| 隠岐の地名由来
隠岐島は『古事記』『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が4番目にお生みになった土地で「隠岐の三子州(みつこしま)」と書かれています。「隠岐の三子州」とは、島後が親島で、島前の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親鳥に率いられた三つの子島の意味であるといいます。喜田貞吉博士によると島前三島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとってオキの島と呼称されるようになったということです。しかし『記紀』には、隠岐の地名由来は書かれておらず、なぜ「隠岐」の字を当てるようになったか定かではありません。オキと呼ぶようになった伝承として天照大神が、この島の40余丈もある木をご覧になって「美しき御木だ」といわれたことから、御木と付いたとも語り伝えられています。島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、次いで島全体の名称として沖の島が呼び名となったのでしょう。
島の明治維新
慶応4年(1968)西郷隆盛と勝海舟が江戸開城をめぐつて歴史的な会談を持ったころ、天領で松江藩預り地だった隠岐では、一般的に「隠岐騒動」と呼ばれる日本史上でも有名な事件が起きています。
この事件は同年2月に明泊新政府の山陰道鎮撫使(西園寺公望)が発した公翰(こうかん)を松江藩吏が無断で開封したことへの不満を直接の契機として、崎門(きもん)学の中沼了三(隠岐出身)らの影響をうけた島後の神官、庄屋層ら「正義党」が郡代の追放を決定し、3月に島民約三千人がほう起したものでした。そして郡代追放に成功した正義党は、西郷に会議所、総会所を中心とした日本史上でも画期的な自治政権を樹立したのでした。しかし、事件は戊辰戦争という内乱中のことで、中央政界の思惑も絡み、結局、新政府の命を受けた松江藩によって5月に武力鎮圧され、自治は80日間で終焉を迎えました。
この事件の原因は幕末以来の打ち毀しと対外的な危機感、そして天領の島民の持つ優越感が松江藩の支配に対して持っていた不満と「御一新」への期待感だったと考えられています。
この事件後の明治2年(1869)の春から夏にかけて島民の反封建的な革命エネルギーは、鬱積した不満の爆発のように、島内九十九の寺院と仏像の破壊や寺領百七十四町歩の没収という徹底した「廃仏毀釈」を生むのでした。
隠岐闘牛(牛突き)
承久3年(1221)8月、隠岐に到着した後鳥羽上皇は、船で海士の行在所(あんざいしょ)に向かいましたが、風波のために崎村から陸路で海士の苅田郷へ向かうことになりました。その途中で牧場の牛が角を突きあわせて戯れている情景に、上皇は大変喜ばれたそうです。その後、島人は上皇の心を慰めるために度々闘牛を催しました。これが隠岐の闘牛「牛突き」の起源と伝えられています。島民の娯楽として全島で行われて来ましたが、現在では島後にのみ残っている。
牛突きに出場するのは三歳から五歳までの隠岐産の牛に限られています。横綱クラスの牛になるには四、五年くらいかかり、体重は八百キロを越えるそうです。
各所で催される牛突き大会の中で、都万村壇鏡神社の八朔祭り(9月1日)に開かれる奉納牛突き大会が最も伝統をもち、年数回の牛突きの決勝大会とも言うべきものである。
牛突き用の牛は、初め農耕牛を使っていたが、現在は牛突き専用として生後1年ぐらいから訓練し、飼料も特殊なものを与え、丹精して牛突き用の牛に仕立てあげる。いよいよ決戦の日、島内各地から盛装して集まった牛たちが、大勢の観衆に見守られ東西に分かれて入場してくると、場内は熱気に包まれる。
いよいよ本番に入ると、頭取の合図で仕切りに入り、しばらく見合ったのち激しい突き合いが始まる。
勝敗をにぎる綱取りの男のきびしいかけ声に、鋭く削った角で突き合い、巨体をぶつけ合い血を流しながらの死闘が数十分、時には1時間にも及び、そのスリルと興奮は一方の牛が悲鳴をあげて逃げだした瞬間頂点に達し、勝った牛の回りには人々が我先にと駆け寄り、争ってその背にとび乗ろうとする。
隠岐の牛突大会は都万村以外に五箇村でも奉納大会(10月13日)が行われるほか、最近では観光用として西郷町などでも開かれている。しかし農耕に牛を使わなくなった近年、牛を育てる家が減り、牛の出場頭数が少なくなって釆ているのは淋しい限りである。
隠岐国分寺蓮華会舞
天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によ天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって、隠岐にも国分寺、国分尼寺が建てられました。七堂伽藍がそび、え、島内随一の壮麗さを誇ったと伝えられています。しかし、この国分寺の伽藍は明治2年(1869)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって焼失してしまいました。
この国分寺の檀徒によって現在に伝えられている風流が蓮華会舞で、「蓮華会」とは蓮の花が咲くころに行われる法会がいわれとされています。この舞楽や仮面劇の起源は奈良時代から平安時代に、インド・ビルマ・中国・朝鮮など広くアジア各地から伝えられたものとされています。
蓮華会舞は120種類以上の舞があったといわれていますが、現在は4月21日に、眠り仏・獅子舞・太平楽・麦焼き・山神貴徳(さんじんきとく)・竜王・仏舞の七番が、六孔笛・太鼓・饒ハチの雅楽が奏でられる中で舞われます。国の重要無形民俗文化財に指足されています。
しげさ節
隠岐は民謡の宝庫といわれます。隠岐を訪れた人がこの地の民謡を開いて、どこかで耳にしたことがあるような感覚を持つことがあります。
隠岐といえば昔から遠流の島といわれ、絶海の孤島のイメージがありますが、江戸時代の中期には本土の西からも東からも数多くの商船が往来して、西郷港などは大いににぎわいました。遠路を航海する船乗りにとって、寄港地での楽しみといえば酒やお国自慢の歌で、これらの歌は船が出た後も島に置き土産として残りました。いつの問にか日本各地の民謡は島の人情風俗に密着した歌詞に変えられて、やがて歌全体が島の人々のものになっていきました。
しげさ節は、越後民謡のメロディだけが残ったものといわれ、元歌は御開帳の様子を歌った真宗の和讃だといわれています。
隠岐で忘れてならないもう一つの民謡「どっさり節」は、「津軽じょんがら節」と同じ歌から誕生したものです。しかし、隠岐と津軽の風土の差でこれほど違った歌になってしまったのです。
隠岐は絵の島花の島 磯にゃ浪の花咲き 里にゃ人情の花が咲く
船は出でいく波止場には いとし島の娘が 涙でうたうしげさ節
隠岐神楽
島根には今も幾多の貴重な民俗芸能が伝承されています。これらを大まかに分類すると、神楽、獅子舞、田楽、風流、祭礼風流、舞楽、地芝居、人形芝居などに分けられます。中でも神楽は特に多く、全芸能の半分は神楽といっても過言ではありません。かつての村単位で一つ、中には二つといった組織で伝承され習いる所もあります。これは全国でも広島県とともに最も多い数といわれています。
神楽はわが国の代表的な神事芸能で、神霊を迎える座を意味します。従って神を招く所作を演ずることで、やがて神がかり状態になり託宣を行うというのが本来の筋で、七座神事と神能とから構成されています。今では神楽というと面を着けて舞い、長胴の大蛇を出したり火炎を吹かせたりする神話劇である神能を意味するようになっていますが、本来はそうしたものではありませんでした。
島根の神楽はそれぞれ舞い方、奏楽など違いはありますが、大きく出雲神楽、石見神楽、隠岐神楽に分けることができます。中でも出雲神楽は県内はもちろん全国に大きな影響を及ぼし、石見神楽は安芸、長門・方面にも影響を及ぼしてきました。出雲神楽は構成が七座と神能に整然と分けられていることが特徴です。七座とは神事のことで、素面で剣や榊を持って清めたりはらったりして舞うもので、古来の祭式が舞踊化したものと考えられています。神能とは神話劇で、鬼や大蛇、命、姫などが登場します。着面の神能も各地で多少異なりますが、国指定の佐陀神能が能の方式をとる独特のもので、慶長以来出雲はもちろん石見、隠岐、備後、備中など各地に影響を与えました。
石見神楽の社中は大小数えれば現在二百社を下らないといわれ、石見だけでなく長門・安芸の一部にまで見られます。出雲神楽との違いは、七座と神能が出雲ほど整然と分かれておらず、大部分は演劇風の能神楽で、本来の神楽からはさらに前進したショー化したものも多く見られます。ただし邑智郡桜江町市山に本部を置く大元神楽は神職により夜通し厳粛に舞われる神事舞で、古来からの託宣舞が継承されています。
隠岐の神楽は神社の祭礼よりもむしろ大漁とか豊作の祈願などのために舞われてきた祈願の神楽というところに特徴があります。社家といわれる専門の神楽師により伝承されてきました。演劇風のものが少なく、巫女舞が多いことも特徴の一つです。
遠流の島・隠岐…天皇、公家、学者など、隠岐の文化に大きな影響を与えた多くの流人 !
隠岐は「涜人の島」とよくいわれます。作家の司馬遼太郎は「日本史上の離れ座敷」と呼び、歴史の半面は「流人の歴史である」と言っています。また「隠岐国」とも呼ばれます。それは隠岐が佐渡、淡路、対馬、壱岐の四島とともに、八世紀に体系化された律令制度によって、一島で一国とされたからです。
隠岐が流刑の地となったのは、佐渡、常陸、安房、伊豆、土佐と合わせて、律令制度によって流刑の中でも最も重い「遠流の地」と定められてからでした。それ以来、江戸時代の終わりにかけて、天皇や皇族、公家、学者、僧侶などたくさんの人々が流されました。近世までの流人は政治犯がほとんどだったようですが、それ以後、隠岐には近畿、山陰、山陽方面の主として犯罪者が流刑されたようです。流人の中には隠岐の歴史を彩った人々が何人かいます。そのうちの一人、平安時代の学者で公家の小野篁(小野小町の祖父)は承和元年(834)に遣唐副使に任命され、中国へ派遣されることになりましたが、大使の藤原常嗣との間で遣唐船の交換を巡って対立、抗議した篁は病気と偽り、命令に服さなかったため承和5年に隠岐へ涜刑となったのです。篁は相当な文化人で、しかも美男の都会人だったので大変もて、二年の在島期間に三人の島の女性との恋の話が伝わっています。中でも美しい村の長者の娘「阿古那(奈)」との悲恋は、篁が阿古那に贈った二体の木像彫刻(西郷町上西の都万目に伝わっている歯痛に霊験があるとされる地蔵堂の「あごなし地蔵」)の伝説とともに、島人の哀感を伝えています。
思いきや ひなの別れにおとろへて あまのなはたぎ いさりせんとは
…小野 篁『古今和歌集』…
延応元年(1239)2月22日に、隠岐で60歳の生涯を閉じたのは後鳥羽上皇です。上皇は寿永2年(1183)に祖父の後白河法皇の院政のもとで天皇に即位し、建久9年(1198)から院政を行いました。上皇は朝廷での親幕勢力の排除に努め、公家勢カの伸張を図りました。そして、ついに承久3年(1221)こ朝権回復を目指し、時の鎌倉幕府の執権北条義時の追討を命じ挙兵しましたが、幕府軍に完敗しました。この承久の乱の失敗によって、上皇は隠岐へ配流されることになったのです。この年の8月に隠岐へ到着した上皇一行は、侍二人と女官、医師それぞれ一人のわずか四人の従者だけだったといわれます。
われこそは 新島もりよ おきの海の 荒き波風 こころして吹け
…後鳥羽上皇『遠島百首』
この和歌は渡海の際に、上皇が船中で詠まれたと伝えられています。
行在所は海士町苅田の勝田山の源福寺境内に急造され、近くには在地の豪族村上氏の居館があり、上皇のお世話をしていました。上皇はこの粗末な行宮で多 |