幹線道路を確保するため、大穂川に架かっていた「カラカラ橋」と呼ばれた橋(大橋)を本棟に架け直し、道路整備と架橋に並行して、侍屋敷の殿町、母衣町、内申原町の造成と、城郭の地ならしが成されました。

二年度は本丸の石垣、天守閣の土台石垣、間の宇賀山を切り崩し、内堀工事にかかり、この時亀田山と赤山の塩見縄手の大濠を造り、その土で南田町、北田町、中原の入江や沼沢地を埋め立て、屋敷地ができました。石垣は大海崎矢田、嫁ケ畠「川津、大井などから運ばれた石でした。

三、四年度にかけて、天守閣、二の丸御殿が完成し、五年度に総仕上げをして、侍屋敷、町人町も完成し、家臣、町人、寺院の移住が逐次始まったのです。

千鳥城と呼ばれる天守閣は高さ30メートル、外観は五層で、石垣内部に地階があるので内部は六階、最上階には遠見櫓があり、現存する唯一の望楼式天守閣です。

前面に一重の付櫓があり、下見黒板張りで白壁が少なく、壁面に隠狭間が95カ所もあります。

石落しも多くあり、地階は籠城用の貯蔵庫になっていて、井戸も掘ってある実践的な城です。安土桃山時代の様式を伝える、城郭建築の上で極めて重要な城として、国指定の重要文化財になっています。

城下町としての形態も、城の周りの内堀、外堀、上級、下級の家臣を分けた屋敷割り配置、職種ごとに集合させた町家の取り方、巧妙な工夫のされた寺院配置、町のあちこちに見られる十字路、鈎型路、袋小路に、複雑に屈折した狭い道路、堀や川に大小40余りの橋が架けられていることなど安定したとはいえ、軍事的脅威のまだ冷めぬ当時を反映した、戦略面に力点を置いた町づくりがされています。

その形態は京極氏、松平氏と続く中でもさほど変化はなく、基本的に堀尾普請でつくり上げられた町の姿を踏襲し続け今日に至っているといわれています。

近代、現代には戦火を浴びることもなく、松江は市中至る所に城下町の名残をとどめ、創建当時の姿を伝える千鳥城とともに、貴重な城郭都市であり、文化と観光都市です。

[本丸開門時間]4月1日から9月30日 午前7時〜午後7時30分 10月1日から3月31日 午前8時30分〜午後5時[登閣時間]4月1日から9月30日 午前8時30分〜午後6時30分(登閣受付は午後6時まで)10月1日から3月31日 午前8時30分〜午後5時 (登閣受付は午後4時30分まで)[年中無休][お問合せ先]松江城山公園管理事務所 〒690-0887 松江市殿町1番地5 TEL.0852-21-4030・FAX.0852-21-4211[松江観光協会]〒690-0874 島根県松江市中原町19 TEL.0852-27-5843 FAX.0852-26-6869 [松江市観光文化振興課]〒690-8540 島根県松江市末次町86 TEL.0852-55-5214 FAX.0852-55-5564

 
松江郷土館(興雲閣)
 
明治時代の白亜の洋館で、和風の意匠を随所に取り入れ、見事に調和しています。

歴史・民俗資料・工芸晶など郷土資料が展示されています。

[問]0852-22-3958[開館時間]8:30〜16:40[休み]無休[無料]特別展は有料[交通]松江駅からレークラインで9分、松江城大手前下車徒歩4分[駐車場]P市営城山西駐車場利用[場所]松江市殿町1-59

 
 
水郷松江と堀川めぐり
 
松江藩の家老であった乙部家に代々伝わる城下絵図があります。

松江城から主要な場所までの距離が朱書きされています。

この古地図からは、当時の堀川の姿や町割りなどを知ることができ、貴重な資料といえます。

堀川は城をとり囲むように作られ、松江城が守備の要として水を積極的に取り入れていたことがわかります。

江戸時代に築かれた石垣も当時の佇まいを偲ばせます。

1997年には「ぐるっと松江堀川めぐり」が始まり、年間20万人から30万人もの人が訪れる松江市の観光の新名所となっています。

堀川の水は宍道湖と連なる水門によって管理され適切な水量が保たれるようになりました。

堀川めぐりは水都松江創造にとって大きな役割を果たしています。

[問]堀川遊覧船管理事務所(0852-27-0417)[時刻表]9:00〜季節により異なる(15分間隔)、12月〜2月は10:00〜15:00(20分間隔)[休み]無休[料金]1200円[アクセス]乗船場の松江堀川広場へは、松江駅からレークラインデ26分、堀川遊覧船下車すぐ[駐車場]城山西駐車場利用(遊覧船利用者は2時間無料)

 
 
塩見縄手
 
松江城の内堀を隔てた北側に弓なりに延びる通りは「塩見縄手」と呼ばれ、小泉八雲旧居をはじめとする武家屋敷が並んでいます。

歩道の脇の老松が堀に影を映し、城下町の面影を最も色濃く残す一角です。

[交通]松江駅からレークラインで24分、塩見縄手下車すぐ[駐車場]城山西駐車場利用(有料)[場所]松江市北堀町

 
 
武家屋敷
 
この武家屋敷は、江戸時代初期から松江藩の六百石程度の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替り住んだところです。

現在のこの屋敷は、1733年(享保18年)の大火で焼失後再建されたもので、約275年前の古い姿のままよく保存され、松江市の文稚財に指定されています。

人口の長屋門(ながやもん)は、武家屋敷の特徴のひとつで、中間(ちゅうげん)(武家奉公人)の住居としても使われていました。

母屋(おもや)はおよそ70坪で、表側の式台玄関から座敷にいたる部分と、裏側の私生活の部分とは、造りも材料もとくに区別をして、武家の公私の別のきびしさを示しています。

正面の入口は内玄関で、ここは家族などの私用に使う出人口です。

つぎに続く十畳の座敷は邸内で最も立派な部屋で、客は式台玄関から上がり、床には香をたき、床脇には鎧、兜などを飾りました。

座敷の前から裏側に続く庭園は、飾りをはぷいた素朴なつくりで、自然を生かした質実剛健の気風が、つかがえます。

屋敷の裏側にまわると家族の部屋があり、天井も低く造りもいよいよ質素になって、井戸・湯殿・台所などもご覧になると、当時のつつましい生活がしのばれ、現在の休憩所も、かつてあった味噌部屋を想定して、再建したものです。

この屋敷のような中級武士の住んだ建物が、当時のまま保存されているのは、全国的にも貴重なものといえます。

[開館時間]4月1日から9月30日 午前8時30分〜午後6時30分(入館受付は午後6時10分まで)10月1日から3月31日 午前8時30分〜午後5時(入館受付は午後4時40分まで)[休み]年中無休[お問合せ先] NOP法人松江ツーリズム研究会 〒690-0888 松江市北堀町塩見縄手町305 TEL.0852-22-2243・FAX.0852-22-2343

 
 
小泉八雲旧居
 
1890年小泉八雲は島根県尋常中学校の講師として赴任、その後1年3カ月松江で暮らすことになりました。

八雲は彼の身の回りの世話をしていた小泉セツと結婚し日本に帰化します。

やがて子供をもうけました。

八雲は日本に伝わる怪談の数々に興味を引かれました。

なかでも耳無し芳一の話は有名です。

6代藩主松平宗衍壽蔵碑は松平家菩提寺月照寺にあり、この大きな亀が夜な夜な松江の町に出て歩き回ったという話に、八雲は深い関心を持ちました。

八雲が使った机です。目の悪かった八雲はこの机に覆いかぶさるようにして筆を執り、鬼気迫る勢いでペンを走らせたと妻のセツは述懐しています。

八雲は古色ゆかしい城下町から世界に向けて日本の文化を紹介しました。

いま新ためて八雲を通して日本の文化について考える機会を与えられます。

[営業時間]3月1日から11月31日 午前9時〜午後4時40分 12月1日から2月30日 午前時〜午後4時30分 [定休日]年末年始 12月16日〜12月29に地・1月1日[個人]大人…350円 小人…180円[団体](20名以上)大人…280円 小人…140円[交通]JR松江駅からバス15分、小泉八雲記念館前下車[問]島根県松江市北堀町315 TEL.0852-23-0714・FAX.0852-28-2021

 
小泉八雲記念館
 
明治23年8月に松江中学の英語教師として来校した小泉八雲は、熊本に転任するまでの1年2カ月あまりを松江で過ごしました。

小泉八雲旧居は享保年間(約200年前)に士族の屋敷として建てられたもので、三方を庭で固まれた平屋建瓦葺の家です。

八雲は旧松江藩士の娘セツと結婚後ここに住み、取材をかねて出雲地方各地を訪ね歩いて多くの著作を書きました。

旧居に隣接する土蔵造りの小泉八雲記念館には、文机やランプ、トランク、ペン皿など八雲の愛用品、遺品を中心に約600点が展示されています。

[問]0852-21-2147(小泉八雲記念館)[営業時間]8:30〜16:40(8・9月は18:30まで)[休み]無休[料金]300円[交通]松江駅からレイクラインで26分、小泉八雲記念館前下車、徒歩1分[駐車場]市営城山西駐車場利用

 
 
明々庵
 
中柱のない本席、向切りの炉など随所に不昧公の好みが生かされた茅葺きの入母屋造の茶室です。

ここからは松江城が眺められるうえ、隣接する百草亭で抹茶をいただくこともできます。

[問]明々庵(0852-21-9863)[休み]無休[料金]200円、抹茶350円(和菓子付)[交通]松江駅からレークラインで24分、塩見縄手下車、徒歩4分[駐車場]10台[場所]松江市北堀町278

 
松平治郷(まつだいらはるさと)不昧公(ふまいこう)
 
7代藩主だった不昧は、茶の町松江のルーツともいうぺき人で「不昧公好み」とか「不昧さんのころ」という言葉が今も町には生きています。

お茶をたしなみ古今の名器を集め、ついに茶道不昧流を興した風流殿様で、お茶事にちなむお菓子や懐石にちなんだ名物料理が次々に生まれました。

そして散逸し消滅しやすい美術工芸品を守ってその美を評価し、技術者を保護し領内の工芸に息吹を与えた不昧の業績は、今日の松江文化の素地をつくることになったのです。

「菅田庵」「向月亭」「明々庵」の茶室、陶器の「楽山焼」「布志名焼」は今も残っていますし、指物・彫刻・建築に非凡な才を発挿した小林如泥(じょでい)を保護し、漆工の小島漆壷斎(しっこさい)、蒔絵師勝軍木庵(ぬるであん)も不昧によって活かされた人たちです。

城下町としての品と潤いと落ち着きを創り上げた松江の町はそれを伝統的に保ち続けています。

薄茶・煎茶を頻繁に飲む松江人ですが、お茶に欠かせぬお菓子は「不昧公好み」として「山川」「若草」「菜種の里」の松江三大銘菓をはじめ桜餅、朝汐、路芝などなど、その数170種類の和菓子があり、菓子屋も百軒に及んでいます。

 
 
不昧公と茶の湯
 
「不昧公」七代藩主松平治郷(はるさと)は江戸時代の茶道を代表する茶人として高名です。

20歳ですでにに石州流の最終課程を終了してしまうほどの英才でした。

公は「茶は自分の身を修め、家を整え、国を良くし、天下を平和にする道ある」と説いています。

美術工芸にも目が利き、楽山窯や布志名窯を興し、領内の工芸を盛り立てました。

不昧公は「わが流儀立つべからず、諸流我が流儀にて別に立派あるベからず」と自らの茶の湯の本質についてのべています。

茶所松江には変わったお茶も伝えられています。

農民が考えだした茶粥のようなものといわれますが、現在も松江城近くの茶店で「ぼてぼて茶」を味わうことができます。

松江には不昧公が築いた文化が礎となり、今も脈々と生活の中にとけ込み、そして息づいています。

菅田庵
 
塩見縄手の北西、かつての松江藩家老有沢家の山荘には不昧公ゆかりの茶室、菅田庵(重文指定)があります。

寛政4年(1792年)、大名茶人として知られる松江藩7代藩主松平治郷(不昧公)の指図で建てられたもので、一畳台目中板の茶席は形式にこだわらない壮年のころの、不昧公らしい試みが随所に見られます

[問]0852-21-4288[休み]木曜、悪天候の日[料金]700円、抹茶350円(和菓子付)[交通] 松江駅から松江市営バスで17分・管田下車、徒歩10分[駐車場]3台[場所]松江市管田町106

 
 
月照寺
 
松江藩主松平家の菩堤寺です。

江戸時代、火難にあいましたが墓所と廊門はほぼ完全な姿で残り、その閑雅さを小泉八雲も絶賛したといいます。

山門正面にある7代藩主治郷(不昧公)のものは、名工・小林如泥の作で、飾りのブドウの透かし彫りなどが見事です。

境内にある大きな亀の背にのった石碑は六代藩主の寿蔵碑で、この大亀は夜ごとに町へ散歩に出たという伝説があります。

[問]0852-21-6056[拝観時間]8:30〜17:30(11〜3月は17:00まで)[休み]無休[料金]400円[交通]松江駅からレークラインで15分、月照寺前下車、徒歩すぐ[駐車場]3台[場所]松江市外中原町79

 
 
島根県立美術館…館内からの夕日は絶景
 
宍道湖を一望できる開放的なエントランスロビーや湖岸のモニュメントを楽しめる外庭など、抜群のロケーションを誇る美術館です。

収蔵作品は国内外の絵画、版画、彫刻、写真など多彩です。

[問]島根県立美術館(0852-55-4700)[開館]10:00〜18:00(3・9月の閉館時は日没30分後)[休み]月曜(祝日の場合は翌日休)[料金]300円(企画展は別料金)[交通]松江駅から徒歩15分[駐車場]200台[場所]松江市袖師町1-5

 
 
カラコロ工房
 
旧日銀松江支店の建物を修復し「匠」をテーマにリニューアルした製造・販売一体型の工芸館。

ガラス、めのう、銀、陶芸、古布、木工等の職人や作家の手仕事を紹介するエ房とブランドショップや技を伝える手づくり体験教室の他、手づくパンやジェラート、フレンチレストラン、名物出雲そばといった飲食も充実。

地下の金庫室にそのまま残る大扉も必見。

[交通]松江駅からレークラインでカラコロ工房下車すぐ

 
  
松江しんじ湖温泉
 
宍道湖畔に位置する温泉街で、宿からは湖が一望でき、早朝には湖面に浮かぶしじみ舟を見ることもできます。

また、宍道湖七珍料理も温泉と合わせて堪能できます(要予約)。

温泉入り口には一畑電鉄の駅があるので、出雲方面へも気軽に足をのばせます。

[問]松江市文化観光課(0852-55-5214)[交通]松江駅からまつえウォーカー右回りで11分、松江温泉下車すぐ[場所]松江市千鳥町

 
 
宍道湖七珍料理
 
海水と淡水がまじった宍道湖は『出雲国風土記』のころより出雲に豊かな食文化をもたらしてきました。

初春のシラウオ、夏のシジミ、ウナギ、秋のモロゲエビ、冬のスズキ、アマサギ、コイは「宍道湖七珍」と呼ばれ、繊細な味わいが絶品です。

宍道湖七珍の覚え方に、以下のような語呂合わせがある。七珍のそれぞれ頭の一字を組み合わせると、「ス(スズキ)・モ(モロゲエビ)・ウ(ウナギ)・ア(アマサギ)・シ(シラウオ)・コ(コイ)・シ(シジミ)」相撲足腰、相撲には足と腰の強さが肝心、こうすると覚えやすい。

 
松江大橋
 
慶長13年(1608)、松江城築城の際に造られ現在は17代目になる松江大橋。

御影石の欄干と唐金の擬宝珠が歴史と風情を漂わせます。

また、歩道の展望台からは晴れた日には大山が望めます。

[交通]松江大橋・松江駅から徒歩15分[駐車場]京店商店街駐車場利用(有料)

 
  
松江フォーゲルパーク
 
日本では珍しい花と鳥の公園。花のテーマ展示温室は、世界最大級の規模で、年中満開の数千種のベゴニア、フクシアを中心とする花の別天地が楽しめます。

二つの鳥の温室をはじめ、園内各所ではたくさんの鳥を見ることができ、水鳥たちにえさをやったり、フクロウの飛行ショーを楽しむこともできます。

展望台からは宍道湖が一望できます。

[問]0852-88-9800[開館]8:30〜16:30[休み]無休[料金]1500円[交通] 一畑電鉄フォーゲルパーク駅からすぐ[駐車場]300台(2時間まで無料)[場所]松江市大垣町52

 
 
ホーランーエンヤ
 
編集中
 
 
鼕行列
 
鼕行列は、松平藩主の松平宣維の後妻として、享保9年(1724)、伏見宮家の岩姫が京都からお嫁においでになったときから始まると伝わる。

ただし、鼕行列の本格的な始まりは、大正天皇の即位御大典のときから。その後は、大きな行事があるときに行われていたが、昭和34年(1959)の松江市政70周年記念行事に23町内が参加し、毎年10月の第3日曜日に開催される。

見るだけでなく、聞く祭りともいわれ、腹にしみわたる豪快な音がにぎやか。

町内でそろいのはっぴを着て、かけ声をかけながら鼕をたたく勇ましい姿、そして、鼕宮を引くたくさんの子どもたちのかわいらしさは、すっかり松江の秋の風物詩となった。

[問]松江国際観光案内所(0852-21-4034)

 
 
水郷祭
 
月第1土・日曜日、水上劇場、水の広場、船行列、水辺の市、そして湖上花火大会と終日にぎわいます。

[問]松江国際観光案内所(0852-21-4034)

 
 
神魂神社
 
石段をあがっていくと、ひときわ高く社殿のそそり立つのがみえる。

そしてみごとな杉の木立にかこまれた拝殿の奥から朗々たる声が聞こえる。

耳を澄ますと宮司の祝詞だ。そうした光景に私はなんどか出会った。

このような気品のある神社をほかに知らない。

四月の冷たい雨が石段の両がわの桜並木の花を散らすなかを、日本の神に出会う歓喜にふるえながら降りていったのである。

…谷川健一著「出雲の神々」より

[交通]市営バスかんべの里から徒歩3分[駐車場]20台

 
 
八重垣神社
 
スサノオが「八雲立つ」の歌を詠んで、イナダヒメ(出雲神族)と結婚したと伝えられる地で世俗的に一番名高いのは、「八重垣神社」であろう。

この社は縁結びの神としても有名で、若い男女の参拝者が多い。

八重垣神社の名は「出雲八重垣」にちなむが、所在地は須賀ではなく松江市佐草町である。

社記は須賀から避難地であった佐草へ移って宮作りをされ、これを八重垣の宮と呼んだと伝える。

この伝記は記紀にも風土記にもない。

八重垣神社の奥の小径をたどると、佐久佐女(さくさめ)の森と呼ばれる一角に、清水の湧き出る池がある。

その池は小さいが、うす青い透明さをもっている。

小泉八雲はここを「神秘の森」と称揚した。池のそばに天鏡社が祀ってある。

伝説によると、八重垣姫はこの池を水鏡として、自分の姿を映したという。

そこで姫が死んだのちも、たましいは池に残った。

姫の面影は沈み、ここをおとずれる人たちに、水の底から親しげに話しかけている思いがする。

…谷川健一著「出雲の神々」より

[問]0852-21-4030[宝物館]9:00〜17:00、200円[休み]無休[駐車場]150台[交通]松江駅からレ一畑バスで18分、終点八重垣神社下車すぐ[場所]松江市佐草町227

 
 
八雲立つ風土記の丘
 
神魂神社の東、1キロ足らずに八雲立つ風土記の丘センターがある。

このあたり、大庭から大草、意宇川流域にかけて、ざっと数えても百余基の古墳が散在し、古代出雲の中心であったことを偲ばせる。

出雲国庁があり、国分寺、国分尼寺があり、山代郷正倉があった。

前述の八重垣、神魂の両社とともに意宇六社と呼ばれる神々のやしろも鎮まる。

風土記の丘センターの資料館は、充実した古代博物館だ。

先史時代博物館と言ったほうがよいかもしれない。

四角く、偏平な姿は、前方後方墳をかたどったという。

この墳形は出雲に多く、当地の古墳を特徴づけている他に無いわけではないが、出雲には前方後方墳、方墳が多いのである。

資料館には古墳出土品が豊富で、出雲の古代を幻に見る心地がする。

資料が多くて書き切れるわけもないが、国指定重文に平所(ひらどころ)遺跡出土の埴輪群と、岡田山一号噴出土遺物がある。

景初3年(239)銘三角縁神獣鏡がある。

注意深い読者は、おや、と思われるに違いない。先に淀江の船に関連して中国への渡海を考えた。

景初3年は、女王卑弥呼が親王へ遣使した年、そして資料館に見る鏡は、親王から卑弥呼に送られた百枚の鏡の一つなのである。

出土地は三原那加茂町神原神社古墳。

風土記に大国主が御財(みたから)を積んでおいた処(ところ)とある。

東に佐久佐の神が麻種を蒔(ま)いた高麻(たかさ)山が見える。

女王卑弥呼は耶馬台国に服属、あるいはゆるやかな耶馬台国連合とでも称すべき国々の王(首長)に、魏鏡を分配した。

多分、耶馬台国の一員であることを認知する印綬のような意味を持ったのだろう。

出雲の豪族は耶馬台国と交流があったのである。

『魏志倭人伝』に「使譚通ずる所三十国」としるされた国名に、島根の地名と通じそうな名称はないが、右記の鏡は卑弥呼へ贈るために鋳造されたと考えられている。

日本で出土するが、中国では一面の出土も知られていない。

この鏡の出土は、豊かなロマンをはらんでいる。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

[問]風土記の丘資料館(0852-23−2485)[休み]月曜、祝日の場合は翌日休[料金]入園自由、資料館150円[駐車場]150台[交通]松江駅からレ一畑バスで約33分、風土記の丘下車、徒歩3分[場所]松江市大庭町456

 
出雲かんべの里
 
出雲地方に伝わる民話や神話、伝統工芸を楽しく体験できる施設です。

「民話館」では、マジックビジョンによる「耳なし芳一」の上映をはじめ、パネル・映像などによる出雲神話の紹介をしています。

「工芸館」では、和紙てまり・藤工芸・ろくろ木エ・機織り・陶芸といった伝統の技を紹介しています。

工芸館は工房も兼ねているため、直接話を聞きながら技術に触れられ、予約をすれば、製作体験もできます。

ほかにも敷地内には、ヤマザクラなどの群生する「自然の森」、様々な水生植物が自生する「自然観察園」があります。

[問]0852-28-0040[開館]9:00〜17:00(民話館16:30まで[休み]月曜、祝日の場合は翌日休[料金]民話館400円、こうげい館無料(体験は有料、予約制)[交通]松江駅から一畑バスで34分、大庭車庫下車すぐ、[駐車場]30台[場所]松江市大庭町1614

 
 
熊野大社(八雲町)
 
熊野大社は、延喜式に「熊野坐神社大名神」とある。

今の松江市八雲町熊野に鎮座し、杵築大社、即ち今の出雲大社出雲市)と並んで出雲の二大社であった。

上述文徳実録仁寿元年(851年)の史実や、三代実録貞観九年(867年)四月の条に「八日丁丑、(中略)出雲国従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神、並びに正二位を授く」とあるように、両社は常に並称せられ、両者のための神戸は、意宇・秋鹿・楯縫・出雲・神門の各郡に置かれて、特別な奉斎がなされていた。

熊野大社の祭神については、風土記の出雲神戸の条に、「伊弉奈枳乃麻奈子に坐す熊野加武呂乃命」、即ち伊邪那岐命の愛児である熊野の神様とだけ見えているが、出雲国造神賀詞には、「伊邪那伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と見えている。

熊野大神の熊野坐大神は、熊野に御鎮座の大神の意、櫛御気野大神の櫛は奇の借字で神秘神聖な意。御気は御食すなわち御食事、野は主に通じて主となって掌るをいう。

従ってこの神名は、伊邪那伎命の御愛息である神で熊野に御鎮坐の大神、神聖な御食事を掌られる神、奇御食主という意である。これによって考えると、この神は出雲の最高の食糧神と考えられる。

この櫛御気野命という神名は他の古典に見えない神名であり、本居宣長は『古事記伝』の出雲国造神寿後釈において、この櫛御気野神は須佐之男命御霊を称え奉った御名であると記され、現在でも祭神は須佐之男命とせられている。

[問]0852-54-0087[交通]山陰本線松江駅より一畑バスにて約30分[場所]松江市八雲町熊野2451

 
ゆうあい熊野館(八雲町)
 
八雲温泉ゆうあい熊野館は、出雲神話の故郷、熊野大社に隣接しています。

日帰り温泉のご利用いただける温泉宿泊施設です。

広々とした大浴場と露天風呂が自慢で、露天風呂は岩風呂と大理石風呂の二種類あり、それぞれ日本庭園をイメージしたものになっています。

客室は和室が8部屋・洋室が12部屋の計20部屋あるほか、宴会場やレストランがあり、地元の食材をふんだんに使い、夏はビアホール、冬には鍋料理など四季折々のお料理をお楽しみいただけます。

各種会合、慶事や法事などにご利用ください。

マイクロバスで無料送迎もしております。

熊野大社での結婚式にあわせた披露宴は一日お一組様限定で、お二人の門出をスタッフ一同心をこめてお手伝いいたします。

近隣には、朝採れ野菜や地元加工品などを販売しているくまの百笑市、蕎麦打ち体験道場の八雲ふるさと館、八雲の伝統的な民具を展示している八雲郷土文化会館、健康増進温泉施設ホットランドやくもがあります。

また、ゆうあい熊野館にご宿泊の皆様にはホットランドやくも施設利用半額券をプレゼントしています。

新しい出会い、湯のぬくもり、美味しい食事、安らぎの客室……。

日常の喧騒を離れ、ひとときの休息を求める万人をあたたかく包む懐。

ゆっくりと疲れが溶けていく大浴場と露天風呂に溢れる温泉は、ゆとりの中で今ここにいることの幸せを感じさせる、心の理想郷です。

 
出雲民芸(八雲町)
 
熊野から谷一つを越えた東岩牧に、出雲和紙の人間国宝・安部榮四郎氏がいた。

すでに故人となられたが、氏の記念館がある。その記念館を訪れてみた。

古道紀行に無関係と見えるが、そうではない。

東岩坂の東にある星上山から西の桑並川の谷、西岩坂にかけて、記の黄泉ノ国伝承地が散在するのである。

今その神跡を尋ねることはほとんど不可能だが、私は安部榮四郎記念館を見がてら、神話の里をこの目に見、心にとめておきたかったのである。

紙すきの里はさわやかな山あいの集落だった。

東に星上山、西に明事山がある。

南東へ峠を越えれば広瀬町だ。

集落は東岩坂川の谷に肩を寄せ合って、田はすくなく、緑の中へ民家がこぼれ落ちたように見えた。

この平和な美しい山里のあたりで、伊邪那岐は黄泉ノ国へ逝(い)った妻・伊邪那美の放った黄泉醜女(よもつしこめ)や雷神に追われ、逃げ走った──ついに千引の岩を黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)えて伊邪那美に離別を言い渡す。

記は「故、その謂(い)はゆる泉比良坂は、今、出雲ノ国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ」としるす。

この後、伊邪岐が死の国のけがれを祓(はら)うために禊(みそぎ)をしたのが、出雲の浜辺ではなく、竺紫(つくし)の日向の橘の小門(おど)の阿波岐(あはき)原、即ちはるかな九州の南、宮崎県であった。

どうもおかしいと思うけれども、そう言えば宮崎に禊の浜の伝承地はあるが、黄泉比良坂伝承地はない。

やはり、記紀編纂者には、出雲を「根の国」と見る認識、又は一種の信仰があったことを伺わせる。

出雲和紙の声価を世界的に高めた安部榮四郎氏の記念館は、和紙の工程、道具を見せるだけではなく、珍しい紙衣、紙布などの和紙製品を展示、手すき和紙を体験できる伝習所も設けていた。

すぐ近くに、二人のお孫さんが伝統を守る紙すき工房がある。

神話の里の紙すき工房ここは何かしら別世界に遊ぶような、暖かいのどかさ、心豊かさがあった。

 
しいの実シアター(八雲町)
 
村のシンボル「しいの実」をふんだんに使った劇場は、感動の劇世界を世界に発信する小さな木の劇場
 
星上山(八雲町)
 
自然を楽しむのに絶好の場所は、星の神様が降臨されたという伝説のある星上山(標高45メートル)。

山頂には出雲17番札所の星上寺があります。周辺一帯に自然林が保存されていて、シイ、カシなど常緑広葉樹にブナ、シデなどの落葉樹が見られ、緑の森の中では野鳥がさえずり昆虫たちが動きまわっています。

ここに昭和58年、星上山森林総合利用施設がオープン。一周1000メートルの林間歩道、林間広場、キャンプ場、松江市や中海が一望できる2か所の展望台、炊事場や休憩室を備えた総合案内所などがあり、夏はキャンプ、秋は紅葉が楽しめます。

森林浴をするのにも格好の場所で、澄んだ空気の中で心も体も自然に向かって開放すれば、きっと自然を身近に感じるはず。

 
弁慶が流された「弁慶島」
弁慶が母「弁吉」を祀った「弁吉女霊社」
 
武蔵坊弁慶生誕の地
 
弁慶については、鎌倉時代、薙刀を取っては天下無敵、源義経に常に寄り添って彼を助け、奥州平泉で立往生を遂げた人物。このようなヒーローの姿がまず浮かんでくるのではないでしょうか。

この西塔武蔵坊弁慶については、歴史上本当に存在した人物かどうか、実際のところは不明なのです。

(鎌倉幕府の正式な記録「吾妻鏡」に弁慶法師及び武蔵坊弁慶の名が書きとめられている事実から実存していたと思われる)。

しかし、なぜか伝説の上では非常に有名です。

それは室町時代の義経記などに書かれ、歌舞伎にとりあげられていたかも知れません。

それはそれとして、面白いことには弁慶は出雲地方でかなりまとまった形として伝えられているのです。

つまり、現在の松江市長海町で生まれ、さらに青年時代までを平田市の鰐淵寺をはじめ、出雲地方を舞台として修行し生活していたというのです。

調べてみますと東の安来市から、(旧市町村名)─ 八雲村、松江市、島根町、玉湯町、宍道町、出雲市、平田市などにわたって広く弁慶にまつわる伝説は残されています。

(他地方の伝承のように、創作物語から派生した伝承ではなく、圧倒的質量の伝承の一つ一つが、弁慶が実際に生活していた足跡として、それぞれが繋がりをもって実存しているところに、出雲地方の弁慶伝説の凄みがあります。)

もちろんは、この弁慶伝説の広がりは出雲地方のみならず全国的で。島根県以外で見ると、福岡、香川、岡山、鳥取、滋賀、京都、兵庫、三重、奈良、大阪、和歌山、福井、新潟、岐阜、神奈川、岩手、山形などにもあるようです。

しかし、出生時代から伝えているものとしては、島根県の他には和歌山県田辺市以外にないようです。

しかもその内容を比較しますと、出雲地方の方が田辺市のものよりずっとくわしいのです。

さらに言いますと、他地方のものは単に「弁慶の◯◯」と弁慶ゆかりの事物を称しているだけですが、出雲地方のものは、弁慶が「生まれ、成長する過程の伝承が実に豊富に認められる」点に大きな特徴があります。

さて、一般的には弁慶の一代記として室町時代の中ごろに著された「義経記」(軍記物と御伽草子との中間に位置する作品・伝説的素材の集成に仮作的詩想が加えられて成ったもの…義経記の史実としての評価については他のページに掲載)の巻三に詳しいのです。

これによりますと父は紀州熊野権現の別当で弁しょうといい、熊野参詣に来た京都の高貴な方の姫君を妻としたもので、その姫君が弁慶の母ということになります。

そしてこの弁慶の母は二位大納言の姫君で、もともとは右大臣の奥方ということになっているのです。

つまり弁慶はこの両親の間に生まれた長男であり、出生地は紀州熊野となっています。

しかしながら、出雲地方にあっての弁慶は「義経記型とまったく異なった伝承」をもっており、少なくとも江戸時代には広く知られていたらしいのです。

というのも亨保二年(1717)に成立したとされる黒沢長尚編「雲陽誌」や延亨(1744)〜寛延(1750)ごろに松江藩士の柳生軒虎千が著したともいわれる「出雲鍬」にはほぼ共通した出生物語が書かれているのです。 

…出雲地方の弁慶伝説は他のページで紹介しています…

 
出雲の弁慶関係の伝承地…実存・壮大なスケール・圧倒的な質と量
 
まず平田市(現出雲市)から眺めてみますと、何といっても別所町にある鰐淵寺(明治維新まで出雲大社の別当寺の座にあった古刹)です。

ここには弁慶が学僧時代に修行していたとされるだけに、書道のために硯の水を得た弁慶硯の水の井戸(弁慶は字が非常に上手く、頼朝に出した腰越状は弁慶が代筆したという説がある)、彼自身が描いたとされる自画像(表紙ページに掲載)、彼が大山寺から一夜のうちに運んだという大日寺の釣鐘(国の重要文化財に指定…県立博物館に移管)、負い櫃(普通の櫃は木製で修行僧が旅する際の必需品で背中に負って歩いたもの、鰐淵寺に残っているものは鉄製の重いものです…弁慶が大きな男であったと想像できます)、袂にいれていたという「弁慶袂の石」があります。

斐川郡に目を転じますと、大社町謡堪には「石臼」というところがありますが、これも弁慶が重石に持ってきた石臼を置いたからついた地名だといわれています。

また出雲市武志町には弁慶のお母さんの「弁吉女の墓」が鶴原さんという個人のお宅の畑の中にあります。

次に八束郡ですが、島根町瀬崎には「弁慶の背丈」という岩の裂け目がありました。

縱が4.5m、幅が1mぐらいあり、弁慶がここで背の高さを測ったといわれていました。

しかし昭和48年の漁港整備のおり埋められ今はありません。

松江八雲町市熊野にある「熊野大社」は出雲一の宮とされ、格式の高いお宮ですが、別伝ではここの別当が「弁吉のお父さんである弁斎の出身地とされています。」

宍道町佐々布上には「弁慶の飛礫」なる石があり、大晦日の丑の刻になると金色の鶏が出て時を作り、さらに棒でたたくと金時になると伝えています。

玉湯町玉造の岩屋寺古墳の頂上には「弁慶の硯」があり、同町柳井の国道九号線から1キロばかり北に入った福間さんの家の庭先には「弁慶岩」があります。

これは弁慶が下駄にはまった石を蹴り上げたらそこに落ちたからだそうです。

さらに柳井川の上流には、弁慶が岩を蹴ったとき、勢い余ってひざをついてできた「膝つき窪」というところがあります。

安来市では、まず「清水寺」(千四百余年の歴史を持つ天台宗の古刹)に弁慶が一息に登った「一息坂」があり、平成3年の台風19号でなくなったけれど、それまで「弁慶の捻り桜」がのこされていました。

これは鰐淵寺から使いに行った弁慶が返事を待つ間、退屈しのぎに桜を捻ったものだとされています。

また西松井町にある「出雲路幸神社」には「弁慶の腰掛け岩」とか、今はなくなりましたが、以前はお母さんが夫となる山伏と出会ったとされる「逢初川」がありました。

県都である松江市には多くの関連地が見られます。

長海町にはお母さんを祀った「弁吉女霊社」のほかに「弁慶生湯の井戸」「弁慶の屋敷森」「弁慶の立て岩」がありました。

この岩の大きさは高さ約2m、幅1.6mくらいです。また野原町には子ども時代の弁慶が流された「弁慶島」(国土地理院の地図にも記載)が中海の中に浮かび、今はありませんが、弁慶島から陸に渡ろうとした彼が、「よいしょっ」とばかりに対岸に生えていた萱を握ったところから名がついたという「弁慶の握り萱」がありました。

枕木町には彼の修行地として知られる「枕木山」と「華蔵寺」があり、福原町には同様に「澄水寺」が存在しています。

そして付近の虫野神社裏には、ここにも「弁慶の立て岩」が残っています。高さは約10mはあろうかという大きなものです。

佐草町の「八重垣神社」では、お母さんが良縁を占ったら「七浦の潮を汲み、枕木山の薬師に参詣し、願掛けをしたら良縁に恵まれる」という結果がでたというのです。

また、竹矢町には「弁慶の足跡」があります。

…酒井董美著「弁慶伝説ゆかりの地」より

[問]弁慶の里 本庄(0852-34-1528)[営業時間]9:00〜19:00[休み]毎週木曜日[交通]松江市中心部から国道431号を境港方面へ約12km(約20分)、米子自動車道米子ICから国道431号を松江方面へ約36km(約45分)[場所]松江市野原町401番地8

 
 
美保神社(美保関町)
 
二柱のご祭神をお祭りする美保神社の本殿は、大社造りを二棟並べて装束の間でつないだ特殊な造りで「美保造り」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。

向かって左手が漁業・商業を始めとする生業の守護神・事代主神が鎮座されている右殿、向かって右手が農業と子孫繁栄の守り神・三穂津姫命がおられる左殿である。

檜皮葺きの屋根と、装飾を排した直線的な造りがかえって凛として美しい。

神社の歴史は古く、奈良時代以前にすでにこの地にあったとされるが、戦国の世の戦乱ですべてを焼失。現在の本殿は文化10年(1813)の造営、拝殿は昭和3年の建築である。

ご祭神である車代主神とはゑびす様のことであり、美保神社は全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた歴史を誇ります。

[問]0852-73-0506[交通]JR松江駅からバス1時間20分、美保神社入口下車[場所]松江市美保関町美保関608

 
 
諸手船神事「美保神社」
 
諸手船神事は出雲神話「国譲り」にまつわる神事で、毎年12月3日氏子が中心となって行っている。

神事は大国主神が使いを出して国譲りを御子神の事代主神にゆだねた場面を再現する。

二隻の諸手船は太鼓の音を合図に漕ぎ出し、互いに競いながら岬にある客人山の下へ向かう。

山上の客人社を遙拝したあと、ふたたび競い合い戻ると互いに水をかけ合う。

船の舳先に立てた真剣を神社の随神門に納めたのち、船はふたたび湾内に漕ぎ出し、また戻る。

宮司と問答をしたのち一同、国譲りのときに事代主神が打ったとされる「天の逆手」を打って手締めとする。

さらになんどか競漕を繰り返し海水をかけあう清めの儀式を行う。

 
 
青柴垣神事(美保関町)
 
諸手船神事と対をなす美保神社の神事で4月7日に行われます。

国譲りを了承したコトシロヌシノミコトが青葉の柴垣に隠れたという故事を再現したもので、数々の習俗と故実が含まれる神秘的な神事です。

 
 
美保関灯台(美保関町)
 
美保関から島根半島の最東端、地蔵崎にある美保関灯台までは、しおかぜラインを通って海の景色とドライブを楽しもう。

この灯台は、明治31年造られたもので、明治の面影をとどめた石造りの風格ある建物で平成10年に「世界の歴史的灯台100選」に選ばれた。

隣接している真っ白な石壁と赤い屋根の建物は、当時灯台守の宿舎だったところで、今は日本海を一望するビュッフェとなって、行きかう船や天気の良い時には隠岐の島をながめながらの食事が出来る。

[問]美保関観光協会(0852-72-2811)[交通]JR松江駅からバス1時間20分[場所]松江市美保関町地蔵崎

 
五本松公国(美保関町)
 
シーズンには5000本のツツジが一斉に咲き、リフトからは美保関港や大山を見渡すことができます。

また民謡に歌われている「関の五本松」は、現在三代目が植えられています。

[問]美保関観光協会(0852-72-2811)[交通]JR松江駅からバス1時間20分[場所]松江市美保関町地蔵崎

 
 
青石畳通り(美保関町)
 
美保関は江戸時代に北前船の西廻り航路の寄港地として栄え、美保神社から彿谷寺までの青石畳通りは多くの人々でにぎわいました。

当時の面影を残す町並みと青石畳の道が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

 
メテオプラザメテオミュージアム(美保関町)
 
はるか、46億年の昔、太陽系の誕生とともに生まれた「美保関いん石」は、メテオプラザの4階にあるメテオミュージアムに常設展示され、多くの人に宇宙への夢とロマンを与え続けています。

ミュージアムでは、ほかに宇宙の誕生について解説した映像や、手塚治虫プロ制作、財津和夫音楽担当という豪華キャストで、話題になったいん石をモチーフにしたアニメーション映画が常時上映されています。

また、ライブラリーでは、いん石の標本を顕微鏡で覗けるコーナーや、世界の隕石展示コーナ−、インターネット、いん石落下状況を再現した迫力ある展示など、宇宙を学習し、そして夢が広がる空間となっています。

世界の隕石展示コーナー・顕微鏡で覗く隕石の世界・隕石関連映像上映。

[問]0852-72-3939[開館]9:00〜17:00[休み]毎週水曜日(水曜日が祝日の場合はその翌日)[料金]個人一般600円、中学生400円 小学生300円、団体(20名以上)一般500円、中学生350円 小学生250円[交通]JR松江駅からバスで40分、美保関ターミナル下車、町営バス乗り換え約25分、メテオプラザ下車[場所]松江市美保関町七類3246-1

 
佐太神社(鹿島町)
 
宍道湖(しんじこ)は湖周約50キロ、大潮だが水深は最大6メートルと浅い。

湖面標高は0メートル、つまり海面と同じ高さにある。

宍道低地帯へ残された海の名残、海跡湖だ。

松江市街の西から佐陀川が北流して、鹿島町古浦で日本海へそそぐが、これは洪水対策として天明7年(1787)に掘削された。

松江から約8キロ、佐陀川のほとりに佐太神社がある。

加賀(かか)の潜戸(くけど)に枳佐加比売(きさかひめ)を母として生まれた神である。

佐太の神は前出のように父の名がわからないけれども、由緒略記に「世にいう猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)」とある。

サダとサルタ──音(おん)の相似から来た説かと思うが、この伝は記紀に合わない。

記では天孫降臨の時、「天(あま)の八衝(やちまた)(八方へ道の分かれる所)に居て、上は高天原(たかまのはら)を光(てら)し、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を光す神」があった。

天照大神と高木神(たかぎのかみ)がアメノウズメを遣(や)って名を問わせると、「僕(あ)は国神(くにつかみ)、名は猿田毘古(彦)神」と答え、天降る天孫を先導した。

紀の一書は衢(ちまた)の神として描く。

衢は街の四ッ角、分かれ道などを指す。

ここから猿田彦は道祖神と結びついたりするが、紀の描写では大天狗の姿をしている。

高木神は佐太の神の祖父・神産巣日の別名だから、これでは祖父が孫を知らなかったことになる。

(新しく渡来した天孫族には日本神話と呼べるものがなく、原住民族の出雲神族・先住民族の出雲族の歴史を改竄して、記紀が作られたかよくわかる。)

先に引用した玄旨法印細川幽斎は、雨風にはばまれて加賀から船を出せず、徒歩で出雲大社へ向かった。

「道の程三里計(ばかり)経て、木深くて山のたたずまひ唯(ただ)ならぬ社(やしろ)あるを見巡(みめぐり)て神人(じにん)に尋侍(たずねはべ)りしに、是なん佐陀(さだ)の大社なり。

神体伊邪那岐、伊邪那美の尊と教へ伝々」と書き、ここへ泊まっている。

徳川幕府草創期に、佐太の神人は祭神を伊邪那岐、伊那那美の二神と語ったのである。

これもやや不審だが、佐太神社は風土記に佐太の御子社とあるから枳佐加比売の御子、加賀の潜戸に生まれた神に相違ない。

松江から鹿島へ向かう県道を北西へたどれば、穏かな田園にその社が見えた。

朝日山を背にして、山裾に建つ社殿はひときわ高い神殿を中心に三棟の大社造りが並列する。

文化4年(1807)に再建された重文建築だ。

回廊をめぐらし、三つの神門を構える姿は荘厳である。旧暦10月を神無月と呼ぶが、出雲では神在月と呼ぶ。

全国八百万(やおろず)の神々が出雲大社へ参集するため、出雲以外は神様がお留守になる──これは俗説とされるけれども、名語記や藤原清輔(きよすけ)の『奥義集(おうぎしゅう)』(平安中期)にこの説がある。

興味深いものに、陰神(伊邪那美)崩御の月だから、神無月というのだ(世間諺問答(うわさもんどう))との説もある。

実は11月20〜25日、当社では八百万神が集合する神在祭を執り行なう。

崩御された伊邪那美神を悼んで参集する祭りとされ、非常に厳重な物忌(ものいみ)が守られる。

旧暦10月を新暦に改めたもので、出雲大社へ集まった神々は一旦当社へ移動し、お忌祭とも呼ぶ神在祭を終えてからそれぞれの国へお帰りになる。

このことから、出雲の神集(かむつどい)いに集まった八百万の神々が一旦佐太の社へ集合、佐太から帰途につかれる、という伝承を生んだ。

宮司さんに確かめると、「お旅立ちの社は、斐川の万九千神社と言われます」……どうやら当社から万九千神社へ引きあげ、旅装をととのえて(かどうかわからないが)、お帰りになるらしい。

私は佐太のお忌祭にも、黄泉大神(よもつおおかみ)伊邪那美の巨大な巽が、天空のように古代出雲人の心理の頭上を覆っていたことに気づく。

そしてそのお忌祭を、佐太の神が主催することに、当社の勢力が偲ばれるように思う。

佐大神能というものがある。

国指定重要無形民俗文化財に指定されたまことに幽幻荘重な神事舞で、神々の縁起を演舞するのが珍しい。

ほど近い佐陀講武具塚は縄文時代前期の遺跡であり、埋め戻されてはいるが社前、古浦などに弥生遠跡も発見されている。

背後の朝日山は風土記の神名火(かんなび)山といわれる。

神々が陰神の忌に集まる社は、明るく澄んだ陽光をあびて物音もなく人影もなく、見渡す里も、まるで人々が住んでいないように静かだ。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

[問]佐太神社社務所(0852-82-0668)[開門時間] 8:30〜17:00[交通]JR松江駅からバス約20分、佐太神社前下車〜徒歩2分[場所]松江市鹿島町佐陀宮内73

 
神名火山(鹿島町)
 
古代、人々に崇められたという三角形を呈する美しい山容を見せて町の南西部、松江市との境にそびえ立つ朝日山(標高342メートル)は「出富国風土記」に記された神の天下る山「神名火山」。

中国自然歩道の一角にあたり、佐陀本郷あるいは古浦から登る道は少しばかり険しいものの、山頂からは日本海、宍道湖、さらには遠く中海や大山まで見渡せ、その景色の素晴らしさは山道を上った疲れなど吹き飛ばしてくれるほど。

頂上には古利金宝山朝日寺のほか休憩所もあり、親子連れには格好のハイキングコース。松江市東長江町から登る山腹まで車で行けます。

 
鹿島原子力発電所(鹿島町)
 
町の中央部から北へ約1キロ、日本海に面した位置にあり、昭和49年に西日本初(全国で6番目)、国産第1号の原子炉を使った発電所として営業運転を開始。

平成元年には2号機も完成して運転を開始し128万キロワット、中国地方最大の発電所です。

 
 
島根原子力館(鹿島町)
 
発電所の全景が一望できる地に出雲の社を形どった島根原子力館があり、原子力発電のしくみが模型や実物展示、最新の映像技術を使って楽しく紹介されています。

日本海、恵曇漁港が一望できるうえに松江の街や宍道湖まで眺められます。

 
 
加賀の潜戸(島根町)
 
加賀の浜へ着いたのはもう午後四時。

船があるはず、と探したが、ない。遊覧船事務所にも、漁協にも人はいない。

途方に暮れていると、軽四輪トラックでポコポコと埠頭へ来た初老の人がいた。

遊覧船の人であった。

潜戸が見たい、と頼みこむと、「波が高うなっちょって、ちっとは揺れるがや。待ってて下され、今、船え持って来ますで」と、いやな顔もせず、軽トラで行ってしまった。

驚いたことに、港の遠い対岸から、軽快なエンジン音を響かせて中型の観光船──と言っても漁船とあまり変わらない船が、まっすぐこちらの埠頭へ向かって、波をけたてて来た。

彼はもう船をしまって、帰ろうとしていたのである。

たった一人の、やや酔狂(すいきょう)な客のために船を出してくれたのだ。

私はすっかり恐縮して、乗り込んだ。

なるほど、港を出ると波頭は長く白くふくれ上がって、船はひどく縦揺れした。

波浪と直角に進んでいたのである。

大きなピッチングのたびに、屋根も窓もないあけっぴろげの船内へ、波しぶきが音を立てて吹きつけた。

私は撮影に備えて袖にいたが、あわててカメラをしまい、艫(とも)(船尾)近くへ逃げた。

船頭は大きなうねりがくるごとにエンジンを絞り、波しぶきに気を遣ってくれる。

私は新、旧二つの潜戸を見ればよかったのだが、彼は決められたコースを忠実にたどって行く気だ。

あれがくらち浦、こちらがはなぐり浦、と説明している。

断崖絶壁である。

その断崖の下にも、小さな浦があった。

「今日は波が高くて、船も寄せられんし、岩が崩れて立入禁止になっとります」、と言って旧潜戸の沖に船をとめた。

入口の高さ30メートル、奥行10メートルという。

親に先立った子供の霊がここへ集まると信じられている。

望遠レンズで見ると、数基の石灯寵と、無数の小さな石積みがあった。

寒ノ河原である。

朝早くここへ来れば、幼ない子供の足跡が点々と残っている……明るくなると自然に消えるそうだ。

日が暮れてこの前を通る船は、子供の泣く声を聞くという。

新潜戸は、潜戸鼻の先端にあった。

船頭はたくみな操船で巨大な洞門へ船を乗り入れた。

高さ30メートル、幅20メートル、南西から北東へ貫通する洞穴は延長200メートル。途中、西側にもT字形に洞口をひらいている。

風土記は加賀の神崎(かむさき)としるしており、要約次のように語る。

加賀の神崎の窟(いわや)に佐太の大神が生れまそうとする時、弓箭(ゆみや)が亡(う)せた。

その時、枳佐加比売(きさかひめ)が「私の子は、麻須羅神(ますらがみ)の御子(みこ)であるから、亡せた弓箭よ、出(い)で来(こ)」と願われた。

角の弓箭が流れ寄って釆たが、姫神は「吾が弓箭ではない」と投げすてる。

又、金(かね)の弓箭が流れ寄って釆た。これを取って、「くらい窟であることよ」と言って、岩窟の壁を射通した。

「即(すなわ)ち、御祖(みおや)枳佐加比売命の社(やしろ)、此処(ここ)に坐す」──今の人(奈良時代初期)、この窟のほとりを行く時は、必ず声とどろかして行かねばならない。

もし密(ひそ)かに行けば、神現れて、諷風(つむじ)起り、行く船は必ず覆(くつが)える、とおそろしい話を書きそえている。

加賀の加賀神社は、洞窟の枳佐加比売社をいつの頃か、集落へ移したものであろう。

ここに見える枳佐加比売は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とある。

佐大の大神の父神については、どこにも名がない。

さきに、簡単ではあるが「伯耆国(ははきのくに)の手間の山本」で、兄、弟の八十(やそ)神に大国主が殺害される話を書いた。

母が神産巣日に愁訴した時、創造神が送り下して大国主を蘇生させた女神が二柱ある。

枳貝比売(さきがいひめ)と蛤貝比売(うむぎひめ)である。

枳貝は赤貝、蛤貝は字の通り蛤(はまぐり)だ。

枳貝が貝殻を削り落とし、蛤貝が待ち受けてそれを自分の体液で溶いて大国主に塗ると、彼は「麗(うるわ)しき壮夫(おとこ)に成りて、出で遊びき」──けろりと生きかえったのである。

風土記の枳佐加比売は、この赤貝の神格化として記に現れる神(枳貝比売)である。

もう一人の女神・蛤貝姫は法吉(ほほき)鳥(鶯)となって飛び渡り、今の松江市街北部の山裾に鎮(しず)まった。

今も法吉(ほっき)の地名が残り、この郷(さと)を法吉鳥にちなんで法吉と呼んだのだ、と風土記はしるしている。

枳佐加比売の夫神の名、つまり佐大の大神の父は麻須羅神──たけく勇武の神と言っているだけで、名はしるさない。

私の船はエンジンを極度にしぼり、「密かに」洞穴へ入ったが、神は現れず、つむじ風もおこらなかった。

窟内は波が静かで、外海の高波がうそのようだ。

西の洞口との交点は、明るかった。船頭さんは船をとめ、洞の天井を指さした。

「乳岩です」と言った。

 
『雲陽誌』に、伊邪那岐、伊邪那美の二神が黄泉国(よもつくに)での離別の後、再び和合して加賀の潜戸で天照大神が生まれた、という何とも奇怪な話を伝えている。
 
(伊邪那岐・伊邪那美は出雲神族の祖神であり、出雲神族の神話を借用して創作された記紀の伊邪那岐・伊邪那美神話とは区別すべきである。)

その時天井に乳房の形を残し、後世、乳の出ない母親にこれを与えた。

昔から、洗米を持って窟へ参り、乳岩からしたたる清水を受けて粥に炊いてたべ、多くの人がおかげをこうむったという。

岩の乳房は大小二つ「加賀の女は片乳(かたちち)じゃと言いますが」、と船頭は笑った。

神様の乳房に似て、乙女の頃は片方が小さく育つ。

何でも見て確認しなければ気のすまない私も、これだけは探訪実見というわけにはいかない。

やむを得ないから、そういう伝承があったとだけしるしておく。

洞窟を抜け出ると、正面の岩島にも洞門があった。

金弓(かなゆみ)で洞窟を射通した時、勢い余った矢が向こうの岩島まで射抜いたとも、佐太の大神が弓の練習に射たため穴があいたとも伝えて、的島と呼ぶ。

潜戸の鼻は、荒々しく高い断崖絶壁がそそり立ち、海には無数の岩小島が散っていた。

あいにく雲が厚くたれこめていたが、錦ヶ浦です、という説明を問いてハタと思い当たった。

玄旨法印細川幽斎がしばし船をとめて嘆賞したのが、ここだった。

夕陽がさせば、本当に海の錦絵になるだろう。

幽斎はその夕景を見て、加賀に泊まったのである。

私の船は湾口の島々を縫い、桂島の外を大まわりしてコース通りに浜へ戻った。

まことに克明で義理がたい船頭さんであった。

加賀の海の美しさを、できるだけ私に多く見せたかったのかもしれない。

私も加賀へ泊まろう、と潜戸会館へ行ってみたが、今日は休業──二、三、電話でたずねてくれたけれども、それぞれに不幸があったり、休んでいたりでやどが取れない。

加賀から松江へは12〜3キロの山越えだ。

伝(つて)のあるホテルへ部屋の用意を頼み、私は夕ぐれの島根半島を横断した。

島根の日本海側は、未開ではあるがそれだけに人々は純朴で、風景に新鮮さと不思議な余韻があった。

浦々に出雲神族の神々がいた。

私は、『出雲国風土記』をポケットにしのばせて、ここを、この素朴で美しい海辺を駆け抜けたのである。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

[潜戸遊覧船 マリンファン 問]TEL 0852-85-9111 FAX 0852-85-3800[遊覧所要時間] 50分[遊覧船料] 一般大人(中学生以上)1,200円 小人(小学生)600円 ※6歳未満の幼児は大人1名につき2名まで無料 団体(20名以上)大人(中学生以上)1,000円 小人(小学生)500円 [旧潜戸のみ]大人(中学生以上)800円 小人(小学生)400円 ※幼児団体の場合小人料金を適用 ※海上の状況により旧潜戸のみの運航となる場合もあります。 ※天候の悪い時および海上シケの場合は欠航となりますので、お電話にて当日の運航状況をご確認ください。[運航時間] 9:00〜17:00(受付8:30〜16:00)※出港時間はTELにてお問合せください[運行期間] 4月〜10月 [駐車場 ]有(無料)[アクセス] JR松江駅よりバス40分、マリンゲートしまね前下車、島根コミュニティバス乗換マリンプラザしまね下車[所在地] 島根県松江市島根町加賀6120-14(マリンプラザしまね) 

 
チェリーロード(島根町)
 
町を代表する海の名所が潜戸なら、丘の名所はチェリーロード。

県道松江・鹿島・美保関線の佐波・野波間、約5キロにわたって700本もの桜が植えられています。

この桜並木の通が、春には長い花のトンネルに変わります。

この桜は野波道路が完成した記念に昭和39年、松江市在住の村人会から吉野桜の苗木500本が寄贈され、当時の村の青年団約30人の手で植えられたもの。

垂れ下がる枝の隙間からのぞく黒松の緑が桜に映え、眼下に広がる青い海とともに大パノラマをつくり上げます。

  
小波海水浴場(島根町)
 
夏、島根町の海岸は海水浴客でにぎわいます。昭和55年に日本海側で初の階段式護岸が完成したのが小波海水浴場。

カラー舗装された遊歩道、芝生の上にべンチや野外卓、とファッショナブルな海水浴場として人気です。

 
大根島(八束町)
 
大根島(だいこんじま)は、島根県の東部中海に浮かぶ島。

島の大きさは東西に3.3km、南北に2.2km、島の周囲は約12km。

大根島はきわめて平坦で最高地点の大塚山山頂でもわずか標高42mしかない。

しかし、大根島全体と隣の江島は玄武岩質の小規模火山(大根島火山)である。

粘性の低い玄武岩質溶岩で島ができているため傾斜が緩やかで平坦である。

隣の江島と共に八束郡八束町を構成していたが、市町村合併(平成の大合併)によって松江市八束町になった。

2004年鳥取側の境港と隣の江島が江島大橋(全長1446m)で結ばれ便利になった。

江島や松江市街側からは干拓用護岸道路で結ばれている。松江・米子市街より車で30分程度。中海干拓事業は2002年中止になった。

大根島を形成する大根島玄武岩は第四紀火山カタログ委員会によれば、今から約12万年ないし30万年前に形成されたと推定されている。

有史上は出雲国風土記に「たこ島」という名前で記載があり、奈良時代当時は牧場として土地利用されていたようである。

その後、島の火山灰土質が高麗人蔘と牡丹の栽培に合っているので江戸時代より栽培が盛んになった。

島名の由来については、出雲風土記に、杵築の御崎のたこを捕らえた大鷲がこの島に飛来したことにより「たこ島」と名付けられたとの言い伝えが紹介されている。

たこから太根(たく)そして大根(たいこ)と変化して今に至る。

一方、人参を大根とよびかえたのが島の名の由来という説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[交通]山陰本線松江駅からバス40分[場所]松江市八束町

 
幽鬼洞(第1熔岩洞窟)(八束町)
 
遅江地区にある「幽鬼洞」は国の特別天然記念物にも指定され、現在公園としても使用されています。

トンネルは入口から環状に100メートルほど続き、また元の人口に出てきます。

洞底は四季を通じて清水をたたえ、水は夏でも冷たく足もしびれる思いがするほど。

岩塊が崩壊して極端に狭くなった「背すり」と呼ばれる場所が3か所あるほか、「迷い道」「千畳敷」「鬼の井戸」「鬼の寝床」と呼ばれる場所があり、神秘の世界が広がっています。

 
竜渓洞(第2熔岩洞窟)(八束町)
 
この熔岩洞窟は、昭和8年、道路工事の際に偶然発見されたもので、昭和10年6月に国の特別天然記念物に指定されました。

この洞窟はその珍奇な形状から龍神様の住処(すみか)になぞらえて「竜渓洞」と名づけられました。

内部の様子は遅江地区の特別記念物「幽鬼洞」に勝るとも劣らないもので、内部には、つらら石や玉滴石なども見られ、岩肌には熔岩流出のあとが直線状あるいは渦巻状にあざやかに残っています。

また洞窟内には、目の退化した世界的にも希少な洞窟性の生物が生息しており、学術研究の対象になっています。

◎熔岩洞窟内は、真っ暗で、滑りやすくなっています。懐中電灯、長靴はこちらで準備いたします。

◎第二熔岩洞窟(竜渓洞)は、自然観察指導員の案内により見学できます。希望される方は下記までご連絡ください。

島根県自然観察指導員 島根県ふるさと案内人 門脇和也 0852-76-2397 kadosa@daikonshima.or.jp

※どちらの熔岩洞窟も、八束町中央バス停から徒歩10分のところにあります。

 
 
大根島の牡丹(八束町)
 
約300年前、全降寺住職が遠島の秋葉山(静岡県)へ修業に訪れたとき薬用として持ち帰り境内に植えたのが最初と伝えられています。

しだいに島内の農家に普及して研究が重ねられ、新しい品種が作られるようになりました。

昭和30年ごろ、芍薬の苗に牡丹の芽をつぐという新しい技術が開発されたのをきっかけに、農家の主婦らによる「牡丹売り」が盛んになりました。

やがてアメリカへの輸出も始まり、大根島の牡丹栽培は広く世界に知られるようになりました。

いまでは町の基幹作物となり年間180万本が生産され、国内各地そして海外へと川荷されています。

牡丹切花品評会

毎年4月下旬から5月上旬にかけて、町特産の牡丹の品種確認とPRを目的に問催されている「牡丹切花品評会」。

町内の生産農家や愛好家から約80種300点が出品され、会場の町民会館は牡丹の優美な大輪の花と香りにつつまれます。

この.品評会では、優秀花の表彰のほか新品種の命名も行われています。

観光牡丹園
町を訪れる観光客の80パーセントは牡丹の開花シーズン。

4月末から5月初旬こかけて、島外からの大勢の観光客でにぎわいます。

町内には数か所の観光牡丹園があり、園内いっぱいに咲き誇る色とりどりの牡丹の花を心ゆくまで観賞できます。

園内には休憩施設もあり、大根島特産の薬用人参の抹茶などが味わえるのも魅力。

[問]八束町観光協会(0852-5-5820)[開園]4/21オープン、みごろ4/28〜5/7頃、松江大根島ぼたん祭4/28〜5/7[交通]山陰本線松江駅からバス40分[場所]松江市八束町遅江

 
中国牡丹園(八束町)
 
旧八束町が平成元年から中国山東省渮沢市と技術交流を行い、112品種、10,000本の中国牡丹を導入しました。

緑の花を咲かせる「豆緑」、花びらが白と紅に分かれる「二喬」など貴重品種が数多くあります。

中国固有の大輪、原種に近いものまで一望に見渡せる景観は、この施設だけのものです。

また、園内には、日本牡丹も植えてあります。中国牡丹と日本牡丹の花の競演を、お楽しみください。

[問]0852-76-3639[開園]4月上旬〜5月上旬[営業時間]9:30〜16:30[料金]個人一般300円、20名以上の団体270円、小中学生150円、身体障害者150円、グリーンステラとの共通割引券(500円)あり[交通]JR松江駅より国道431号〜本庄福富松江線を車で約40分

 
 
薬用人参(八束町)
 
八束町の大半は畑です。

昔から雲州人参が特産品で、その栽培面積20ヘクタールです。

植え付けてから6年後に収穫する雲州人参は連作を嫌うため、15年以上置かなければ同じ畑で作る事のできない大変な作物なのです。

雲州人参の栽培も古く、約200年前松江藩の財政を補う事業として始められたと言われています。

当時、北は松前藩から南は薩摩藩まで全国に広がっていた栽培地が明治以降はほとんど消滅しましたがその中で、八束町は長野県、福島県とともに国内の3大産地のひとつに数えられ、県内では唯一の雲州人参の産地です。

ここで生産されるものは雲州人参と呼ばれ、その人参根は原材料として本場高麗人参に並ぶ世界の最上級品として海外市場でも高く評価されています。

国内では粉末やエキスに加工され滋養・強壮剤として愛用されています。

雲州人参を原料とした、各種製品も販売されています。

オタネニンジン(御種人参) は、ウコギ科の多年草である。

薬用植物であり、チョウセンニンジン(朝鮮人参)、コウライニンジン(高麗人参)、単にニンジンとも呼ばれる。

ニンジン(人参)の名称は、枝分かれした根の形が人間の姿を思わせることに由来する。

野菜のニンジンはセリ科であり、本種とは近類種ではない。

原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域とされ、中国東北部やロシア沿海州にかけて自生する。

現在、全体の70%以上が韓国と中国で栽培されているが、日本でも江戸時代から栽培されている。

中国東北部では棒槌(ぼうつい)とも呼ばれる。

日本では古くから「朝鮮人参」と呼ばれてきたが、韓国においては単に「人参」(正確には「人蔘」)(インサムjと呼ぶ。

戦後、日本の人参取扱業者は輸入元の韓国に配慮して「朝鮮」の語を避けて「薬用人参」と専ら称してきたが、「薬用」の名称が薬事法に抵触するとする行政指導を受け、呼称を「高麗人参」に切り替えた。

「高麗人参」の呼称は当初なじみが薄かったものの、現在では消費者にも広く普及している。

「御種人参」の名は、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて試植。

その後各地の大名に種を分け栽培を奨励したことに由来すると伝えられている。

古くから薬効が知られ珍重されていたが、栽培は困難であり18世紀はじめの李氏朝鮮で初めて成功した。

韓国では忠清南道錦山郡と仁川広域市江華郡、北朝鮮では開城が産地として有名。

中国では長白山(白頭山)の麓で「長白山人参」として栽培される。

日本では福島県会津地方、長野県東信地方、島根県松江市大根島(旧八束町)などが産地として知られる。

栽培にはおよそ四年ほどの月日を掛けた上で収穫されるが六年根も存在する。

栽培物より天然物の方が薬効が強いが、野生の人参の採取は非常に困難であり、産地でも高値で取引されている。

主要な薬用部位は根で有用成分はジンセノサイドとよばれるサポニン群であり、滋養強壮に効能があり、古くから飲用されてきた。

血圧を高める効能があるため、高血圧の人は控えるべきであると言われてきた。

しかし、血圧の高い人が飲むと下がるという報告もあり、実際は体に合わせて調整作用があるともいわれている。また、自律神経の乱れを整える作用もある。

皮を剥ぎ、根を天日で乾燥させたものを白参(はくじん、ペクサムj、皮を剥がずに湯通ししてから乾燥させたものを紅参(こうじん、ホンサム)ということもある。

なお、日本薬局方においては、根を蒸したものを紅参としている。他に、濃い砂糖水に漬け込んでから乾燥させる糖参もあり、白参に分類される。

江戸時代には大変に高価な生薬で、庶民には高嶺の花だった。

このため、分不相応なほど高額な治療を受けることを戒める「人参飲んで首括る」のことわざも生まれた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  
 
神の湯「玉造温泉」(玉湯町)
 
大国主命と一緒に国造をした少彦名命が発見したと伝えられる日本屈指の名湯。

出雲国風土記において神湯(かみのゆ)と記載されている。

忌部神戸(いんべのかむべ)。郡家の正西二十一里二百六十歩なり。

国造(くにのみやっこ)、神吉詞奏(かむよごとまを)しに、朝廷(みかど)に参向(まいむか)ふ時の御沐(みそぎ)の忌玉作(いみたまつく)る。

故(かれ)、忌部(いむべ)と云ふ。

即ち川の辺に湯を出す。

出湯(いでゆ)の在る所は、海陸(うみくが)を兼ねたり。

仍(よ)りて男も女も、老いたるも少(わか)きも、或(あ)るは道路(くがじ)を駱駅(ゆきか)ひ、或(あ)るは海中(うみじ)を洲(はまべ)に沿ひ、日(ひび)に集(つど)ひて市(いち)を成し、繽紛燕楽(うちむけてうたげあそ)ぶ。

一たび濯(すす)げば形容端正(かたちきらきら)しく、再び浴(ゆあみ)すれば、万(よろず)の病悉(やまいことごと)に除(のぞ)こる。

古(いにしえ)より今に至るまで、験(しるし)を得ずといふことなし。

故(かれ)、俗人(くにびと)、神湯(かみのゆ)と曰(い)ふなり。

〔通釈〕

忌部神戸の里庁は、意宇郡家から真西一一・六八九粁の所にある。

出雲の国造が新任の際、神吉詞を奏上するため朝廷に参上する時、御祓(みそぎ)をして天皇の康寿を祈るための清浄な玉を作る地である。

この玉を作る玉作氏は忌部氏の一族であるので忌部というのである。

この里の川辺には温泉が湧いている。

この温泉の出る所はちょうど海陸の景勝を兼ねた所であって、男も、女も、老人も、若者も、あるいは道路を往復し、あるいは海上を浜べに沿って行き、毎日のように集まって市場のような賑いをなし、また、入りみだれて酒宴を楽しんだりしている。

そしてこの湯で一度洗えば容貌も美しくなり、重ねて洗えば万病すべて治癒してしまう。

このように、昔から今まで例外なく効験を得ているので、世人はこれを神の湯と言っているのである。

[問]玉造温泉観光協会(0852-62-3300)[交通]山陰本線「玉造温泉駅」から玉造温泉行の一畑バス約10分、玉造温泉下車[場所]松江市玉湯町玉造

 
玉作りの里(玉湯町)
 
「出雲国風土記」によれば出雲国造は勾玉など儀式用のさまざまな玉を作って朝廷に献上していたとされ、玉湯町は古くからの「玉作りの里」として知られています。

玉の原石は碧玉とめのう、水晶で、これを採掘した坑が今も花仙山に数多く残っています。

また町内各地に玉作り遺跡が分布しています。

玉造温泉の東側の高台一帯はこれらの遺物が多数発見され、大正11年に生産遺跡として全国で初めて国の史跡の指定を受けています。

その後本格的な発掘調査が行われ、多数の玉作の工房祉、玉類の未完成品、玉作りの工具などが見つかり、古墳時代から平安時代にかけて大規模な玉作りが行われていたことが確認されました。

ここは出雲玉作史跡公園(2.8ヘクタール)として整備され、玉作り工房跡、復元家屋(竪穴式住居)、古墳などが保存されているほか、近くにはちびっ子広場や休憩広場、テニスコートもあります。

 
花仙山(玉湯町)
 
わが国で最も品質の高い碧玉を産出し、古代の玉作りや近世末期からのめのう細工を支えた山。
 
出雲玉作資料館(玉湯町)
 
史跡に隣接する出雲玉作資料館は全国で唯一の古代玉作りの資料館。

館内には出雲玉作跡からの出土品のほか伝統工芸の近代めのう細工、布志名焼などが展示されています。

玉作り作業の様子を示す模型などもあり、古代の玉作りを楽しく知ることができるのも魅力です。

また、この出雲玉作跡のひとつから出雲では最も古く全国でも最古級と思われる8世紀のたたら製鉄遺跡が発見され、話題を呼んでいます。

 
八雲本陣(宍道町)
 
堀尾、京極、松平の歴代松江藩主の本陣や大正天皇の御宿をつとめた木幡家は山陰地方屈指の旧家。

その大邸宅、八雲本陣は旅館として一般に開放されています。

正面玄関から縄のれんを分けて吹き抜けの広い土間に入ると、高い屋根裏天井には立派な木組み。

昔ながらの麻縄を操って開閉される引窓などもり、江戸時代にタイムスリップしたよう。

土間から座敷へ上がると、昔の母屋の"おもての間"にあたり本陣当時には藩主の居間となっていた10畳と6畳の続き問。

また廊下続きには汲み湯式の湯殿も残っています。

現存する数少ない本陣建築で、江戸時代中期の代表的な民家建築として国の重要文化財に指定されています。

アワビの貝殻を使った家伝料理「鴨の貝焼」は全国に知られる名物です。

[問]0852-66-0136[交通]JR山陰本線宍道駅から徒歩5分[場所]松江市宍道町宍道

 
蒐古館(宍道町)
 
静かな谷あいに蒐古館は白壁と石州瓦を使った古代建築をイメージさせる落ち前きある高床式の建物で、一級の美術品や貴重な民具を見ることができます。

館内の美術工芸室には本陣宿をつとめた木幡家収蔵の美術工芸品、丸山応挙、狩野探幽、池大雅などの著名な書画や松平不味公のお止屏風として知られる「源平合戦図」などが季節にあわせて展示されています。

また民具室には、さんぱ舟、シジミカキ、アミなどの漁具のほか、マサカリ、ゲンノウなど、来待石の加工道具も展示されています。

 
木幡山荘(宍道町)
 
蒐古館に隣接する木幡山荘(広さ約1万坪)には樹齢400年の老木が繁り、町並みからわずか500メートルの場所にこありながら、一歩足を踏み込めばそこはもうさながら探山幽谷の趣。

ツバキ、イチョウ、モミジ、ツツジなどの彩樹が古池を取り巻き、四季折々に.訪れる人を楽しませてくれます。

 
来待ストーンミュージアム(宍道町)
 
このあたりでしか産出されない貴重な石「来待石(凝灰質砂岩)」の採掘から石灯ろうになるまでの工程を紹介。

施設内のレストランは神秘的で大人のムード。

   
日本全国の観光温泉特産品グルメガイド 日本.全国.GUIDE「観光.温泉」ハイライトジャパン お問い合せはこちらへ→ info@tokusen.info