| 隠岐島後.隠岐の島町観光ガイド →隠岐島前観光はこちら |
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●隠岐への交通
境港(鳥取県)と七頬港(島根県)からフェリー「しらしま」「くにが」「おきじ」が、前記2港と加賀港(島根県)からは超高速船「レインボー」「レインボー2」が就航。島前の来居港(知夫里島)、浦郷港と別府港(西ノ島)、菱浦港(中ノ島)、島後は西郷港に寄港する。空路では西郷の隠岐空港へ大阪(伊丹)と出雲から1日1便就航。季節により経路や所要時間、便数が変わるので要問合せ。
●隠岐内の連絡船
島前・島後間の連絡はフェリーか超高速船、島前3島間は「いそかぜ」(定期便は1日1、2便程度)を利用。菱浦港(中ノ島)〜別府港(西ノ島)間なら「びんご」(1日8〜9便運航)が便利。
●問い合せ
島根県観光連盟(0852-21-3969)・隠岐観光協会(大阪事務所06-6314-1131) 隠岐観光協会(東京事務所03-3863-3134) |
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| 隠岐…美しい自然と配流の島という歴史が育んだ人々の素朴な人情と独特の文化 ! |
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本土から約40キロの日本海に浮かぶ隠岐は、住民の住む4つの島など大小約180の島々からなる諸島です。抜けるような青空と紺碧の海がたくましさと躍動感を感じさせる夏の隠岐。そして北西の季節風がもたらす風波に荒れる日本海に不気味ささえ感じる冬の隠岐。これら自然の明と暗が織りなす島嶼(とうしょう)環境の中で、古来、日本海という自然の大動脈を通じて大陸の先進文化が日本本土に伝来しましたが、隠岐はその玄関口であり、また中継点にありました。当時の日本にとつての国際社会とは、中国の歴代王朝を中心とした束アジア文化圏であり、、まさに「環日本海文化圏」であったといえます。この大陸文化の影響を強く受けた日本の原始、古代から中世の歴史の涜れの中で「流人の島」隠岐の歴史と文化が育まれました。
近世に入ると、越前、加賀などの「北前船」の活動が活発化しできました。本土各地との商業活動も始まり、隠岐は「辺境の島嶼」ではなく、本土の生活や文化が移入され、本土の情報も容易に伝えられる島へと変貌していきました。隠岐を代表する民謡「しげさ節」や「どっさり節」など独特の情緒を持つ隠岐民謡には、蝦夷地(現在の北海道)から九州までを行き来する船頭によって伝えられた各地の文化や民謡から発達したものが多いのです。
また新聞記者の安井武己氏は「隠岐の島起こしを考える」という特集記事「山陰中央新報』1991年1月20日で「海岸美や固有の動植物といつた美しい自然、貴人の配流の島だったことなどによる歴史資料の豊かさ、さらに島民の素朴な人柄、人情味」を"静的な要素"と呼び、「祭りや牛突き、柑撲に狩猟、釣りといった躍動感あふれる勇壮な」ものを"動的な要素"と呼んでいます。そして「静の穏やかな隠岐と、動の雄々しい隠岐。この対極に位置する二つの要素を、隠岐はどちらも持っており、「対極であるからこそ、互いに相手の要素を際立たせているともいえる」と述べています。
隠岐は本土が長い歴史の中で失っていった人情や伝説を、離島という厳しい自然環境であったことから、後世に継承し、より豊かなものにしていったといえます。そして厳しい環境の中で育まれた「たくましい」島民の「優しさ」は来島者を歓待し、大きく包み込みました。ラフカディオハーン(小泉八雲)もまた隠岐を訪れてその魅力にとりつかれ、旅行記「伯耆から隠岐へ=知られぬ日本の面影」を残しています。その中で「少なくとも島前では現代の人工的もの総ての範囲を脱して自己を識る歓喜をそこで感じた」と述べたハーンは晩年、隠岐に家を建てて住みたいと念願していたと伝えられています。
【隠岐の地名由来】
隠岐島は『古事記』『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が4番目にお生みになった土地で「隠岐の三子州(みつこしま)」と書かれています。「隠岐の三子州」とは、島後が親島で、島前の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親鳥に率いられた三つの子島の意味であるといいます。喜田貞吉博士によると島前三島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとってオキの島と呼称されるようになったということです。しかし『記紀』には、隠岐の地名由来は書かれておらず、なぜ「隠岐」の字を当てるようになったか定かではありません。オキと呼ぶようになった伝承として天照大神が、この島の40余丈もある木をご覧になって「美しき御木だ」といわれたことから、御木と付いたとも語り伝えられています。島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、次いで島全体の名称として沖の島が呼び名となったのでしょう。
【島の明治維新】
慶応4年(1968)西郷隆盛と勝海舟が江戸開城をめぐつて歴史的な会談を持ったころ、天領で松江藩預り地だった隠岐では、一般的に「隠岐騒動」と呼ばれる日本史上でも有名な事件が起きています。
この事件は同年2月に明泊新政府の山陰道鎮撫使(西園寺公望)が発した公翰(こうかん)を松江藩吏が無断で開封したことへの不満を直接の契機として、崎門(きもん)学の中沼了三(隠岐出身)らの影響をうけた島後の神官、庄屋層ら「正義党」が郡代の追放を決定し、3月に島民約三千人がほう起したものでした。そして郡代追放に成功した正義党は、西郷に会議所、総会所を中心とした日本史上でも画期的な自治政権を樹立したのでした。しかし、事件は戊辰戦争という内乱中のことで、中央政界の思惑も絡み、結局、新政府の命を受けた松江藩によって5月に武力鎮圧され、自治は80日間で終焉を迎えました。
この事件の原因は幕末以来の打ち毀しと対外的な危機感、そして天領の島民の持つ優越感が松江藩の支配に対して持っていた不満と「御一新」への期待感だったと考えられています。
この事件後の明治2年(1869)の春から夏にかけて島民の反封建的な革命エネルギーは、鬱積した不満の爆発のように、島内九十九の寺院と仏像の破壊や寺領百七十四町歩の没収という徹底した「廃仏毀釈」を生むのでした。
【隠岐闘牛(牛突き)】
承久3年(1221)8月、隠岐に到着した後鳥羽上皇は、船で海士の行在所(あんざいしょ)に向かいましたが、風波のために崎村から陸路で海士の苅田郷へ向かうことになりました。その途中で牧場の牛が角を突きあわせて戯れている情景に、上皇は大変喜ばれたそうです。その後、島人は上皇の心を慰めるために度々闘牛を催しました。これが隠岐の闘牛「牛突き」の起源と伝えられています。島民の娯楽として全島で行われて来ましたが、現在では島後にのみ残っている。
牛突きに出場するのは三歳から五歳までの隠岐産の牛に限られています。横綱クラスの牛になるには四、五年くらいかかり、体重は八百キロを越えるそうです。
各所で催される牛突き大会の中で、都万村壇鏡神社の八朔祭り(9月1日)に開かれる奉納牛突き大会が最も伝統をもち、年数回の牛突きの決勝大会とも言うべきものである。
牛突き用の牛は、初め農耕牛を使っていたが、現在は牛突き専用として生後1年ぐらいから訓練し、飼料も特殊なものを与え、丹精して牛突き用の牛に仕立てあげる。いよいよ決戦の日、島内各地から盛装して集まった牛たちが、大勢の観衆に見守られ東西に分かれて入場してくると、場内は熱気に包まれる。
いよいよ本番に入ると、頭取の合図で仕切りに入り、しばらく見合ったのち激しい突き合いが始まる。
勝敗をにぎる綱取りの男のきびしいかけ声に、鋭く削った角で突き合い、巨体をぶつけ合い血を流しながらの死闘が数十分、時には1時間にも及び、そのスリルと興奮は一方の牛が悲鳴をあげて逃げだした瞬間頂点に達し、勝った牛の回りには人々が我先にと駆け寄り、争ってその背にとび乗ろうとする。
隠岐の牛突大会は都万村以外に五箇村でも奉納大会(10月13日)が行われるほか、最近では観光用として西郷町などでも開かれている。しかし農耕に牛を使わなくなった近年、牛を育てる家が減り、牛の出場頭数が少なくなって釆ているのは淋しい限りである。
【隠岐国分寺蓮華会舞】
天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によ天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって、隠岐にも国分寺、国分尼寺が建てられました。七堂伽藍がそび、え、島内随一の壮麗さを誇ったと伝えられています。しかし、この国分寺の伽藍は明治2年(1869)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって焼失してしまいました。
この国分寺の檀徒によって現在に伝えられている風流が蓮華会舞で、「蓮華会」とは蓮の花が咲くころに行われる法会がいわれとされています。この舞楽や仮面劇の起源は奈良時代から平安時代に、インド・ビルマ・中国・朝鮮など広くアジア各地から伝えられたものとされています。
蓮華会舞は120種類以上の舞があったといわれていますが、現在は4月21日に、眠り仏・獅子舞・太平楽・麦焼き・山神貴徳(さんじんきとく)・竜王・仏舞の七番が、六孔笛・太鼓・饒ハチの雅楽が奏でられる中で舞われます。国の重要無形民俗文化財に指足されています。
【しげさ節】
隠岐は民謡の宝庫といわれます。隠岐を訪れた人がこの地の民謡を開いて、どこかで耳にしたことがあるような感覚を持つことがあります。
隠岐といえば昔から遠流の島といわれ、絶海の孤島のイメージがありますが、江戸時代の中期には本土の西からも東からも数多くの商船が往来して、西郷港などは大いににぎわいました。遠路を航海する船乗りにとって、寄港地での楽しみといえば酒やお国自慢の歌で、これらの歌は船が出た後も島に置き土産として残りました。いつの問にか日本各地の民謡は島の人情風俗に密着した歌詞に変えられて、やがて歌全体が島の人々のものになっていきました。
しげさ節は、越後民謡のメロディだけが残ったものといわれ、元歌は御開帳の様子を歌った真宗の和讃だといわれています。
隠岐で忘れてならないもう一つの民謡「どっさり節」は、「津軽じょんがら節」と同じ歌から誕生したものです。しかし、隠岐と津軽の風土の差でこれほど違った歌になってしまったのです。 |
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隠岐は絵の島花の島 磯にゃ浪の花咲き 里にゃ人情の花が咲く
船は出でいく波止場には いとし島の娘が 涙でうたうしげさ節 |
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【隠岐神楽】
島根には今も幾多の貴重な民俗芸能が伝承されています。これらを大まかに分類すると、神楽、獅子舞、田楽、風流、祭礼風流、舞楽、地芝居、人形芝居などに分けられます。中でも神楽は特に多く、全芸能の半分は神楽といっても過言ではありません。かつての村単位で一つ、中には二つといった組織で伝承され習いる所もあります。これは全国でも広島県とともに最も多い数といわれています。
神楽はわが国の代表的な神事芸能で、神霊を迎える座を意味します。従って神を招く所作を演ずることで、やがて神がかり状態になり託宣を行うというのが本来の筋で、七座神事と神能とから構成されています。今では神楽というと面を着けて舞い、長胴の大蛇を出したり火炎を吹かせたりする神話劇である神能を意味するようになっていますが、本来はそうしたものではありませんでした。
島根の神楽はそれぞれ舞い方、奏楽など違いはありますが、大きく出雲神楽、石見神楽、隠岐神楽に分けることができます。中でも出雲神楽は県内はもちろん全国に大きな影響を及ぼし、石見神楽は安芸、長門・方面にも影響を及ぼしてきました。出雲神楽は構成が七座と神能に整然と分けられていることが特徴です。七座とは神事のことで、素面で剣や榊を持って清めたりはらったりして舞うもので、古来の祭式が舞踊化したものと考えられています。神能とは神話劇で、鬼や大蛇、命、姫などが登場します。着面の神能も各地で多少異なりますが、国指定の佐陀神能が能の方式をとる独特のもので、慶長以来出雲はもちろん石見、隠岐、備後、備中など各地に影響を与えました。
石見神楽の社中は大小数えれば現在二百社を下らないといわれ、石見だけでなく長門・安芸の一部にまで見られます。出雲神楽との違いは、七座と神能が出雲ほど整然と分かれておらず、大部分は演劇風の能神楽で、本来の神楽からはさらに前進したショー化したものも多く見られます。ただし邑智郡桜江町市山に本部を置く大元神楽は神職により夜通し厳粛に舞われる神事舞で、古来からの託宣舞が継承されています。
隠岐の神楽は神社の祭礼よりもむしろ大漁とか豊作の祈願などのために舞われてきた祈願の神楽というところに特徴があります。社家といわれる専門の神楽師により伝承されてきました。演劇風のものが少なく、巫女舞が多いことも特徴の一つです。 |
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| 国立公園・隠岐観光 |
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変化に富んだ海岸線
隠岐の海岸線を見ると、外海に面した場所と湾内とではその景観が一変しているのに驚かされます。また浸食の激しい外海部でも、冬期に季節風が吹きつける北西部の海岸は特に激しく、巨大な海食崖や海食洞が多く見られます。海食崖の代表は何といっても国賀海岸の摩天崖です。海上からほぼ垂直にそそり立つ257メートルの岩壁はまさに絶景といえるでしょう。また知夫村の赤壁など、ほかにも多くの優れた海食崖の景勝地があります。海食洞の代表的なものも国賀海岸に見られます。巨大な岩の架け橋通天橋や、200メートルにも及ぶ天然のトンネル明暗の岩屋など、大小さまざまな変化に富んだ海食洞が多く見られまず。
また海岸や小島にはクロマツが茂り、海岸の景観をより素晴らしいものにしています。クロマツの林床や海岸部には、オキノアブラギクやオキタンポポ、トウテイラン、ダルマギク、オキノアザミなどの隠岐を代表する植物が多く生息しています。
このほか、大波加(おおはか)島や星神(ほしかみ)島などの無人島では数千羽のオオミズナギドリが子育てをしており、菱浦港や別府港ではクロキヅタが生息しています。このクロキヅタは紅海や大西洋にしか生育しない珍しい滞藻なのですが、不思議なことに隠岐にも見られ、海藻としてはわが国唯一の天然記念物に指定されています。
このように非常に変化に富み優れた景観を有する隠岐の海岸線は、昭和38年に大山隠岐国立公園に指定され、その保護と利用がm図られてられています。
豊かな内陸部の自然
隠岐に渡ってみると想像以上に島が大きく、結構山国なんだなという感想を漏らす人が多くいます。特に島後は島も大きく山も険しいため、いったん内陸部に入り込むと島というイメージは消え去ります。隠岐最高峰の大満寺山は標高608メートル。一連の山塊は急峻で岩場も多く、トカゲ岩や鷲ヶ峰のびょうぷ岩など県下でも第一級の景勝地が見られます。また植生も豊かで陵線や尾根部にはクロベ、ヒメコマツなどが生育し、林床にはオキシャクナゲが群生しています。このオキシャクナゲはホンシヤクナゲの一品種で、葉が小さく鉢物などに適し土産物としても利用されています。またわが国で最も低い場所に自生しているところから、暖かい気候にも耐え栽培しやすいシャクナゲといわれています。
谷奥部などにはスギやモミ、ウラジロガシなどが生い茂り、老木や岩場には地元で「隠岐ふうらん」と呼ばれるナゴランや 「ささふうらん」と呼ばれるフウラン、セッコクなどの着生ランが生育しています。しかし、残念なことに近年は乱獲等のため自生しているものはほとんど見られなくなつてしまいました。また布施村の中谷奥には、樹令250年以上といわれるスギの巨木林があり注目を集めています。最近、歩道や展望所が整備されたこともあり、ここを訪れる人が多くなりました。
内陸部の林内には隠岐島固有の種であるオキノウサギやオキサンシヨウウオ、オキタゴガエル、オキオサムシ、オキマイマイなど珍しい生物が多く生息しており、ヤマネ(天然記念物)やカラスバトも生息しています。このように大満寺山一帯には優れた自然が残っており、国立公園にも指定されています。よく隠岐島全域が国立公園の指定区域のように思われがちですが、指定されているのは海岸部と内陸部ではこの大満寺山を中心とする一部だけなのです。
このほか隠岐島は中国地方唯一の黒曜石の産地として知られ、今でも五箇村の一部では土産物の原料として掘り出されています。この黒曜石はマグマが急激に冷やされ、結晶になる前にガラス状に固まったもので、割れ口が馬のひずめのようになるのが特徴です。この割れ口がカミソリの刃のように鋭いところから、縄文時代には矢じりなど重要な生活道具として使われました。 |
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| 遠流の島・隠岐…天皇、公家、学者など、隠岐の文化に大きな影響を与えた多くの流人 ! |
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隠岐は「涜人の島」とよくいわれます。作家の司馬遼太郎は「日本史上の離れ座敷」と呼び、歴史の半面は「流人の歴史である」と言っています。また「隠岐国」とも呼ばれます。それは隠岐が佐渡、淡路、対馬、壱岐の四島とともに、八世紀に体系化された律令制度によって、一島で一国とされたからです。
隠岐が流刑の地となったのは、佐渡、常陸、安房、伊豆、土佐と合わせて、律令制度によって流刑の中でも最も重い「遠流の地」と定められてからでした。それ以来、江戸時代の終わりにかけて、天皇や皇族、公家、学者、僧侶などたくさんの人々が流されました。近世までの流人は政治犯がほとんどだったようですが、それ以後、隠岐には近畿、山陰、山陽方面の主として犯罪者が流刑されたようです。流人の中には隠岐の歴史を彩った人々が何人かいます。そのうちの一人、平安時代の学者で公家の小野篁(小野小町の祖父)は承和元年(834)に遣唐副使に任命され、中国へ派遣されることになりましたが、大使の藤原常嗣との間で遣唐船の交換を巡って対立、抗議した篁は病気と偽り、命令に服さなかったため承和5年に隠岐へ涜刑となったのです。篁は相当な文化人で、しかも美男の都会人だったので大変もて、二年の在島期間に三人の島の女性との恋の話が伝わっています。中でも美しい村の長者の娘「阿古那(奈)」との悲恋は、篁が阿古那に贈った二体の木像彫刻(西郷町上西の都万目に伝わっている歯痛に霊験があるとされる地蔵堂の「あごなし地蔵」)の伝説とともに、島人の哀感を伝えています。 |
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| 思いきや ひなの別れにおとろへて あまのなはたぎ いさりせんとは 小野 篁『古今和歌集』 |
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延応元年(1239)2月22日に、隠岐で60歳の生涯を閉じたのは後鳥羽上皇です。上皇は寿永2年(1183)に祖父の後白河法皇の院政のもとで天皇に即位し、建久9年(1198)から院政を行いました。上皇は朝廷での親幕勢力の排除に努め、公家勢カの伸張を図りました。そして、ついに承久3年(1221)こ朝権回復を目指し、時の鎌倉幕府の執権北条義時の追討を命じ挙兵しましたが、幕府軍に完敗しました。この承久の乱の失敗によって、上皇は隠岐へ配流されることになったのです。この年の8月に隠岐へ到着した上皇一行は、侍二人と女官、医師それぞれ一人のわずか四人の従者だけだったといわれます。
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| われこそは 新島もりよ おきの海の 荒き波風 こころして吹け 後鳥羽上皇『遠島百首』 |
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この和歌は渡海の際に、上皇が船中で詠まれたと伝えられています。
行在所は海士町苅田の勝田山の源福寺境内に急造され、近くには在地の豪族村上氏の居館があり、上皇のお世話をしていました。上皇はこの粗末な行宮で多くの和歌を詠み、在島中の御製は『遠島百首』にまとめられています。また上皇自身の勅撰によって藤原定家らに撰修させた『新古今和歌集』をさらに厳撰し、御製も含めた三百八十余首を取捨し『隠岐本新古今和歌集』を撰修しました。
豪気な気性で相撲、水泳、流鏑馬など武道を好み、和歌や管弦にも長じた文武両道の後鳥羽上皇は在島19年、わびしい隠岐の行在所でついに病を得、幕府打倒と都への遷幸の望みを果たすことなく、一生を終えたのでした。
後鳥羽上皇の没後百年近く経って、上皇同様、鎌倉幕府を打倒して天皇親政を実現しようとしたのが、後醍醐天皇でした。天皇は鎌倉末期の正中(しょうちゅう)の変(正中元年、1324)に次いで、元弘元年(1331)に元弘の変を起こし失敗しました。幕府は捕らえた天皇の隠岐配流を決定し、天皇一行は翌年3月に京都を出発しました。お供は一条行房、六条忠顕、三位局廉子という寂しいものだったと伝えられています。4月1日に美保関から隠岐へ向けて出航、翌日到着しました。隠岐での天皇の心境について |
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| すまのあま 浦こぐ舟の 輯をたえ よるべなき身ぞ 悲しかりける 後醍醐天皇『続古今和歌集』 |
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などの和歌が残されています。
今も論争が続いているのが、天皇の行在所問題です。口碑伝説を根拠にする島前黒木御所説(西ノ島町)と、文献資料に依拠する島後国分寺説(西郷町)の二説です。どちらの説も決定的とはいえず、今後の研究と史料調査の進展が期待されます。
強烈な個性と強固な意志を持った天皇は在地の豪族近藤氏や村上氏等の支援もあり、島外の倒幕派と密接な連絡を取り、脱出の機会を狙っていました。そして、元弘3年(1333)閏(うるう)2月、六条忠顕ら二、三人と隠岐脱出を実行し、追っ手の難を逃れ、島根半島の浦々を転々とし、伯耆の港に到着しました。伯耆の御来屋に着いたと伝えられる天皇は、在地の豪族名和長年に擁されて船上山に入り、ここに建武の新政実現への一歩をしるしたのでした。
ここで紹介した三人以外にも、伝説の域を出ないものも含めて、多くの流人がいます。隠岐の流人第一号といわれる柿木躬都良麿(人麻呂の子)、奈良時代の女性涜人名草直(なぐさのあたい)高根女、淳仁天皇の弟船王、八幡太郎義家の子源義視、後鳥羽上皇を批判した僧文覚上人、そして江戸初期に派手な宮中女官との遊蕩乱行をとがめられた飛鳥井少将雅賢などが配涜されています。
このように隠岐に流刑になった人々の数は、三千人を下らないといわれています。この流人たちの悲喜こもごもの思いや島の人たちとの交流が、伝説や民謡などの中に残って、今に伝えられています。 |
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| 「公卿の子が泣く 知夫里の島で 母に鼓がついたやら……」 (隠岐の麦つき歌) |
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| 隠岐温泉 GOKA…絶景グルメ、隠岐島の温泉! →隠岐温泉GOKA |
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| 隠岐一の平野が広がる五箇地域の広々とした地に建つ隠岐温泉GOKAは、隠岐島後唯一の温泉。ゆっくりと温泉浴が楽しめる浴室、温泉プール感覚の水着コーナー、ゆったりとしたレイアウトのロビーでくつろぐことができる。山と田園風景を眺めながらのんぴりすれば心身ともにリフレッシュ。名物「隠岐そば」も味わえます(期間限定11〜4月) |
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隠岐に伝来した天平の舞は典雅で優雅
麦焼きの舞、眠り仏の舞、龍王の舞、大平楽、二人舞、山神貴徳の舞など、それぞれ変った名前がついているこの舞は、蓮華会舞と呼ばれ、毎年4月21日隠岐国分寺の祭事に野外ステ一ジにて奉納されるものです。この蓮華会舞は、大陸文化が盛んに輸入された奈良朝時代、いくつかの珍しい芸能が輸入されたものの中の一つであり、かつては120種を数える舞があったのですが、明治維新の廃仏毀釈により多くのものがすたれ、現在7種類の舞が保存伝承されている大変貴重なものです。桜の散る中でこの天平の文化の香りのする典雅で優雅な舞が奉納されます。 |
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隠岐国分寺
隠岐国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の詔で諸国に建立されたもののひとつです。明泊初年までは、本堂をはじめとし庫裡、鐘楼、仁王門など数多くの当時を物語る建物が残されていたのですが、全国的に広がった廃仏毀釈運動により、ほとんどのものが焼失してしまったのです。その後、本堂などは昭和になり再建され、廃仏毀釈により両手を失った四天王像が安置されています。また、蓮華会舞の面、獅子頭などや後醍醐天皇の隠岐脱出を現す絵が陳列されており、後醍醐天皇の行在所とみなされ、昭和9年に国の史跡に指定されています。
問08512-5-2934・3月16日〜11月19日の8:00〜17:00(夏季は延長あり)・休(期間中無休)・300円・西郷港から隠岐一畑交通バスで17分、国分寺前下車、徒歩5分・P30台・西郷町池田風呂前 |
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玉若酢命神社と駅鈴
玉若酢命神社は、「延書式」にも載る島後では由緒ある神社のひとつです。また、隠岐国の総社でもあり、総社大明神と呼ばれていました。本殿は、隠岐造りと呼ばれる建築形式で、茅葺きの屋根や千木、堅魚木の上に雀踊などの横木が置かれるなど、素朴さの中にも威厳が感じられる建物です。参道をのぼり、神門をくぐると右側に高さ30m、根元の周囲20m、樹齢2000年を超える杉の大木、八百杉があります。この八百杉は昭和4年(1929)に国の天然記念物に指定されています。
問08512-2-0571・参拝自由・西郷港から隠岐一畑交通バスで5分、玉若酢神社前下車すぐ・P15台・西郷町しも西 |
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億岐家宝物館
玉若酢命神社の宮司をつとめる億岐家は、隠岐国造の家系で、古くより駅鈴と倉印が伝わっています。駅鈴は、律令時代に宮人が駅馬を徴するとき、この駅鈴を示し宮人であるという証拠としたものといわれています。また、倉印は税の出納に使用したもので、この隠岐の倉印のほかに駿河、但馬の国に伝えられている日本に現存している三倉印の一つであり、駅鈴、倉印共に昭和10年(1935)に国の重要文化財に指定されています。
問08512-2-0571・8:00〜18:00・無休・300円・参拝自由・西郷港から隠岐一畑交通バスで5分、玉若酢神社前下車すぐ・P玉若酢神社の駐車場利用・西郷町下西713 |
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白島海岸
島後の最北端、白島崎の北方には、松島や沖島、白鳥などの島々が多く見られ、ここを白島海岸と呼ばれ、昭和13年(1938)国の名勝および天然記念物に指定されています。沖島は、天然記念物のオオミズナギドリの繁殖地であり、また、小白島は長い年月による風化や海食作用などによって、ちょうど巨象が鼻で海水を吸いあげているような形の岩があり、これを「象が鼻」と呼ばれています。その他多くの景勝があり、この特異な風景美を見るために多くの人々が訪れます。
汐浜ヨットハーバーは、西郷港東側の立木地区にあり、自然が造りだした入江を整備し、自然との調和がとれている全国でも有数のヨットハーバーです。
問08512-2-0787(隠岐観光協会)・展望台へは西郷港から隠岐一畑交通バスで55分、白島入口下車、徒歩30分・P30台・玉若酢神社の駐車場利用・西郷町西村 |
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塩浜海水浴場
汐浜ヨットハーバーの南西側にある小さな半島を越えた所に塩浜海水浴場があります。遠浅の砂浜を持つこの海水浴場は毎年夏になると、多くの観光客が訪れ賑わいます。 |
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よろい岩・かぶと岩
中村港の東端に突き出た岬一帯・海苔田鼻の先端にある巨岩。柱状節理のアルカリ粗面岩に黒い玄武岩がのったもので、よろい岩は高さ60mに達する奇勝である。 |
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佐々木家
隠岐最古の木造住宅。母屋は杉皮葺き、石置き屋根、切妻平屋建て。寛政4年に建てられたもので、屋敷内 には農具、飲食用具、灯火用具など重要な民俗資料が多数展示されている。
問08512-2-0787(西郷町観光協会)・3〜11月の9:00〜17:00・休(期間中月曜、祝日の場合は翌日休)・12〜2月の土・日曜、祝日)・200円・西郷港から隠岐一畑交通バスで20分、釜入口下車、徒歩3分・P付近可・西郷町釜 |
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隠岐自然館
隠岐自然館は、海と島と生きものをテーマに臨場感あふれる自然系の見学施設。
●水族館………………隠岐近海の魚たち
●生き物たち展示……動物、鳥、昆虫、貝類、甲殻類
●シアターコーナー…オオミズナギドリの子育て・隠岐海中散歩
※レインボープラザ…隠岐観光の紹介コーナー・無料休憩所
問08512-2-1583・8:30〜18:00(11〜3月は17:30まで)・無休・350円・西郷港からすぐ・P8台・西郷町西村 |
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隠岐ポートプラザ
1Fには観光案内所、チケットカウンター、2Fは隠岐自然館、3F〜6Fはホテル。隠岐観光の拠点施設です。 |
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隠岐モーモードーム
全国初の全天候型木造ドーム型の牛突き場で、迫力ある隠岐の牛突きが天候に関係なく楽しめる、隠岐の新しい観光スポットです。 |
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トンド祭り
毎年1月15日に行われる漁業地区、今津地区のトンド祭は、隠岐島の各地区で行われている中でも、その勇壮さやスケールの大きさからいって最も華やかであり、島内各地からも大勢の人々が訪れます。燃え上がる火の粉、海中に倒れる青竹。対岸からは一斉に裸の若衆が海に飛び込み、燃え落ちる青竹を奪い合うという勇壮なもので、持ち帰った竹は縁起物として、その年の厄年、出産等の家庭に贈られるのです。 |
しげさ節
隠岐は民謡の島とも呼ばれ、多くの民謡が島の人々によって唄い継がれてきています。かつて北前船が盛んだった頃、各地の文化や民謡を置きみやげとして、この島に持ち込まれた数々の唄が隠岐民謡として隠岐の人情や風俗に溶け込み生きつづけてきたのです。なかでも「しげさ節」は最もポピュラーな民謡であり、全国的にその名前が知られています。毎年5月には、隠岐島文化会館などで、しげさ節全国大会が開かれ、全国の民謡愛好者が集い、自慢ののどを競います。 |
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ローソク島
ロウソク島は、尾白鼻の北東500mの沖合いにある高さ20mのちょうど一本のロウソクが海面より垂直にそびえ立っているような岩です。夕陽がこの岩の頂きに落ちると、まるでロウソクに灯がともったようで、その眺めは格別です。 |
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水若酢神社
水若酢神社は隠岐一の宮で、祭神は水若酢命ほか2柱です。大きな黒松群に囲まれた本殿は隠岐造りで寛政7年(1795)の建立という古社です。
問08512-5-2017(五箇村観光協会)・境内自由・西郷港から隠岐一畑交通バスで30分、水若酢神社前下車、徒歩3分・P30台・五箇村郡 |
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水若酢神社の大祭
隠岐三大祭のひとつである水若酢神社の大祭は、昭和48年(1973)3月に県の無形文化財に指定されており、隔年の5月3日、山曳神事で祭りの幕開けとなります。この山曳神事は、揃いのハッピに襷、鉢巻姿の7歳くらいまでの男児が父親たちに手を引かれながら山車を引きます。又、勇壮な獅子舞や悪霊の退散と五穀豊穣を構った流鏑馬の神事などが行われ、大勢の人々で賑わいます。 |
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牛突き
隠岐の民俗行事で最も有名なのがこの牛突き。その昔、後鳥羽院が隠岐の中ノ島に連流された時、院を慰めるために島民がお見せしたのが始まりといわれています。前頭から横綱まで約10番の取り組みを行う本格的なものの他、夏季には観光牛突きも催されます。 |
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久見神楽
伊勢命神社の例祭に奉納され、平成偶数年は7月25日、奇数年には26日に開催されています。懐かしい太鼓や笛の音とともに繰りひ ろげられ、一度観るとそのストーリーのおもしろさに驚かされます。迫力ある動きと鮮やかな衣装も、深く心に残る伝統行事です。 |
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福浦トンネル
五節村の最北端にある、重栖港の西にある凝灰岩をくり抜いて造ったのが、福浦トンネルです。入口は高さ約100m、幅80mの黒滝岩で、日本では珍しい黒曜石からなっています。トンネルの途中にいくつか開けられた窓から見える青い海は素晴しい眺めです。 |
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隠岐郷土館
明治初期の洋風木造建築であり、県の文化財に指定されているのが隠岐郷土館です。この白亜の建物は、明治18年(1885)周吉郡など3郡の郡役所として西郷町に建てられ、後に隠岐支庁庁舎として使用されていましたが、新庁舎の建築に伴い、五節村が明治百年記念事業として、この現在地である水若酢神社の隣接地に移転復元しました。昭和45年(1970)の6月に隠岐郷土館として開館し、漁搭用具や農耕用具など生産用具674点が国指定重要有形民俗文化財として、又、家具調度や衣服装身具など1271点が県指定有形民俗文化財として展示されています。
問08512-5-2151・9:00〜17:00・休(12〜2月の土・日曜、祝日)・300円・西郷港から隠岐一畑交通バスで30分、水若酢神社前下車徒歩5分・P10台・五箇村郡749-4 |
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五箇創生館
隠岐の伝統文化と観光の伝承施設、五箇創生館。ここで予習してから回るもよし、想い出の場面を振り返るのもよし。島民の娯楽として古くから伝わる「牛突き」、隠岐独特の風習を持つ「古典相撲」、そして「隠岐の花々」などを大型映像シアターで紹介しています。
問08512-5-2845・9:00〜17:00・休(12〜2月の土・日曜、祝日)・500円・西郷港から隠岐一畑交通バスで30分、水若酢神社前下車徒歩分・P15台・五箇村郡615-1 |
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隠岐温泉GOKA
隠岐島唯一の温泉施設としてあらゆる効能を取り揃えている隠岐温泉GOKA。温熱、水圧、浮力などの物理作用のほか、隠岐の自然環境による転地効果などさまざまです。ゆっくりとお湯につかる浴室、温泉プール感覚で楽しめる水着コーナー、休憩ロビーやリフレッシュ後の化粧コーナーと施設も充実。悪から降り注ぐ陽の光も−役買っています。
問08512-5-3200・14:00〜20:00(11〜3月は19:15まで)・休(月曜、休みの場合は翌日休)・500円・西郷港から隠岐一畑交通バスで40分、五箇役場前下車、徒歩3分・P150台・五箇村南方296-1 |
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ログハウス
大自然の中、アウトドアの基地が、木の温りを満喫できるこのログハウスです。スポーツなら海水浴はもちろん、ハイキング、釣りなど家族連れやグループでワイワイ楽しめます。すぐ裏には深浦滝もあり、まるで空から降り注ぐような美しさが見事です。ウッディ感あふれる室内は冷暖房完備、テレビ、電話、冷蔵庫、食事用具一式といった設備が揃っているので安心。ここはひとつ隠岐の新鮮な海の幸をいち早く手料理、なんて贅沢はいかが。 |
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隠岐しゃくなげ園
郷土館近くに建つ隠岐しゃくなげ園。ここにあるのは、オキシヤクナゲという隠岐特有の品種で、その数およそ1万株。4〜5月上旬にいっせいに咲き誇り、園内一面をピンク色に染め上げます。杉木立の小山いっぱいうめつくす様子は、まさに絵にも描けない美しさです。
問08512-5-3256・9:00〜17:00・休(開花期以外は不定休)・開花期は500円・西郷港から隠岐一畑交通バスで30分、水若酢神社前下車、徒歩5分・P20台・五箇村郡860 |
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ホテル海音里
快適そのものの休日を味わえるオアシスといえば、ここホテル海音里。隣接するログハウスのテニスコートからのさわやかなボールの音も心地よく響いてきます。少し離れた吉浦キャンプ場には10張り分のテントサイトがあり、ローソク島に落ちる夕陽を見た後キャンプファイヤーなどという自然派にとってはこたえられないプランも楽しめます。 |
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黒曜石
黒曜石は、全国でも数箇所でしか産出しておらず大変貴重なものです。この隠岐の黒曜石は、破砕すればガラス質のシャープな刃物のような切口となり、縄文や弥生時代は、鉄や石鑓などに加工されていました。今では、この素朴で深みのある黒曜石を使い、民芸品や装飾品として多くの人たちに愛用されています。 |
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日本の滝百選・全国名水百選に選ばれた壇境の滝
壇境の滝は、耶久地区から約4kmの横尾山山中にあります。那久川の上流にまるで屏風を広げたような岩壁の中央に壇境神社があり、この神社を中心にして落差40mもある雄滝と雌滝があります。この滝は、裏見の滝として有名であり日本の滝百選に選ばれました。また、全国名水百選にも選ばれているほど水質がよく、牛突き大会や隠岐古典相撲大会の勝利を運ぶ水、万病に効く長寿の水としても地元の住民に重宝がられています。また、その昔、嵯峨上皇の逆鱗に触れ隠岐に流刑された遣唐副使・小野篁が赦免を祈願してこの滝に打たれたとも伝えられています。
問08512-6-2037(都万村観光協会)・西郷港から車で40分・P10台・都万村那久 |
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那久岬
高台に展望台があり、天候の良い日には島前を望むことができる。また、灯台まで散歩道があり、潮騒を聞きながら眼下の海も見渡せる。 |
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屋那の松原
屋那の松原は、都万漁港の右手にある老木が繁る美しい松林で、昭和62年の1月、日本白砂青松百選に選ばれています。伝説によれば、昔都万村は大変災害の多い土地で、そのため飢えに苦しむ人が沢山いました。ある時、村の八百比丘尼という美しい一人の娘の枕元で神様のお告げがありました。それは一夜のうちに千本の松を屋那海岸に植えれば村を災害から守ってやるというものでした。娘はそのお告げ通り一夜のうちに松を植え、それからというもの災害の少ない豊かな村になったといわれてます。
問08512-6-2037(都万村観光協会)・西郷港から隠岐一畑交通バスで35分、釜屋下車すぐ・P付近に可・都万村都万。 |
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屋那の舟小屋
松原の近くには、杉皮葺きの昔な)群が建ち並び、独特の雰囲気をかもしだしています。 |
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都万村遊魚管理センター
白砂で遠浅の海水浴揚があり、家族達者で賑わう。また釣堀、地曳綱、遊漁案内もできる多目的行楽地である。近隣に多目的広場、探勝遊歩道、キャンプ場、ログハウス、ホテル、レストラン、テニスコート、体育館のあるあいらんどパークがある。
海洋釣り堀
津戸地区にある自然景観のよい、奥深い入江に海洋釣り堀があります。マダイ、イシダイ、スズメダイなどを太公望たちが気軽に釣り糸をたらしながら楽しめるようになっています。 |
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高田神社
高田神社は、中里地区にあり、南北朝末期の至徳年間(1384〜1387)に、佐々木隠岐次郎左衛門の娘、小花姫に神託があり高田山項の鳴沢の池から現われたご神体がまつられていると伝えられています。また、京都四条、金蓮寺の浄阿上人がこの社に一宿した時、夢の中に「花に今なる沢池の蓮かな」という高田の神の神示をうけ、さっそく京に帰り、二条良基など公卿、僧侶などの歌人に頼み、百首和歌と千句連歌をつくってもらい高田神社に寄進しました。この都の歌人によって歌われた和歌は高田神社の社宝になっており、県指定の文化財でもあります。 |
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伝統を受け継ぐ闘牛
八朔牛突き大会は、毎年9月1日に行われる壇鏡神社の例祭、八朔祭りの余興として開かれるものです。この牛突きの起こりは、隠岐に配流された後鳥羽上皇を里人がお慰めするために始めたと伝えられています。八朔牛突き大会の歴史は古く、戦国時代から始まったとの説があり、日本で最も伝統のある闘牛大会です。大会当日は、牛が豪華な化粧回しを身にまとい、鉢巻をしめ、職を何十本も立てての土俵入りを行い、巨体と巨体とが死力を尽して格闘する様子は見る者に感動と興奮を与えてくれます。 |
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あいらんどパーク
多目的広場、探勝遊歩道、キャンプ場、ログハウス、体育館、テニスコート、ホテルのある観光施設。ログハウスは本格的な丸太材を使った約100棟の貸別荘で、バス、トイレ、テレビ、電話を完備し、ゆとりとやすらぎを与えてくれる。 |
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海事まつり
海事まつりは、昭和59年に豊かな自然を生かし、村民と島民そして都会からの観光客など、人々との触れ合いを通し村おこしの起爆剤にしようというねらいから生まれたものです。奥津戸湾の砂浜一帯を海事の浜として海水浴場に開放、7月末から8月初めの日曜日2回だけの開催ですが、イタヤ貝のつかみ取りや地引き綱、バーベキュー等の催しや、マリンコンサートなどのイベントに大勢の人々が集まり、大変賑わっています。 |
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ジェットスキー
波静かで広い都万湾は、ジェットスキーの絶好のスポット。毎年8月には西日本大会など開かれています。 |
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スキューバダイビング
初級者から上級者まで楽しめる多彩なダイビングゾーン。親切なインストラクターが夢の世界を案内します。 |
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亀の原水鳥公園
人なつっこい合鴨、池をにぎやかにさせる真鴨、美しい色の鯉、その他自然の生き物、植物、大人も子供ものんびりとできる自然に囲まれた公園です。特につつじが咲く頃が見もの。 |
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油井水仙
都万の油井地区の海岸には野生の水仙の群落があり、12月〜3月の冬の風物詩となっています。 |
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ヒオウギ貝
近年、高級魚介類の資源減少が目立ってきている中、獲る漁業から"作る漁業"への転換を積極的に推進しており、栽培漁業の一環として、ヒオウギ貝の養殖をしています。ヒオウギ貝は暖海性の二枚貝で、栽培方法はイタヤ貝と同じですが、種苗生産は人工採苗を実施しており、漁業者にとって安定した収入が得られるなどの長所が多く、順調に養殖漁業者が増えており、今後生産量の増加により、日常の食卓に上がる日も間近です。 |
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